2020年5月24日日曜日

慶応3年記(4)4月 南方熊楠、誕生 島津久光・伊達宗城・松平春嶽、四候会議の為入京(山内容堂は5月1日入京) いろは丸事件 

慶応3年記(3)3月 島津久光、西郷吉之助ら兵700を率い鹿児島出発 伊東甲子太郎ら、新選組を脱退 朝廷、兵庫開港を許さず 榎本武揚、開陽丸でオランダから横浜に入港
より続く

慶応3年(1867)4月
・幕府、アメリカから「東艦」を購入。
・筑後に一揆。
4月初旬
・後藤・福岡・坂本・中岡、土佐藩遊軍としての海援隊・陸援隊規約作成。長崎。坂本龍馬、海援隊長となる。隊員約50。「運輸、射利、開拓、投機、本藩ノ応援」の任務を司る「海援隊約規」を定む。
4月1日
・徳川慶喜、米公使と正式会見。
・中岡慎太郎、太宰府から大坂に到着。4日、京都着。6日、大阪で谷守部らに容堂の上京急ぐよう説得。
・マラッカ、ペナン島、シンガポール、合併されて英本国直轄地となる。
・(陰暦2月27日)第2回パリ万国博覧会開催(04/01~11/03)。高橋由一、宮本三平らの油絵、北斎、国貞、芳幾、芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工など出品。3日(旧2・29)徳川昭武・渋沢栄一ら万国博覧会使節団一行、マルセイユ着。11日(旧3・7)パリに到着。
65(慶応元)年初、フランス当局はパリ特命全権理事官柴田剛中に参加を勧誘するが、即諾せず。一方、薩摩藩の参加は新納刑部・五代友厚らとモンブランとの交渉で独自に決る。幕府は対抗上参加を決定し、パリの実業家エラールを日本名誉総領事とし、また、博覧会日本部類総理事レセップに委託し、柴田らは帰国。国内で幕府の出品募集に応募したのは、薩摩藩のほか佐賀藩と商人2名。慶応2(1866)年11月、幕府は慶喜の弟(斉昭18子)、清水家当主徳川昭武の派遣を決め、翌年1月、将軍名代として出発させた。同行者は昭武の侍役、作事奉行格兼小姓頭取山高信離(石見守)以下の近侍及び駐仏全権公使向山一履(外国奉行)ら20数名。派遣目的は公式には親善使節ではあったが、あわせて昭武以下の若干の青年に3乃至5年の留学を認めたもの。幕府内のロッシュと結ぶ親仏派が推したものだが、イギリスもこの使節団を自国に引きつけるを画策し、後れて渡仏した栗本鋤雲は山高や向山らを「反仏コンパニー」という。
薩摩藩は、慶応2年10、11月と2回に分けて400余箱の出品物を長崎より積出し、家老岩下方平・側役格市来政清が野村盛秀ら随員を率え同年11月10日、英船で鹿児島を発ち、翌3年1月2日パリ着。一方、3月7日には幕府使節団もパリ着。ここでその陳列を巡り、幕府側と薩摩藩との対立が表面化。薩摩側が琉球国名儀で幕府とは別個の陳列場を要求するが、幕府は統一出品を主張してこれに反対。4月21日(陰暦3月17日)レセップが仲裁、薩摩藩は「日本薩摩太守政府」、幕府は「日本大君政府」、佐賀藩は「日本肥前太守政府」の名を用い、2商人も別に出品し、夫々が日章旗を掲げる事となる。五代は、博覧会場の陳列は「幕薩聊甲乙上下無ク相認、楣間ニ顚額ヲ挙申候」といい、会場に集まる各国の人々は「江戸大君ハ日本大名卜斉敷、大名ノ大ナルモノニシテ、日本帝君ノ臣僕タル事ヲ知ルコトヲ得タリ」と記し、さらに「大君政府」は政府の名のみで日本の政府とはいい難い、と述べ、「洋人ニ取テモ、日本政務統割ノ処無之候テハ、盟約モ難立、貿易融通も被行ガタク、然ル時ハ、洋人ハ是非大君ヲ助ケ候テ諸侯ノ権力ヲ削り、日本政令一ニ帰候様致スべシ。既ニ英国「ミニストル」ノ議論ニモ、殆ンド其情ヲ含メリ。或ハ日本諸侯ノ同盟共和ヲ援テ、幕府横暴ノ権ヲ挫候カ。日本ノ形勢、幕府列藩ノ勢両立不致候ニ成行儀事ハ、是又必然ノ勢ナリ」と情勢判断をする。
4月2日
・大久保一蔵、島津久光を大坂に迎える。
4月8日
・山内容堂、京都へ出発。
・いろは丸、長崎入港。
4月9日
・小野友五郎、ストーンウォール(甲鉄艦)の購入を決定。
4月12日
・島津久光、入京。西郷隆盛従う。従兵700余。
・マルクス、「資本論」第1巻の原稿を携えてハンブルクへ行き、マイスネルと印刷・校正について相談。
4月13日
・伊藤俊輔と田中顕助、情勢視察のため下関から京都に到着。
・ロッシュ、日本の政体を各国に弁明すべき旨を建議。将軍慶喜、国律を起草させる。
4月14日
・高杉晋作(29)、没。16日、遺言により奇兵隊ゆかりの地、現在の東行庵に葬られる。8ツ時、林算九郎方で没。白石、片山と共に林家へ行く。5ツ半、吉田の奇兵隊陣地に晋作没の報が届く。朝、白石は家に帰って片山と共に晋作の神祭について話し合う。昼前、山県・福田も白石家を訪ね、葬儀の相談。長男梅之進への相続を願い出て許される。
・新撰組剣術師範田中寅三、勤王思想激しく、脱走。15日、寺町本満寺に潜伏中を発見されて捕らえられ、屯所にて切腹。
4月15日
・伊達宗城、4侯会議のため入京。
・南方熊楠、誕生。和歌山城下の橋丁(現、寄合町)で金物商を営む南方弥兵衛(39)・妻スミ(30)の4男2女の2男。
・イギリス公使ハリー・パークス一行、敦賀視察のため大坂発。
一行は外国人6人、付添の幕府役人70人。パークスは、大坂で幕府から京都入り断念する代わりに敦賀行の許可を取り付ける。大坂~伏見~大津~西近江路~17日、道口~射場町~敦賀、永建寺に泊。翌18日、天筒山に登り敦賀を一望、19日、敦賀発~刀根~柳ヶ瀬~東近江路~大坂。6月21日、パークスは本国の外相スタンレーに宛て、敦賀は開港場としてはふさわしくなく、七尾か新潟が適していると報告。パークスの敦賀視察の目的は、敦賀の開港場としての適否の確認。
4月16日
・松平春嶽、入京。
・北ドイツ連邦憲法採択。プロイセン王・首長の北ドイツ連邦結成。
・ライト兄弟の兄ウィルバー、インディアナ州に誕生。
・~5月14日頃。マルクス、ハノーヴェルのクーゲルマンの家に滞在。クーゲルマンから「価値形態に補遺」が必要と説かれ、第1巻付録での出版決意。
4月19日
・坂本龍馬(33)、宇和島藩船「いろは丸」(アビソ号46馬力160トン)を借り、武器・商品満載し、長崎出航。出航に際して後藤の計らいで土佐商会責任者岩崎弥太郎より社中へ100円・龍馬へ50円を贈る。
4月21日
・中岡慎太郎、十津川郷士前田雅楽と幽棲中の岩倉具視訪問。和宮降嫁調整し4姦に数えられている。
4月23日
・坂本龍馬指揮で上京中の「いろは丸」(伊予大洲藩から借り受け)、紀州船「明光丸」(原名バハマ)と衝突沈没。讃州箱ノ岬沖。坂本等34名明光丸収容、鞆に入港させる。水夫2名死亡。24日、一同34人、鞆の津に上陸。長岡謙吉、魚屋万蔵方で明光丸船長高柳梅之助と交渉。26日、1万両弁償とするが返済期限明示可否で折合わず。27日早朝からの交渉も明光丸出帆ため中断、談判は長崎へ持ち越される。
この頃、佐柳高次・腰越次郎ら、海援隊離隊を願い出て、明光丸に斬り込もうとするも龍馬に諭され思い止まる。28日、千屋寅之助・高松太郎らにいろは丸の「航海日誌」の写本を送り、その処置を伝えると共に一戦覚悟の決意を示す。
長岡謙吉(1834~72):土佐の医師今井考順の長男。奥宮慥斎・河田小龍らに学ぶ。江戸・大坂へも遊学し蘭学・医学・詩文などを修学。安政6年、脱藩して長崎に遊学し二宮敬作に師事。岩崎弥太郎らに藩の商取引妨害の嫌疑をかけられ土佐へ送還。慶応元年、再び藩をぬけ長崎に赴き、海援隊に参加。龍馬の秘書官を勤め、「閑愁録」「和英通韻以呂波便覧」「海援隊約規」「船中八策」「大政奉還建白書」など重要文書の起草に関与。「藩論」の事実上の執筆者との説もある。龍馬没後、梅花隊を結成、讃岐塩飽諸島の鎮撫に功をあげ、2代目海援隊々長として活躍。新政府に対し海軍創設に関する建白を行い、三河県判事や大蔵省・工部省へ出仕。明治5年、東京で病没。贈正五位。 
・ハノーヴェル、マルクス、ヴァルネボルトなる弁護士より「ドイツ国民のためマルクスの才能を用いたい」旨のビスマルクの所望が伝えられる。
4月24日
・幕府、外国総奉行を設置。平山敬忠をこれに補す。
4月26日
・在京の水戸藩家老鈴木縫殿ら、将軍徳川慶喜の兵庫開港奏請を諌めるため、藩士岩間金平を岡山藩主池田茂政・鳥取藩主池田慶徳に派遣、指揮要請。
4月27日
・中根雪江、原市之進及び永井玄蕃頭を訪問。
4月28日
・山内容堂、四賢侯会議に出席するため藩船夕顔に乗り込み土佐を出立。5月1日、京都河原町藩邸に入る。
4月28日
・水戸藩武田耕雲斎次男金次郎ら129人、江戸入り。
・(旧3・24)徳川昭武・渋沢栄一ら一行、ナポレオン3世に謁見。
4月29日
・矢口健一郎、没。
・坂本龍馬、下関到着。

つづく



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