2020年5月29日金曜日

慶応3年記(9)9月 正岡子規誕生 長州藩、内戦に備え藩政大改革 薩長挙兵討幕盟約 討幕に関する桂小五郎・坂本龍馬往復書簡(4日、20日) 龍馬、銃1千挺を土佐へ届ける 

慶応3年記(8)8月 イカルス号事件談判(高知、長崎)、海援隊への嫌疑はれる 坂本龍馬、密かに高知上陸 一橋家臣・慶喜侍臣原市之進暗殺 名古屋にお陰参り「ええじゃないか」おき、諸国に蔓延
より続く

慶応3年(1867)9月
・幕府、老中以下諸役の足高・役知・役料・役扶持等を廃止して、老中以下に役職に応じて一定額の役金を支給する制度を定める。この措置は、実力派吏僚進出および五局制採用と相まって、幕府行政機構の簡素集中化・官僚化を進める。
・ジャパン・タイムズ創刊。
・長州藩、内戦に備え藩政大改革。
「有司」の実務役人に実権集中。藩政務は「国政方」、財務は「国用方」の2局に集中させ、全体を「用談役」木戸孝允(90石)が支配し、政治的中立の実務役人も多く登用。武士・庶民混成の諸隊が長藩の精鋭軍であるが、足軽・手子・中間・陪審らの下級武士も、装条(ライフル)銃隊と大隊に編成。上級藩士は、従卒を連れることを禁止され、「単騎働き」(一兵卒)となり「散兵」(地位の低い補助軍に編入)。秩序の逆転。
木戸は、小松・西郷・大久保らと協議、藩を超えた結束を固める(「強兵富国開明派の横断的統合」)。「今日の長州も、皇国の病を治しそうろうには、よき道具」(木戸)と、藩を国家形成の道具と見る。木戸・西郷・大久保ら「有司」が藩から自立し始める。
・アントン・ルビンシュテイン、ロシア音楽協会・音楽院の全てから手を引く。
・イタリア、フランス軍撤退(66/末)後、ローマ侵攻準備のガリバルディ、ナポレオン3世の警告によりイタリア政府が再びカブレーラ島軟禁。10月、脱出。
・英、【マンチェスターの受難(殉死)】IRB指導者ケリー逮捕。護送馬車襲撃により奪還、警官1死亡。マンチェスターのアイルランド人一斉検挙。有罪3人。/11/23.死刑執行。
・ジュネーブ、「平和と自由の連盟」創立大会。左派バクーニン、第1インターとの合同図るが失敗。
9月1日
・後藤象二郎、山内容堂の大政奉還建白の命を受け土藩船空蝉にて浦戸を出発。2日、大坂上陸心斎橋道筋で西郷に出会う。3日西郷、後藤面談。
「誠惶誠恐謹みて建言仕候、天下憂世の士、口をとざして敢えて不言に至り候は誠に可懼の時に候、朝廷・幕府・公卿・諸侯旨趣相違ふの状あるに似たり、誠に可懼の事に候。此二懼我の大患にして彼の大幸也。彼の策、是に於てか成ると可謂候。如此事態に陥り候は、其責至竟誰に可帰や。併し既往の是非曲直を喋々弁難すとも何の益かあらん。唯願くば、大活眼、大英断を以て、天下万民と共に、一心協力、公明正大の道理に帰し、万世に亘て不恥、万国に臨んで不愧の大根底を建てざるべからず。・・・只管此事のみ日夜焦心苦思仕り罷在候。因りて愚存の趣、一二家来共を以て言上仕候。唯幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万国に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と奉存候。猶又、別紙とくと御細覧仰せ付けられ度く、懇々の至情黙止し難く、泣血流涕の至に不甚候。 慶応三年丁卯九月 松平容堂」(「山内家文書維新史」)。
9月2日
・龍馬、岩崎より吉国の刀を借り携える。
・~8日。ローザンヌ、国際労働者協会(第1インターナショナル)第2回大会開催。マルクス欠席。
9月3日
・(新9/30)上田藩士赤松小三郎(英国兵学者)、中村半次郎に暗殺。
・(旧8・6)徳川昭武ら、ヨーロッパの条約締結各国巡歴の途に就く。
9月4日
・桂小五郎、坂本龍馬宛書簡。再び大政奉還によせて「此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひ」「大舞台之崩れは必然」と忠告。
「爾後いよいよご壮榮に引継ご高配遙察奉り候。さて滞崎(長崎滞在)中はいろいろご高意を蒙り多謝奉り候。ご迷惑の一条如何お片付あい成り候哉、早々お済にあい成り候邊、陰ながら心急かしく存じ奉り候。平時にご内話あい窺い候、上の方の芝居も近寄どもは仕らず哉。何分にもこのたびの狂言は大舞台の基をあい立候次第につき、是非とも甘く出かし申さずてはあい済まず、世間且々役に立ち候、頭取株は申すにおよばず、且また舞台の勤まり候ものどもは仲間に引き込み候工風もまた肝要と存じ奉り候。何分にもご工風ご尽力ねがい奉り候。庄村氏の一條如何、是もせめて内輪だけにても芝居の趣向を立、つまり外の大芝居の役に立ち候こと六つかしき都合に候えば、却って内の芝居にて外へ出ぬだけにても然るべしと存じ奉り候。いづれ外の役は六つかしきと存じ奉り候。且つ又乾頭取の役前この末は最も肝要と存じ奉られ申し候。なにとぞ万端の趣向、ここにおいては乾頭取と西吉(西郷)座元と得と打合にあい成りおり、手筈きまり居り候こと尤も急務かと存じ奉り候。この狂言食い違い候ては、世上の大笑いとあい成り候はもとより、ついに大舞台の崩れは必然と存じ奉り候。しかる上は芝居はこと止みとあい成り申し候。ご同意に成らせ在候はば、一飛脚にても乾頭取元へ差越され、ご決定にあい成り居り度候ことかと存じ奉り候。ぜひ乾頭取はこの後は西吉座元とご同居くらいにても然る可様存じ奉り候。ご高案如何、狂言の始末一定の所甚だ肝要に存じ奉り候。且つまた大外向の都合もなにとぞ其の御元ひこなどと極内とくと仰せられ談置、諸事お手筈専要に是れまた存じ奉り候。実に大外向のよしあしは必ず芝居の成否盛衰に訖度あいかかわり申し候。この上ながら四方八方へ御目をおくばり成らせ候てご尽力、芝居大出来と申すところに至り候ようご高配陰ながら祈念奉り候。乾頭取のところも場合に後れては、丸々狂言は出来申さずは元より、実にいかよう考え申し候ても大舞台はそれぎりと存じ奉り申し候。即ち義経の早く行ってまつことあればいさぎよく、おそくていそぐ道は危しとはこの場合かと愚考仕り候。時に拝借金大いにありがたく存じ奉り候。近日御地へ差し送り申し候あいだ、急ぎ早々ご返上仕るべく候。宜しくお聞済遣され候べく願い奉り候。先は幸便に任せ、取り敢えず愚考のまま申し上げ候。ご取捨願い奉り候。毫末ながら佐々木君はじめ諸君へ然るべくご致意願い奉り候。その中時下ご時玉第一に存じ奉り候。 匇々頓首拝。 九月四日 尚々この芝居に付候ては少しも損のいかぬようご工風ならせ在、且また役に立ち候ものは御引込みならせ在たく、迂遠ながら存じ奉り候。敬白。 さい様御内拆御火中 きと」
・木戸準一郎、長崎より馬関に帰る。
・後藤象二郎、大政奉還の建白書を持ち京都に到着。
・幕府、デンマークと通商本条約を締結。
9月6日
・幕府、伊太利と通商本条約締結。
・島津備後珍彦、城下兵2小隊1千余を率いて大坂に到着。
9月7日
・西郷隆盛、再度、後藤象二郎から大政奉還提出論を聞く。西郷は建白反対表明。
・龍馬、佐々木萬にて岩崎らと事件について論議、岩崎は出港落ち度のことで口書始末を佐々木栄と共に出す。
9月8日
・後藤、会津藩より京都一力亭へ招待されて出席。
9月9日
・後藤、西郷と面談し建白実行に付き挙兵期日延期を求めるも再び拒絶される。
・幕府、関八州における酒造貸株を停止、各地に於る醸造高を三分一に減石。
9月10日
・龍馬、佐々木高行と共に立山奉行所で申し渡しを受ける。イスカル号事件海援隊士の嫌疑解消、蕪レ構となり一件落着。(翌明治元年8月、筑前福岡藩士金子才吉が殺害下主人と判明。金子は、慶応3年7月8日自殺)。
9月11日
・島津備後入京、従兵1千余。
・土佐藩士島村雄三郎・田所安吾、長崎で酔った米国水夫2名傷害。龍馬、佐々木、自首させ解決。17日、立会裁判。長崎奉行能勢大隅守、徳永石見守、英国領事マルクス・フローエルス、佐々木傍聴。
9月12日
・江戸~大坂間の蒸気飛脚船が開設、農民・町人も乗船を許可される。
9月13日
・朝彦親王、会津藩秋月悌次郎を招き、15代将軍慶喜側近原市之進の後任として、近藤勇の登用を提言。
9月14日
・坂本龍馬、陸奥をして丹後田辺藩代表松本検吾と商業取引武器購入の契約を締結させる。
・幕府、江戸の市街地に3階建家屋の建築を許可。
・【資本論刊行】マルクス(49)「資本論」第1巻、ハンブルク、オットー・マイスナー出版社から刊行。
・(旧8/17)栗本鋤雲らの鎖港談判使節団、パリに到着。
9月15日
・坂本竜馬、オランダ商人ハットマンよりライフル銃1300挺(代価18875両、4千両手付け)購入約定。
・薩摩藩大久保一蔵・大山格之助(綱良)・長州藩伊藤俊輔・品川弥二郎、京都発。16日、三田尻を訪問。17日、山口着。木戸・広沢と会見。18日、山口城で毛利敬親父子に謁見。武力討幕に傾きつつある。この日、薩長挙兵討幕盟約。
薩摩・長州藩、改めて出兵「条約書」を結び、20日には芸州藩も加わる。薩摩藩が9月中に武装蜂起し天皇を奪い大坂城に攻め入ることを再度計画。
・島津久光、京都より帰国。
・浦上キリシタン、庄屋に改心取り消しを申し出る。
9月17日
・越前藩士山本龍二(関義臣)、海援隊入隊。/慶2/7/10.坂本の斡旋でシンガポール渡航中、難破。中国上陸後帰国。
・(新暦10月14日)正岡子規(本名常規、幼名処之助、のちに升と改名)、誕生。
伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町3番5号)。父正岡常尚(35、松山藩士)・母八重大原氏(23、松山藩の儒学者大原観山長女)の長男。父が若くして没し、子規と妹律は母と大原家の庇護のもとに成長。祖父観山は、子規に漢文・漢詩の素読を教えるなど大変に可愛がり、子規は、「後来学者となりて翁の右に出でんと思へり」(「筆まかせ」)と語り、観山に憧憬の念を抱く。
・幕府、蘭独白伊瑞丁のヨーロッパ6ヶ国と条約締結の旨を布告。
9月18日
・芸州船震天丸、田辺藩士・海援隊士らと兵器を満載して長崎を出港。菅野覚兵衛・陸奥源二郎・中島作太郎。
9月20日
・芸州の震天丸、下関着。伊藤俊輔、坂本龍馬と下関で会見、薩・長・芸3藩連合出兵を説明。龍馬、菅野覚兵衛と陸奥陽之助に銃200を大阪に運ばせる。銃1千挺、龍馬が土佐へ廻漕。伊藤俊輔(博文)に、「土佐藩が不必要なら長州で一切武器を引き取ろう」と言われる。同日、桂へ倒幕の備えを知らせる書を送る。
「一筆啓上仕り候。然るに先日のご書中大芝居の一件、兼て存じおり候ところとや、実におもしろくよく相わかり申し候間、いよいよ奮発仕るべく存じ奉り候。その後長崎においても上国のこと種々心にかかり候内、少々存じ付候旨もこれあり候より、私一身の存じ付にて手銃一千挺買い求め、芸州蒸気船をかり入れ、本国(土佐)につみ廻さんと今日、下関までまいり候ところ、はからずも伊藤兄(俊輔)上国よりおかえり成され、お目にかかり候て、薩土及び云々、また大久保が使者に来たりし事まで承り申し候より、急々本国をすくわん事を欲し、この所に止り拝顔を希ふにひまなく、残念ながら出帆仕り候。小弟思ふにこれよりかへり乾退助に引合おき、それより上国に出候て、後藤象二郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに仕り可と存じ申し候。先生のほうには御やくし申し上げ候時勢云々の認(したため)もの御出来にあいなり居り申し候はんと存じ奉り候。この上この頃の上国の論は先生に御直にうかがい候えば、はたして小弟の愚論と同一かとも存じ奉り候えども、なんとも筆には尽くしかね申し候。かれこれの所をもって、心中お察し遣わさるべく候。なお後日の時を期し候。誠恐謹言。 九月廿日 龍馬 木圭先生 才谷」(20日付け龍馬から桂小五郎宛書簡)。
・芸州藩植田乙次郎、山口着。木戸・広沢と面会。薩長出兵盟約に加盟。長芸出兵盟約成立。
・近藤勇、永井主水正尚志(幕府目付)の紹介で土佐の後藤象二郎に会し、再見を約す。
9月21日
・慶喜、自ら従前の三条における若州邸より二条城に移る。
・島津久光、病気療養のため大坂から鹿児島に到着。
・土佐藩より長州藩へ答礼便訪問、長土交際復活。
・中岡慎太郎、大石弥太郎にあて「兵談」を記し土佐藩の兵制改革を説く。
9月22日
・龍馬、下関出航。お龍と永訣となる。
9月23日
・大久保一蔵、薩長2藩の出兵交渉をまとめ京都に到着。
・震天丸、土佐浦戸に入港。
9月24日
・坂本龍馬、ライフル銃千挺を震天丸に積み土佐の浦戸上陸。坂本竜馬、土佐藩重臣渡辺弥久馬・本山只一郎・森権次と会談。銃1,000陸上げ、土佐藩買取る。土佐藩武断派乾退助結束固める。
・マルクス、総務委員会でドイツ担当書記に再任。
9月26日
・幕府、軍制を完全に斉一にする為、「万石以下知行取之面々」に対し、軍役銃手に代り、「知行高物成」の10年平均の半額を軍役金として以後10年納入すべきと達す。近代的傭兵制確立。旗本・農民の反対の中で、充分に実現しないまま幕府が瓦解。
9月27日
・土佐藩、重役会議。
9月29日
・龍馬、戸田を伴い高知本町の坂本家に5年ぶりに帰宅、兄姉らと対面、2泊して在郷の同志と会談。この間渡辺らの周旋で、再脱藩罪を土佐藩庁より許される。巷説に容堂と初対面し大義料50両を受けその褒賞金を姉乙女と乳母に与える(真覚寺日記)。
・土佐藩乾退助、仕置役兼帯歩兵大隊司令、内命。/8.大隊司令。/19.仕置役、解任。
・[清・同治6年9月2日]哥老会取締りが強化。

つづく

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