2020年5月30日土曜日

慶応3年記(10)10月 相楽総三ら、江戸薩摩藩邸に浪士隊結成 将軍慶喜、大政奉還の上表、討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失) 同日、「討幕密勅」(偽勅)下る 江戸薩摩藩邸が焼き討ち

慶応3年記(9)9月 正岡子規誕生 長州藩、内戦に備え藩政大改革 薩長挙兵討幕盟約 討幕に関する桂小五郎・坂本龍馬往復書簡(4日、20日) 龍馬、銃1千挺を土佐へ届ける
より続く

慶応3年(1867)10月
・柳川春三「西洋雑誌」創刊。
10月上旬
・江戸芝新馬場薩摩藩邸、益満休之助・伊牟田尚平・小島四郎(相楽総三)、着。
~中旬。江戸攪乱工作のため浪士集め。11月末まで500人。糾合所屯集隊組織。総裁相楽総三(28)、副落合源一郎(41)、大監察権田直助(59)、長谷川鉄之進(46)、斉藤謙助(38)。
10日、相楽総三らたち、江戸薩摩藩邸において浪士隊の決起大会を開く。
10月1日
・坂本竜馬、震天丸で浦戸発。5日、風浪のため室戸岬で乗船破損、須崎にて土佐藩船空蝉(胡蝶丸)へ乗り替えて上坂。
・後藤象二郎、近藤勇との再開を果たせず。大政奉還の建白で多忙との詫状が近藤勇に届く。
10月2日
・後藤の奔走により土佐藩大政奉還建白書提出を薩藩西郷ら了承。
10月3日
・後藤象二郎・福岡藤次、容堂名で大政奉還建白書を老中板倉勝静に提出。4日、寺村左膳・神山左多衛、大政奉還建白書の写しを公家二条斉敬へ提出。
・長州藩当局、出兵中止=失機改図を決す。一方、在京倒幕派は、なお予定通りの活動を続け、倒幕宜旨の降下を急ぐ。
①芸州藩の動揺。在京の老臣辻将曹は、後藤象二郎の説得を受け、挙兵協力から大政奉還建白協力に態度変更、藩地にもこの方針採用を要請、藩地は辻の要請と長州藩の協力要請との板挟みになり動揺。
②薩摩藩藩地での根強い出兵反対論のため薩摩藩は予定の時期に軍船を三田尻へ送ることができず。
・薩藩士大山格之助、兵400率い鹿児島出発。6日三田尻到着。
10月4日
・後藤象二郎、会津藩公用人外島義直・手代木勝任と会談。
10月5日
・近藤勇、大政奉還建白書の写しを一覧したい旨の書翰を後藤に送る。
10月6日
・大久保利通・品川弥二郎・岩倉具視・中御門経之ら、王政復古の方略を謀議。
・芸州藩主浅野茂長、大政奉還建白書を幕府に提出。
・龍馬、大坂着定宿「薩万」へ投宿、海援隊同志と再会。
・開陽丸を中心とした徳川艦隊に兵庫沖への出動命令。12月7日の兵庫開港式典のため。翌日、江戸湾を出航。
10月7日
・白川の土佐陸援隊に潜入の新選組密偵村山謙吉、「10月15日、二条城には薩摩兵、所司代に陸援隊と十津川郷士、新選組屯所には他の浪士達が襲撃」との武力蜂起諜報をもたし、これを京都守護職へ報ずる。
10月8日
・長藩士広沢真臣・品川、薩藩士小松・西郷・大久保、芸藩士辻・植田乙次郎等、3藩合同対幕を議決。9日、大久保・広沢・植田、中御門経之・中山忠能を訪問。薩・長・芸3藩の出兵計画示す。
10月9日
・岩倉具視、王政復古の意見書を密奏。
・坂本竜馬、入京。中島作太郎・岡内・戸田らと醤油屋近江屋新助方投宿。
・長州藩福田侠平、薩摩藩の出兵遅れを質すため上京。長州藩の失機改図を知らせる。在京倒幕派は急遽予定を変更、大久保利通・西郷隆盛らは一旦帰藩して茂久出馬を求めることになる。
・薩摩藩家老島津主殿率いる兵、三田尻集結。
・近藤勇、松平肥後守容保から板倉勝静と永井主水正の身辺警護の厳命を受ける。
・ニーチェ、ナウムブルク野戦砲騎馬連隊に入隊し、訓練を受ける。
10月10日
・坂本竜馬、白川村の陸援隊中岡訪問、中岡は兵器を並べて「何時にても蹶起すべし」と、討幕の意気をみせる。また後藤を訪い大政奉還の様子を訊く。この頃、巷には「海援隊壮士300人を連れて上京」の評判たつ。同日、福岡孝悌の紹介で幕府大目付役永井尚志を訪問、建白採用を歓説。「後藤より一層高大にて説く所も面白し」と永井批評。
・ニュージーランド、マオリ族に下院議席を与える法案可決。
・バイエルン王ルートヴィヒ2世、ゾフィーとの婚約解消。
10月11日
・政治家鈴木善三郎、誕生。
10月12日
・松平春嶽、老中板倉勝静宛て書翰。後藤の「公議論」が、薩摩・宇和島両藩の討幕論に利用される危惧を表明。
土佐藩の「公議論」策定に薩摩・宇和島両藩との関連性を憂慮、「西洋法之論を借て、私説を恣にせんか為、議事院を開かんとする覚も随分可有之哉候へは、若々其向々より朝廷へ議事院建白出候而も、軽率御採用被為在候而は、天下之一大変動眼前に生し可申は勿論と、深く心痛仕候」(「丁卯日記」)と半ば警戒的な態度。
・6日に三田尻に到着した薩摩の軍船の使者が上京、藩地の状況がより明白となり、大久保・西郷の帰藩が急がれ、挙兵計画はここで打切り。
10月13日
・将軍慶喜、容堂の建白により8ツ時(午後2時)、二条城に在京40藩の重役を召集、政権奉還を伝える。
・西周、慶喜に国家3権の区別、英国議員制度のことを尋ねられる。
・夜、岩倉具視より毛利敬親・元徳父子に官位復旧沙汰書が大久保・広沢に渡される。
・龍馬、後藤を激励往復文書に双方の決意を示しあう。下城後、後藤、その成功を「大樹公政権を朝廷ニ帰す之号令を示セリ」と報ずる。龍馬は傍にいた中島信行へ「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな」と落涙。
10月14日
・(新11/9)大政奉還上表。慶喜、大政奉還の上表。討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失)。
薩長両藩ら討幕勢力は慶喜を逆賊として武力で討伐し、政権のみならずその領土も剥奪する計画。慶喜は薩長の戦略を見抜き、自ら政権を投げ出し朝廷に返上することで、賊軍として討伐出来ない状況を作り出すことに成功。更に親徳川派福井藩前藩主松平春嶽・土佐藩前藩主山内容堂の協力を得て、新たに成立する京都政権(大名連合政府)の首相格として自分(慶喜)を任命させる所までの状況を作り上げる。
この頃、慶喜の求めにより、幕臣西周が幕府の国家構想を建議。行政府(「全国、外国、国益、度支(会計)、寺社」の5事務府)・議政院(大名に上院、藩士の下院)の2権を立てる。公家は山城国から「外出」できず、外出しても「平人」として扱われるなど朝廷の特権は大幅に制限。
これに対して、討幕勢力の巻き返しのため、薩摩大久保利通・西郷隆盛は、旧幕府勢力を挑発、激昂させ、強引に軍事衝突に持ち込みこれを撃破する謀略を決意。こうして、年末には薩摩藩が扇動する浪士達が江戸市中で次々に放火・略奪などのゲリラ活動を展開、このゲリラ活動に業を煮やした江戸城在住の小栗忠順等の過激派勢力が庄内軍に命じて江戸の薩摩藩邸を襲撃、これにより徳川と薩摩は交戦状態に入る。
「臣慶喜、謹みて皇国時運の沿革を考候に、昔し綱紐を解き相家権を執て、保平の乱、政権武門に移てより祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職を奉ずと雖も、政刑当を失ふ事不少今日の形勢に至候も、畢竟薄徳の所致、慙懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候へば、必ず海外万国と並立つべく候、臣慶喜国家に尽くす所、是に過ぎずと奉存候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨諸侯へ相達し置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上 慶応三年十月十四日 慶喜」(「山内家文書維新史」)。
・討幕密勅。大久保一蔵・広沢兵助らの働きにより正親町三条実愛より薩長両藩主父子に「討幕密勅」下る(実際は天皇が下したものでなく岩倉・中御門・正親町三条・中山の合作の「偽勅」)。松平容保・松平定敬誅伐の宣旨も手交。
「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族の強を恃み、妄に忠良を賊害し、数ば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、溝壑に万民を擠れて顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母たり、是の賊にして討たずんば、何を以てか、上先帝の霊に謝し、下万民の深□に報ぜんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万已むべからざるなり。汝、宜しく朕の心を体し賊臣慶喜を殄戮し、以て速度やかに回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢て懈るあるなかれ。」(「維新史」)。「会津宰相 桑名中将 右二人、久しく輦下に滞在し、幕賊の暴を助け、其の罪軽からず候。これに依り、速やかに誅戮を加ふべき旨、仰下され候事」(「維新史」)。
10月15日
・朝廷、慶喜の上表を聴許(大政奉還を受理)。朝廷慶喜を参内させ大政奉還勅許の御沙汰書を渡す。
・中井弘(薩摩)・土佐の結城幸安、横浜を出帆し英国へ向かう。
10月16日
・坂本竜馬、戸田雅楽と「新官制案」草す。
・いろは丸再交渉。紀州藩三宅精一郎、土佐藩中島作太郎。賠償金7万両、内4万2500両は原有主大洲藩へ返還
10月17日
・西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、討幕密勅携えて鹿児島へ向かう。戸田雅楽、坂本龍馬らの起草した新官制擬定書を西郷に渡し鹿児島まで同行。
10月18日
・[露暦10月6日]アメリカ,ロシアより720万ドルでアラスカを購入。
10月19日
・いろは丸賠償金再交渉を受け、龍馬の代理として中島信行を長崎へ派遣。
10月20日
・朝廷、慶喜を召し朝議。慶喜、御委任の権限につき八箇条の伺書提出。
・大政奉還の報、江戸城に到着。
・長岡謙吉、薩摩藩士田中幸助と共に後藤象二郎らの内意をうけ横浜へ出張。
10月21日
・朝廷、薩長に倒幕密勅の実行の猶予を命じる。
・大久保一蔵、三田尻に到着。
・西郷吉之助と長州藩、三田尻で討幕について打ち合わせる。
・広沢兵助・福田侠平、山口に到着。密勅を藩主毛利敬親に提出。
・土方歳三ら、池田七三郎・井上泰助ら新入隊士を引率して江戸出立。
10月22日
・朝廷、徳川慶喜に庶政を当分委任する(暫時庶政委任)。
・福知山藩家老飯田節、薩摩藩士と誤認され暗殺。
・小笠原壱岐守長行、各国使臣に対して政権返上の旨を通告。
10月23日
・江戸城二ノ丸焼失。
・徳川慶勝、病をおして名古屋を出発上京。
10月24日
・慶喜、松平越中守定敬を参内させ将軍職辞表提出。
・幕府、老中格兼陸軍総裁大給乗謨、老中格兼梅軍総裁稲葉正己、若年寄兼会計奉行永井尚服、若年寄兼陸軍奉行下館藩主石川総管らに上東を命ず。
・坂本龍馬、三岡八郎の政策を取り入れるべく岡本健三郎を伴い福井へ出発。
・稲葉兵部少輔ら、京都情勢黙視できないと順動丸で江戸を出帆。
・イタリア、カブレーラ島脱出のガリバルディ、息子メノッティ・ガリバルディ指揮義勇隊に合流。モンテロトンドで教皇軍撃破。
10月25日
・江戸薩摩藩邸が焼き討ち。90人が戦死。
10月26日
・朝廷、慶喜へ諸侯上京まで将軍職を待つべきを指示。
・西郷吉之助ら、討幕の密勅を持ち鹿児島に到着。
・鹿児島、大久保ら、藩主父子・藩中枢を説得。
10月28日
・坂本龍馬・岡本健三郎、土佐藩の使者として越前福井着。山町煙草屋へ投宿。福井の村田巳三郎を訪問。
・毛利敬親、出兵を藩議決定とする。
・フランス軍、ガリバルディの攻撃に備えローマ出兵。
10月29日
・薩摩藩主島津茂久、率兵上京決意。
10月30日
・エンゲルスの「資本論」の最初の書評、ベルリンの「ツクンフト」紙に載る。ほか数紙に「資本論」書評を書く。
10月下旬
・マルクス、北ドイツ国会に初めて登壇するリープクネヒトに2~3の指令を送る。

つづく


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