2020年5月23日土曜日

慶応3年記(3)3月 島津久光、西郷吉之助ら兵700を率い鹿児島出発 伊東甲子太郎ら、新選組を脱退 朝廷、兵庫開港を許さず 榎本武揚、開陽丸でオランダから横浜に入港

慶応3年記(2)2月 豊田佐吉誕生 将軍慶喜、大坂城でロッシュを引見 西郷隆盛、山内容堂・島津久光に上京を説得、了承される
より続く

慶応3年(1867)3月
・西周、将軍にフランス語を教授。
・豊後志士青木猛比古、暗殺。
・福沢諭吉「雷銃操法」出版。
・中島三郎助(47)、長男恒太郎と共に、横浜の下岡蓮杖の写真館で撮影。
3月1日
・米、ネブラスカ州が合衆国に加盟(37番目)。
3月2日
・中岡慎太郎、太宰府から鹿児島に到着。
・米、第1次再建法、軍指令法、官職保有法が可決。
3月3日
・後藤調査の土佐藩小監察谷守部(干城)、後藤と共に上海に渡り土佐に戻る。
3月4日
・伊東・新井、京へ向けて出立。
・龍馬兄権平、土佐藩築山番勤仕。
3月5日
・上洛中の慶喜、兵庫開港の勅許を奏請、朝廷不許可。
・勝海舟、海軍伝習掛を命ぜられる。7日、海軍伝習についてパークスと会見。
・アイルランド、ダブリン、フィニアン(IRS)の蜂起。共和国宣言。翌日ティペラリー、コーク、リムリックで決起、鎮圧。
3月7日
・彦蔵、フレイザー帰国により商社を引取る。長崎。後、高島炭坑をグラバー商会・佐賀藩共同経営の斡旋を行い、自らの商会もグラバーに属することとする。
・徳川昭武ら遣欧特使、パリに到着。
3月9日
・ワグナー、ミュンヘン帰還、「ローエングリン」再演。主演めぐりルートヴィッヒ2世と対立、2週間でミュンヘンを去る。
3月10日
・土佐藩大監察福岡藤次・岩崎弥太郎ら、坂本龍馬・中岡慎太郎の脱藩罪赦免に関連して長崎へ出立。
・中岡慎太郎、村田新八・寺田平之進と鹿児島発。17日、太宰府着。
・(新4/14)伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎・篠原泰之進ら、山陵奉行戸田大和守忠至に属して御陵衛士を拝命。
3月12日
・伊東甲子太郎・新井忠雄、九州から戻る。13日、伊東ら、近藤と分離の談合を持つ。
・フランス、メキシコからの撤退完了。ファレス、米兵3千雇い入れ。イグナシオ・サラゴサ指揮下、反撃成功。
3月13日
・広島藩士丹羽精蔵、暗殺。
・三野村利左衛門(三井組)、小栗上野介忠順を訪問。
3月14日
・土佐藩参政福岡藤次、同藩士角田為之助・岩崎弥太郎らと共に藩船胡蝶丸で長崎に来着、龍馬と会談。
3月15日
・【オーストリア=ハンガリー二重帝国成立】ハンガリー議会、オーストリアとの合体法案承認。
3月17日
・長州藩木戸準一郎(孝允)、太宰府着。五卿の帰京祝い。
・中岡慎太郎、太宰府の三条実美を訪問。18日、太宰府発。20日、下関で坂本龍馬(33)と会見。21日、高杉晋作を訪問、病重く面会できず。22日、田中顕助と面談、上京。
3月18日
・木戸準一郎(桂小五郎)、五卿に謁見。
・名古屋、西掛所裏八軒家の寺社方同心大野八十次郎宅に内宮のお札が降る。
3月20日
・伊東甲子太郎以下14名、新選組を脱退。伊東・鈴木・篠原・加納・新井・毛内・阿部・藤堂・富山・橋本・内海・中西・佐原・清原・江田・斉藤一の16士、新選組屯所を出て、三条の城安寺に移る。21日、城安寺を出て五条の善立寺へ宿舎を移す。
・幕府、武・総・常・野の忍、岩槻、土浦、川越、佐倉、高崎、古河、下館、大田原、宇都宮、関宿、壬生12藩に命じ、城詰御用米中より江戸に米総計4389石を廻送せしむ。
・坂本龍馬(33)、三吉慎蔵に宛てて、西郷吉之助が山内容堂へ上洛を進言し、それが実現しそうであると伝える。
3月21日
・中岡慎太郎、高杉晋作(29)を訪ねるが、病が重くて会えずに帰る。
3月22日
・慶喜、兵庫開港勅許再奏請。尚許されず、この日、下坂。
3月23日
・米、第2次再建法が可決。
3月25日
・島津久光、西郷吉之助ら兵700を率い三邦丸で鹿児島出発。
・慶喜、大坂城白書院にてパークスを非公式に引見。逐日、蘭仏米各国公使を引見。条約のごとく兵庫を開港すべき旨を声明。4月3日帰京。
・伊、アルトゥーロ・トスカニーニ、パルマに誕生。
3月26日
・(新4/30)榎本武揚・沢太郎左衛門ら、開陽丸でオランダから横浜に入港。
オランダのヒップス・エン・ゾーエン造船所で建造。全長約80m・総排水量約2千トン、蒸気機関1基を備えた木造の機帆船、砲24門を搭載。
・鶴田藩(浜田藩改称)が立藩。
3月27日
・マルクス(49)、「資本論」第1巻の浄書を全て終える。
3月28日
・徳川慶喜、大坂城で英蘭仏米4ヶ国公使と正式会見。最初に英国公使パークスと会見。3時間半。慶喜は、闊達、洗練されたマナーでパークスを魅了する。パークスは、幕府への信頼をますます確信する。パークスは幕府海軍建軍への協力を言明。
イギリス外務省とパークスの不干渉政策;条約勅許~改税約書締結の1866年頃の幕府外交について、パークスは、「将軍は、われわれにたいして誠意をもって行動」している、「大名たちを通してよりも、将軍を通して、はるかに多くのことを成就できる」と評価し、一方で、大名たちのどうしようもない「嫉妬心と不和」を感じ取って本国外務省に報告。薩摩藩が条約勅許を巡って、たびたび勅許を妨害し、「外交問題を利用して将軍を攻撃」することを批判。薩長開明派を評価し始めていたイギリス本国外務省も、公使館が幕府から離れて薩長に接近することを認めず。外務省は、パークスに、たとえイギリスの望みと違っていても、日本の体制変革は「徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない」と指令、パークスもこれに異存なし。
公使パークスは、幕府への信頼を深めており、一方、若手通訳官サトウは、薩長に接近し、パークスはこれを黙認。幕府を中心にしつつ、政治の変動に対応できる外交スタンスを広げ、かつイギリスの国益を守るため、日本の政争には介入しない基本政策を堅持。
3月29日
・朝廷、兵庫開港を不可とし後命を待たしむ。同日、岩倉らの入京を許す。
・高杉晋作(29)、石高100石で新規召し出され、八組に加えられる。谷家を創立し、谷潜蔵と改名。
3月30日
・ワシントン、米、露からアラスカを720万ドルで購入する条約調印。

つづく


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