2020年5月22日金曜日

慶応3年記(2)2月 豊田佐吉誕生 将軍慶喜、大坂城でロッシュを引見 西郷隆盛、山内容堂・島津久光に上京を説得、了承される

慶応3年記(1)1月 夏目漱石、宮武外骨、生まれる
より続く

慶応3年(1867)2月
・福岡藤次らの計らいで、坂本龍馬・中岡慎太郎の脱藩罪赦免の藩議決定。
福岡藤次(1835~1919):土佐藩家老の分家福岡左近兵衛の2男。吉田東洋に師事し、東洋の推挙で藩政に参加。東洋没後は後藤象二郎・乾退助らと共に辞職。文久3年、山内容堂の改革で復職し、藩主山内豊範の側役を勤め、江戸・京都で重臣として活動。慶応3年頃、尊王派へ転向。後藤と共に海援隊・陸援隊の結成に尽力(後藤が主に海援隊の後援、福岡は主に陸援隊を後援)。討幕気運が高まるなか、後藤と大政奉還の成否確認のため藩を代表して二条城へ上る。新政府では三岡八郎・桂小五郎らと共に龍馬の「船中八策」を基盤とした「五箇条の御誓文」の原案を起草、第1条の修正を行う。維新後は元老院議院・参議兼文部卿などの要職を勤める。子爵。   
・仏より陸軍教師シャノン少佐等20余人、着。
・柳川春三「洋学指針・英語部」出版
・上野国、日向国に一揆。
四日市の大庄屋に対する不正追及に始まった騒動は、日向の天領で最も激しい形をとり、佐土原藩士を竹槍で刺殺するという事件にまで至る。
・プロイセンの国民自由党・自由保守党、北ドイツ連邦の憲法制定議会選挙において有力な地位を占め、ドイツ帝国成立後も、ビスマルクの与党を形成。
・ヴェルレーヌの最初の恋人と言われ、「土星びとの詩」の主要モチーフで、出版費用も負担した8歳年上の従姉、エリザ・デュジャルダン(旧姓モンコンブル)没。
2月初旬
・坂本龍馬(33)、会津藩家老神保修理と面談し「高坂龍次郎」の変名を使用。7日頃、肥後熊本藩士荘村助右衛門と面談。
2月1日
・西郷隆盛、鹿児島着。島津久光に上京勧め、了承。
・ニーチェ、「文献学研究会」で「アリストテレスの著作目録」発表。この月、文献学研究会の会長。
2月2日
・(新3/7)伊東甲子太郎、太宰府で中岡慎太郎に面会。(伊東、久留米を経て大宰府到着。天神参詣。梅林をみて和歌を2首詠む。真木外記・水野渓雲斉等と面会。薩摩の吉田清左衛門宅に宿泊。)
2月3日
・長州藩諸隊再編成。
・伊東甲子太郎、清水・真木に面会。永井の話をしたところ、大いに嫌疑を受けて恐怖して帰る。伊東、真木を再度訪問し、実を吐露するが、謀殺の気配を感じる。伊東、長州から来た使節とも応接。4日、伊東甲子太郎、真木外記に面談し新選組分離を語る。(伊東、真木・水野らと再度面会。新選組とは異論があって分離するとの説き、嫌疑を解く。再会を約して分かれる。長州から来た使節とも応接。)5日、伊東、大宰府出立。6日、伊東、三池で新井・寺田と合流。渕上が(幕府の間者ではないかとの)嫌疑を受けて肥後での周旋成立せず。
2月5日
・将軍慶喜、下坂。6日、大坂城において仏公使ロッシュを引見、幕政改革の意見を聞く、8日帰京。
ロッシュの幕政改革意見;「慶応三年二月六日付 政府の御目的は、諸大藩の権力を削るを肝要と致し候。如何となれば、藩屏強力なれば必ず四分五裂、国敗亡に至り、政府強力あれば、一に帰せざるを得ず。海陸軍は政府にて十分全国を守る丈け御養立相成り候得ば、諸侯は自己に海陸軍を置き候に及ばず、自ずから治め易きに相成り申し候。第一政府の海陸二軍を御整備遊ばされ候義専要に御座候。政府御威力これ有り候得ば、全国力を労し思を苦めずして平治仕り候故、其の威力を整え候法を申上ぐべく候。」(「淀稲葉家文書」)。
ロッシュの外交政策建言;「貴国の危機正に今日に迫る。宜しく事情を弁駁して、彼の詐謀を破らざるべからず。然らざれば諸外国も亦疑義を生ずるに至らん。宜しく将軍が天下の政権を掌握するに至れる事、天皇が六百年来政治を執らざる事、公卿は大君の恵によりて生活し、大名も大君の号令に服従せる事、天皇の親政はかえって争乱を醸すべき事等の意を記したる一書を草して渡さるべし。余はこれを仏文・英文に翻訳して、巴里在留の欧米各国の公使に交付し、且つ、倫敦・巴里に於ける著名の新聞紙に掲載せしめん。」(「徳川慶喜公伝」)。
2月10日
・坂本龍馬、1ヶ月ぶりに長崎より戻り、下関阿弥陀寺に新居。「自然堂」と称す。長崎のお龍を伴い以後は伊藤九三家に預ける。竹島や北海道開発案を練る。14日、河田左久馬に蝦夷地開拓について下関来訪を願う。16日、三吉慎蔵に後藤象二郎との面談を伝える。20日、薩摩藩士大山格之助と面談。22日、「近時新聞」と題した情報を三吉慎蔵に送り「大日本史」借用を願う。
伊藤九三(1830~72):長府藩赤間関で大年寄を世襲する本陣伊藤家に誕生。伊藤家では代々「助太夫」もしくは「杢之丞」の名を世襲しているが、龍馬が「昔の役者みたいな名前」と指摘され通称を「九三」の改める。慶応2年、下関阿弥陀寺町通りの旅籠屋で龍馬と知り合い、旅籠屋の主人に願って龍馬を自宅に寄宿させるようになる。伊藤家には「自然堂」という額を掲げる部屋があり、九三は自ら「自然居士」と称するが、その部屋を龍馬に貸し与え「自然堂」の斎号を以後の龍馬は使用するようになる。また龍馬と九三は親しく一緒に酒を飲むことが多かったらしく、印藤聿にあてた龍馬の手紙にも「今夜も助大夫とのみ呑ており申候」と記される。ほかにも龍馬は伊藤家宅で歌会を開いたり、お龍を九三方に預けるなど何かと頼りにすることが多い。
2月12日
・松平容保(京都守護職)、幕府に辞表を提出。
2月13日
・西郷吉之助、高知・宇和島へ行くため鹿児島を出発。
・伊東・新井・寺田、添田に着く。
2月14日
・豊田佐吉、誕生。
2月15日
・西郷隆盛、高知着。4候会議を説き、山内容堂に上京を望む。この際、坂本家才谷屋子息市太郎と源三郎(14)、麻上下で給仕番に出て、「水もしたたる源三郎」を見た西郷は上方に連れ帰ることを執心、才谷屋は辞退して汗をかいたと伝える。
・玉松操、岩倉具視を訪問。
・長州藩世子、高杉晋作(29)に見舞い状を兼ねた書状。文学勉励がしたいので読むべき本があれば教えて欲しいと述べる。この月、新地の林算九郎方の離れに病室を移す。
・ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」、ウィーンで初演。
2月16日
・伊東・新井・寺田、日田で大いに嫌疑を受ける。18日、新井・寺田、出立。伊東は日田代官に面会。嫌疑を受ける。21日、日田を出立。
2月18日
・久留米志士渕上郁太郎、暗殺。
・オーストリア議会、フランツ・ヨーゼフのオーストリア・ハンガリー協定案審議。アンドラーシ・ジュラがハンガリー首相就任。内政は個別(政府・議会・憲法)、外交・軍事・財政は一体。
2月19日
・将軍慶喜、下坂、20日またロッシュを引見、21日帰京。
2月22日
・金光教の川手文治郎、白川家より布教を許される。
・伊東、佐賀着。新井に合流。23日、伊東・新井、塚崎泊。温泉に入る。新井、病になる。26日、鎮台能瀬大隈守訪問。医師の診察を受ける。29日、鎮台能瀬大隈守訪問。医師の診察を受ける。
2月25日
・玉松操、岩倉具視の門客三上兵助に連れられて岩倉具視を訪問。
・遣露使節・小出秀実ら、ペテルスブルクで樺太仮規則(樺太の日露両属)調印。雑居状態はじまる。
2月27日
・西郷隆盛、鹿児島着。島津久光に上京勧め、了承。
・中岡慎太郎、太宰府発。3月2日、鹿児島着。大山・吉井・西郷と会見。
・パリ、万国博開幕。ナポレオン3世の勧めで日本も名産品を出品。
・マルクス、ロンドンのドイツ人労働者教育協会の創立記念祝賀会で賃労働と資本について講演。
2月30日
・大坂渡辺村の農民ら、幕府へ「穢多」の称の廃止を請願。
・永井尚志(53)、若年寄格となる。12月15日、若年寄就任。

つづく




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