2020年5月31日日曜日

慶応3年記(11)11月 坂本竜馬(33)・中岡慎太郎(30)暗殺 油小路事件 薩摩兵3千・長州兵1200・芸州兵300入京 野州出流山挙兵事件

慶応3年記(10)10月 相楽総三ら、江戸薩摩藩邸に浪士隊結成 将軍慶喜、大政奉還の上表、討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失) 同日、「討幕密勅」(偽勅)下る 江戸薩摩藩邸が焼き討ち
より続く

慶応3年(1867)11月
・西周、徳川慶喜のために「議題(憲法)草案」を起草。欧州政治制度を参酌して作られる。
①一応三権分立の形式をとり、議政院が立法府で、「全国之公府」としての行政府は大坂に置かれ(従って、江戸には「御領之政府」=徳川領の行政機関が置かれる)、行政府の長には「公方様即チ徳川家時之御当代」がなり、これが「元首」となり、この「元首」が「大君」の位置につく。従来の将軍が国家元首として「大君」となる。
②朝廷の権限は元号や度量衡や宗教や叙爵等に限られ、政治的権限は全くなく、独自の軍事力を保有しないように配慮がなされている。
③軍事力は、将来の「統轄」を予測しつつ、当面はそれを「天下之総役」として、各藩に分担させ、その動員は、絶大な権限をもつ「大君」の下での議政院と公府の会議で決定する。
④「土地経界之儀は現今之通たるべき事」と、これまでの領主の領有権をそのまま認める。
・土佐藩、野中太内ら三十人組、後藤象二郎や乾退助らの政策に反対の意を示し弾劾を訴える。
・森鴎外(5)、養老館教授村田美実宅に通い「論語」の素読を始める。6歳、藩の儒者米原綱善に師事し「孟子」を学習。7歳、養老館に入学、四書の復読に通う。8歳、五経の復読に通う。父についてオランダ語を学ぶ。9歳、養老館に左国史漢の復読に通う。夏、蘭医室良悦について「和蘭文典」を学ぶ。
・9月下旬~10月上旬に始まる江戸の「お札」ふり、11月~12月には数十回に及ぶ。但し、江戸では京都・大坂のようなええじゃないかの狂乱には至らず。
・江戸で鉞強盗横行。隊伍を組み毎晩数軒に及ぶ。慶喜の大政奉還により戦争の口実を失った薩摩藩の江戸・関東で騒乱を起させるための計画。益満休之助・伊牟田尚平らが江戸薩摩藩邸で指導。また、関東各地で混乱を起すため、相模・武蔵・常陸・上総・下総などで「勤皇」「討幕」の騒乱を起す。
・ニーチェ、懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」が受賞。翌年、翌々年の「ライン文献雑誌」掲載。
・マルクス、アイルランド問題を研究。
11月1日
・坂本竜馬、松平春嶽と面会。後藤よりの上京要請を伝え由利公正(三岡八郎)との面会を願い出て許される。
土佐藩の大政奉還論の変遷、倒幕派・福井藩との関係。土佐藩が大政奉還を幕府に建議する経緯では、倒幕派の薩摩藩・宇和島藩と密接に交渉するが、一貫して公議政体路線をとる福井藩とは交渉なし。後藤等が山内容堂に建議した時、その大政奉還の中味は前期(一諸侯としての徳川家を含めた「列侯会議」を朝廷直属とする)と異なり、徳川家が「列侯会議」ヘゲモニーをに掌握する体制に改めらる。福井藩の主張に極めて近いものとなり、建白が幕府側に容易に受け入れられたとみなせる。従って、今度は、土佐・薩長間に大きな情勢変化をきたし、土佐藩は、速やかに福井藩の支持・協力が必要として竜馬の福井訪問になる。
・松平容保、進退伺いを出す。
11月2日
・坂本龍馬と越前藩士三岡八郎、福井城下の煙草屋某亭で会談。新政府財政金札発行のことを相談。三岡は、安政(1854~60)期藩政改革で藩札5万両発行による財政改革成果を説く。辰より子(午前8時~午後12時)に至る。(「越前公用日記」では「晦日朝三岡八郎儀龍馬旅館へ到ル七ツ時過帰ル」)。3日福井発、5日帰京。
・薩摩藩士寺島宗則(2度の欧州体験)、藩主茂久に版籍奉還の必要性建言。
11月3日
・土方歳三、江戸で募集した隊士を連れ大津へ到着。
・パリ万国博覧会参加のため欧州訪問の会津藩横山主税(20)・海老名季昌(24)ら、徳川昭武と別れて帰国。横山は白河城攻防戦で戦死。
・熊本の横井小楠、松平春嶽宛てに建言書を著す。
大政奉還により成立する新政権の基本方針。「幕庭御悔悟御良心発せられ、誠に恐悦の至也」で始まり、直ちに4藩(福井・薩摩・土佐・宇和島)諸侯が出京して朝廷を補佐し、慶喜も滞京して大久保忠寛等「正議の人々」を挙用、「御良心御培養、是れ第一の希ふ所也」と述べる。次いで、「一大変革の御時節」であるから「議事院」を開設するよう提案。「上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」が肝心で、4藩がまず執政職の位置を占め、その他は賢名の聞こえのある諸侯を登用せよと強調。更に財政・軍事・外交・貿易などの具体的施策を披瀝。
・ジョゼッペ・ガリバルディ、教皇・フランス連合軍に敗れ捕虜となる。ガリバルディ挙兵はフランス軍をローマ防衛に呼戻した結果となる。
11月5日
・坂本龍馬ら、福井の旅から帰京。「新政府綱領八策」(諸侯会盟の覚書)を草し慶喜自ら盟主となることを擬定。新政府案参議中に龍馬自身の名のなきことを西郷が尋ねると「世界の海援隊でもやる」と答える。この頃、京都河原町四条上ル醤油商近江屋新助方に移る。
・海軍伝習所を江戸に設け英人を聘して教習開始。
11月6日
・後藤象二郎、京都政情の報告と山内容堂の上洛要請のため土佐へ帰着。
・野村望東尼、三田尻で病没。
・カナダ自治領の初めての議会開会。オタワ。
11月7日
・龍馬、陸奥あて海援隊への指令書と共に「世界の話」をしたいと通信。
・ポーランド、マリー・キュリー、ロシア支配下ワルシャワに誕生。
11月8日
・岩倉に洛中帰住を許す。
・松平春嶽、入京。翌9日、土佐藩士福岡孝弟の訪問をうけ、慶喜に会議を「御主宰」させるとの土佐藩側意向を承知、その公議政体路線に沿った入説活動を進めるとの態度を明らかにする。
11月9日
・新撰組後藤大介ら、伏見奉行与力横田内蔵允を殺害。
11月10日
・長崎にていろは丸賠償金8万3千両を7万両に減額妥協、中島は6500両を携帯し出航。
・松前崇広、老中となる。
・月真院の斎藤一、近藤の殺害計画を報じ、新選組に復帰。
11月11日
・朝、龍馬、永井玄蕃を訪問「天下の事は危共御気の毒とも言葉に尽くし不申候」と話す。同日、林謙三(安保清康)あて北海道開拓意見と「方向を定めシユラか極楽かに御共可申奉存候」と発信。
・新選組、戦争の支度をして大坂伏見奉行邸へ引き揚げる。
・長藩士山田宇右衛門(55)、没。
11月12日
・紀州藩急進派の田中善蔵、同藩士に暗殺。
・長州軍、討幕のため尾道に上陸。
・徳丸原騒動。錬兵場を大砲稽古場として拡張する計画に対する反対闘争。
この日、拡張地の徳丸村・赤塚村など6ヶ村への現地見分。6ヶ村村民3千が役人・フランス人を包囲、役人3人を留め置く。13日、フランス人が別手組を伴い鳥猟に来て、役人4人が勾留される。のち、徳丸・上赤塚・下赤塚3村は圧力に屈する。26日の初調練には、戸田の三軒屋に数千本の竹槍が準備される。
11月13日
・龍馬、陸奥あて脇差しを贈る文(絶筆)を与える。
・(新12/8)薩摩藩主島津忠義、兵を率いて京へ出発。
・京都北町奉行、ええじゃないかを禁止。これを境に京都の狂乱(10月中旬~)は終る。
・ええじゃないか、尾道に発生。
11月14日
・小浜でもお祓札が降るが、藩が事前に触を出しており、踊り出す者もなく平静。
・幕府、土佐藩邸へ宮川助五郎返還を通告。
・龍馬、風邪気味で近江屋の土蔵密室より母屋の二階に移る。
11月15日
・(新12/10)坂本竜馬(33)暗殺。下宿先近江屋にて、佐々木唯三郎以下7人の見廻組(渡辺吉太郎、桂隼之助、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎)。箱館五稜郭で捕虜となった旗本の息子で元見廻組今井信郎の自供。17日、中岡慎太郎(32)没。
土佐藩邸より曽和慎八郎、谷守部(千城)、毛利恭助、陸援隊田中顕助、薩藩吉井幸輔、医師川村盈進来りついで酢屋より白峰駿馬、沢屋より陸奥源二郎(宗光)駆けつける。
・山内容堂、王政復古庶政一新を前に藩政の更始一新を宣言。藩政一新に伴い、勤王党の獄で捕らえられた人々が大赦。
・大久保利通、鹿児島から高知に寄り藩主入京に先んじて入京。龍馬暗殺にふれて岩倉具視への書翰「坂本首メ暴殺之事ー第一近藤勇ガ所為ト被察申候。実ニ自滅ヲ招之表カ」(11月19日)。
以後、連日倒幕派の堂上(岩倉具視、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛等)と会談し、慶喜の罪を問う新たな形式として復古クーデタを協議。しかし岩倉以外の堂上は、奉遼上表提出によって慶喜の罪を問う名義が消失したとしてクーデタには消極的。中山らは、12月初、ようやくクーデタ決行を諒承。
11月16日
・下男山田藤吉絶命(25)。京都から急報により大坂薩万にいた小野淳輔(高松太郎)、関雄之助、千屋寅之助、長岡謙吉、坂本清二郎ら京都へ急行。
・土佐藩監察吏、海援隊に潜入した新撰組スパイ村山謙吉、捕縛。17日、村山謙吉、土佐の在京参政神山左太衛や陸援隊水野八郎らの拷問の後、処刑。
11月17日
・三田尻、薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、軍艦で集結。18日、長州藩世子毛利元徳・木戸・広沢と出兵協議。
・重傷の中岡慎太郎(30)、没。
11月18日
・(新12/13)油小路事件。山口二郎、紀州三浦休太郎の許から新選組に戻る、 伊東甲子太郎(25)、油小路木津屋橋で大石鍬二郎らに要撃され本光寺門前で斬られる。その亡骸を引き取りに出向いた、伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎ら7名、新選組40余の要撃を受け、藤堂平助・服部武雄・毛内有ら4名が殺害される。鈴木・篠原泰之進らは薩摩屋敷に逃れる。
・後藤象二郎、第1・2別撰小隊と共に京都へ出立。21日、京都着。
11月19日
・会津藩より伊東甲子太郎ら4人の葬料として20両下る
・岩倉具視、石薬師御門外の大久保一蔵邸を訪問。19日、岩倉具視より大久保利通あて書翰「此の悲しみ必ず報ぜざるべからず」。
11月20日
・薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、大坂着。
11月22日
・長州藩広沢真臣、広島で芸藩植田乙次郎と出兵協議。
・いろは丸事件賠償解決の中島、石田英吉・大江卓らと(12日長崎出帆)土藩船横笛で神戸着。
・油小路の戦いで血路を開いた鈴木三樹三郎・篠原泰之進、薩摩の大久保市蔵らに新選組の暴挙を語る。伊東・藤堂・服部・毛内の亡骸を四条大宮の光縁寺に埋葬。近藤勇、永井主水正に呼び出され、坂本竜馬・中岡慎太郎らの近江屋事件について糾問される。
・兵庫商社、第1回の金札の1万両の発行および引き替えを行う。
・(新12/17)江戸城二の丸長局より出火、二の丸が焼失・
11月23日
・薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、京都入り。
・幕府、横浜外人居留地取締規則を設定。
11月24日
・外国奉行平山敬忠・会津藩佐川官兵衛・米沢藩甘粕継成・長岡藩主牧野忠訓・同家老河井継之助、幕府の順動丸で品川から大坂に向かう。プロセン公使ブラント・通訳ヘンリー・シュネルも同じ船に乗り合わせ、河井はシュネルと知り合う。
この年12月22日、シュネルはプロイセン領事館の職を解かれ、会津藩松平容保に軍事顧問として召抱えられ平松武兵衛を名乗り羽織袴を着用。
・江戸薩摩藩邸より、野州挙兵隊(隊長竹内啓)40~50人、甲府城攻略隊(隊長上田修理)出発。他に相州襲撃隊(隊長鯉淵四郎)あり。
11月25日
・長州軍1200、軍艦6隻で三田尻出発、東上。29日、摂津打出浜上陸。
・大政奉還派土佐藩・福井藩の公議政体入説協議。26日、福井藩中根が尾張藩田宮如雲を訪ね、酒井が熊本藩邸に出向く。
土佐藩後藤象二郎・福岡藤次(孝弟)・神山左太衛と福井藩中根雪江・酒井十之丞・青山小三郎が福井藩邸で協議。「一藩にても同論多き方、力も強く説も立可申」とし、福井藩は尾張・熊本両藩へ、土佐藩は広島・薩摩両藩へ、広島藩からは鳥取・岡山両藩への入説を決め、翌日より入説活動を始めるが、大政奉還派=公議政体派が期待を寄せる「列侯会議」が開かれないうちに、12月9日、薩摩藩主導の武力討幕派による「王政復古」クーデタに見舞われる。
・大森事件。荏原郡不入斗村(大森の鈴ヶ森)で雁猟のフランス兵2名、雁を奪い名主宅に逃げ込んだ農民を追い名主に暴行、フランス兵1人と別手組2人が農民に勾留される。農民5~6千が八幡盤井神社に屯集し引渡しを拒否。別手組頭取らが身代わりとなりようやくフランス人は解放される。
11月26日
・近藤勇、坂本・中岡暗殺について事情聴取される。
11月27日
・野州出流山挙兵組(隊長竹内啓)、栃木に入る。
・土藩船「空蝉」乗船した松井・岩崎、長崎に着。佐々木や海援隊へ、龍馬の死を伝える。
11月28日
・後藤象二郎・福岡藤次、諸公会議と簾前会議の開催について西郷吉之助と面談。
・芸藩世子浅野茂勲、兵300率い入京。
・幕府、ロシアと改税約書に調印。
・(新12/23)江戸の鉄砲洲を外人居留地とする。
11月29日
・長州藩兵1200、兵庫上陸。
・大久保利通、正親町三条実愛にクーデタ決行明言。
・野州出流山挙兵事件。千手院で宣誓結党式。/27.竹内啓(川越在医師)ら十数人、江戸から栃木へ。/12/初.150人の浪士結集。/12/10.幕府、下野屯集賊徒召捕り命ず。12/11.幕兵により包囲殲滅。/13.出流・岩船山下の戦い。全滅/15./18.佐野河原で処刑51人/24.竹内処刑、松戸
11月30日
・東上軍総督毛利内匠と長州兵、西宮に到着。
・河井継之助、藩主牧野忠訓とともに藩士60名を従えて上坂。
11月末
・仏、警視総監、「政府への畏敬の念はうすれてしまい、すべてが中傷によって冒されている」と皇帝に報告。
この月、イタリア独立の志士マナンの墓前で、フランス軍隊のイタリア干渉に反対する示威運動。グラヴィリエ派の参加を口実に、政府は、トラン及び同志を引出して裁判に付し、インタナショナル支部には解散を命じる。直ちに製本工ヴァルランを中心に新しいメソバーで別の事務局が組織され、ジュネーブ建築労働者ストライキの為に数日間に1万フランの醸金を集めるのに成功。政府はこれを口実に新委員会も解散し、責任者に3ヶ月の禁錮を宣告。政府は、革命化しつつあるインタナショナルに弾圧を加える一方、人気取り政策から、言論および集会の取締規則に関しては若干の緩和を行なうが、政府反対派の懐柔には役に立たず、却ってその活動は一層活発となる。
1867年恐慌はフランス経済にかつてない衝撃を与える。企業破産と操短は、失業者増・賃金引下げをもたらし、加えて生計費高騰は都市の労働者・手工業者等を窮乏に追いやる。セーヌ県知事はパリには100万人が飢餓状態にあると報告。労働者にとって67~68年冬は帝政期を通じて最悪。経済不況を背景に、議会での政府批判、第1インターナショナル・フランス支部設置、反政府系新聞増加、集会開催などが、民衆の反政府意識を強め、かつてない労働運動の昂揚をもたらす。

つづく






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