2020年5月19日火曜日

夏目漱石と同い年の南方熊楠は、1867年5月18日(旧暦;慶応3年4月15日)に生れた。自家製《漱石年譜》ノートより

夏目漱石と同い年の南方熊楠は、1867年5月18日(旧暦;慶応3年4月15日)に生れた。

-----以下、自家製《漱石年譜》ノートより

慶応3年4月15日 南方熊楠生まれる。

「小生は慶応三年四月十五日和歌山市に生まれ候。(「履歴書」)

城下橋丁で金物商を営む父の南方弥兵衛は三九歳、母すみは三〇歳であった。熊楠は弥兵衛の次男で、このとき、藤吉(八歳)、くま(三歳)、の二人の兄姉がいた。なおこの後、熊楠の下に常楠・藤枝・楠次郎の三人の弟妹が生まれている。」(『漱石と熊楠』)

「和歌山の南四里あまりのところにある藤白(ふじしろ)神社は、かつては藤白王子といい、熊野三山(本宮・新宮・那智)参詣の道筋にもうけられた熊野九十九王子の、それも別格の五体王子の一つとして尊崇されてきた。王子とは、末社、すなわち本社に付属した神社をいうが、この藤白王子の境内に楠の古木があり、楠神として昔から尊ばれている。安産や病気平癒、子守の神で、和歌山や海草郡の人々は子どもが生まれるとここにお参りし、神官から楠、藤、熊のどれか一字をもらいうけて子どもの名につけたという。
南方家でもそうした風習にのっとって、子どもたちに右の三字のどれかをもらいうけている。藤・くま(熊)・常楠…‥みなそうだが、なかでも熊楠は「熊」と「楠」の二字をさずかっている。これは熊楠が幼時体が弱かったため。丈夫な子に育つようにとの願いからだったようだが、熊楠自身はもっと深くこの楠神との因縁を感じていた。

予の兄弟九人、兄藤吉、姉熊、妹藤枝いずれも右の緑で命名され、残る六人ことごとく楠を名の下につく。なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ請ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。(「南紀特有の人名」)

熊楠がこのときわずらったのは、脾疳(ひかん)という病気である。これは小児特有の胃腸病で、食欲が一定せず、体がやせおとろえ、腹が異様にふくれてくる。医者がさじを投げて熊楠は死にかけた。このため父親は手代に熊楠を負わせ、四里あまりの道を歩いて守り神である楠神に詣で、病気平癒を祈ったのである。一命をとりとめた熊楠が、楠の木を見るごとに「口にいうべからざる特殊の感じ」を抱いたのも当然であろう。熊楠は、「小生は藤白王子の老樟木の神の申し子である」とまでいいきっている。
熊楠という名、命名の由来、そして熊楠自身が楠神に対して感じていた深い因縁は、のちの熊楠の仕事と思想を考えると重要な意味をもってくる。熊楠は海外を放浪し、一八ヵ国語に通じていたけれども、その仕事と思想は、その名とともに、生まれ育った土地やその周辺の信仰と自然に深く根ざしているのである。」(『漱石と熊楠』)

■熊楠の父
「熊楠の父弥兵衛(旧姓向畑)も日高郷入野村庄屋の次男で、庄屋といっても外骨の父のような豪農とは違って、入野村は寒村だったから、口べらしのために弥兵衛は、十三歳の時に丁稚奉公に出て、成人したのち南方家の入婿となったのだ。南方家は雑賀屋と称して、かつてはかなり羽振りの良かった商家だったが(往時を偲ばせる大阪鴻池主人とのエピソードが熊楠の「履歴書」に書き記されている)、彼が南方家に入った時には、もはや昔日のおもかげはなく、「家政を整理すとて何もかも売り払い」、「手中にのこ」ったのは「十三両ばかり」だったという。熊楠が生まれたころ弥兵衛は鍋屋(金物商)を営んでいた。」(『七人の旋毛曲がり』)

「熊楠の父弥兵衛は、「明治十年、西南の役ごろ非常にもうけ、和歌山のみならず、関西にての富家となれり。もとは金物屋なりしが、明治十一年ごろより米屋をも兼ね、後には無営業にて、金貸しのみを事とせり」(『履歴書』)。」(『七人の旋毛曲がり』)

「熊楠の父南方弥兵衛も名主の家の生まれである。すなわち弥兵衛は、和歌山県日高郡入野村(現・日高川町入野)の庄屋向畑庄兵衛の次男に生まれた。庄屋は、名主の関西方面での呼び方である。とはいえ、江戸の町方名主と当時わずか三〇戸ばかりの寒村の庄屋では、その境遇の違いは歴然としていた。おまけに弥兵衛は次男であったから、家を継ぐことなく、一三歳のときに村を離れて御坊の商家に丁稚奉公をし、さらに和歌山に出て福島屋という商家に奉公した。
この福島屋というのは両替商で、藩の銀座をつとめるほどの大店であったが、弥兵衛はここで番頭までつとめあげ、主人の信頼を得てその死に際して遺児を託された。実直な弥兵衛はこの信頼に応えて、遺児が成人するまでその面倒をみた。この労に報いようと主家から暖簾分けをすすめられたが、弥兵衛はこれを断り、おりから話のあった雑賀屋という屋号を持つ南方家の婿養子になることにした。南方家はそれなりの身代だったようだが、そのころは家付き娘とその母親、娘と前夫の間に生まれた女の子の三人が残るだけで、すっかり衰退していた。そこで、「かかる大廈(たいか)の頽(くず)れ掛かったところを持ち直すには、非凡の養子を後入(あとい)りさせにゃならぬと、知る人々が相談して、そのころ一本立ちの商売は開店叶わず、拙父が然るべき家に入婿となって商売したしと尋ねおるを幸いと、雑賀屋へ迎え取った」(「南方先生百話」)のだという。
かくて弥兵衛は南方家の婿となり、それまで名乗っていた佐助を改め、代々の名乗りをうけついで「南方弥兵衛」となった。弥兵衛はなんとか身代を立て直そうとしたが、一度傾いた屋台はそう簡単に再建というわけにはいかず、さまざまに苦労するうち、老母は死に、妻も弥兵衛とのあいだに二人の男の子をもうけて死んでしまった。三人の子をかかえて途方にくれた弥兵衛は、後妻をもらうことにした。これが熊楠の母となるすみである。
このすみをむかえてから家運も少しずつうわむくようになり、城下の橋丁(はしちょう)に金物屋の店をひらくまでになった。熊楠の生まれるころには、先の男の子二人はすでに死亡し、女の子はすみとの折り合いが悪く、一六、七歳のころ人にそそのかされて出奔してしまっていた。」(『漱石と熊楠』)

■熊楠と漱石
「漱石と熊楠の誕生前後のそれぞれの父親の状況は、、、、。一方は幕府権力の末端をになう江戸の町方名主であり、一方はそういうものとは無縁の一介の商人である。一方は「名主さま」とたてまつられ、財布に五〇両をしのばせるほど富裕であり、一方は「鍋屋ふぜい」とさげすまれながら日銭をかせぐ身であった。だが、時代の激変が両者の立場を逆転させる。一方は旧秩序の末端につらなっていたことが枷(かせ)となって時代に取り残され、一方は新しい時代の波にのって発展していくのである。」(『漱石と熊楠』)

漱石とは反対に、熊楠は終生自分の父親を敬愛した。父について語ることも多かったが、常に父の人となりを称揚している。

私の父は(父のこと申すもおかしいが)寒邑の里正の子にて、十三のときに志を発し、村を出で、いろいろ難苦して、今の南方の家に入りしとき、家財悉皆売りしに今の一円八十銭ばかりしかなく、それで商売致し、とにかく只今は名前ばかりでも近郷の人々に知れしものとなりおり、平生例の女ぐるいなどいうこと一切なく、六十四のときまで、倉の米などはきあつめて売り候由。(土宜法龍宛書簡)

父は一風ありし人にて、只今の十三円ほどの資金をもって身を起こし、和歌山県で第五番と言わるる金持となり候。木下友三郎氏と小生遊交せしころは、和歌山市で第一番の金持なりし。しかし不文至極の人なりし。したがって学問の必要を知り、小生にはずいぶん学問させられたり。父ははなはだ勘弁のよき人にて、故三浦安氏の問に応じ、藩の経済のことなどにつき意見述べしこともあり。故吉川泰次郎男など、また今の専売特許局長中松盛雄氏など、毎(つね)に紀州商人の鏡なりとほめられ候。(柳田国男宛書簡)

熊楠のいうように、南方弥兵衛は、一代で財をきずいた人物らしくひとかどの見識を持っていた。主家からの暖簾分けを断ったのも、熊楠によれば、「主家より暖簾を分かたれては、子孫の末まで家来遇(あしら)いにさるるを遺憾とし」、あえて衰退した南方家の婿に入って一身の独立をはかったのだという。卑賎より身を起こしたために学問を身につける暇がなかったことを悔い、子どもたちには十分な教育をほどこしている。節倹を旨とし、寡言実行、義理人情にも厚かった。熊楠によれば、貧しい人には利息を取らずに金を貸していたという。・・・・・
熊楠はこうした父を尊敬し、「常に小生に申し聞け候は、人は耐忍をならうべし、耐忍しがたきを先として耐ゆべしと申され候。私は今に左様に致しおり申し候」と、父の訓戒を自らの行動規範としていることを土宜法龍(どごほうりゅう)に打ち明けている。」(『漱石と熊楠』)


「熊楠の母親のすみは、西村という旧家の出で、遠縁にあたる和歌山藩の江戸詰め医師が罪を得て紀州に流された折、付き従って身辺の世話をしたという。医師が許されると、すみは直清という茶商の妻であった伯母のもとに寄食し、店を手伝うようになった。このころ、弥兵衛は家付きの妻に死なれ、二人の子を抱えて苦労していた。

予の父、二人の子をば人に托し、活計のために橋向かい辺を通るたびに件の女の行儀崩さず茶を磨きおるを見、不覚(そぞろ)その店に入って茶を買った。(「南方先生百話」)

そのころ亡父が毎度通る町に茶碗屋ありて、美わしき女時々その店に見える。この家の主人の妻の姪なり。その行いきわめて正しかりしゆえ、亡父請うて後妻とせり。これ小生の亡母なり。(「履歴書」)

「この亡母きわめて家政のうまき人にて、亡父に嫁し来りてより身代追い追いよくなり」と熊楠は語っているが、夫と同じく無学ながら、よく夫を補佐してその事業を助けた賢婦だったようだ。すみの生家である西村家は、朝日屋という屋号を持つ商家であった。(武内善信「南方熊楠と和歌山」『和歌山市立博物館研究紀要第二一号』)。」(『漱石と熊楠』)
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