2022年10月1日土曜日

〈藤原定家の時代135〉養和2/寿永元(1182)年9月~12月 源希義(義朝五男、頼朝弟)殺害 宗盛内大臣、知盛権中納言(従二位) 安徳天皇の大嘗会御楔 頼朝・政子、亀前を巡るトラブル               

 


〈藤原定家の時代134〉養和2/寿永元(1182)年7月~8月 北陸宮(以仁王遺児)、越前の義仲のもとに脱出(義仲、大義を獲得) 頼朝嫡男万寿(頼家)誕生 頼朝が信頼を寄せる比企能員 比企尼のこと  「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。(中略)治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。」(「吾妻鏡」) より続く

養和2/寿永元(1182)年

9月2日

・重衡の郎従が但馬守経正の従者に暴行を受け、重衡側が大規模な報復を行ない、経正と重衛の従兄弟同士が衝突寸前となる事件が発生。経正の父経盛が宗盛のもとに出かけ謝罪して、衝突が回避される。

宗盛が一門の総帥として全体の団結を維持する立場にあり、その役割を果たしていたことを物語る事実である。"

9月14日

・院宣を下して諸国の追討使をやめる

9月15日

・越前に派遣の平家全軍、京都に引き上げ。(「吾妻鏡」同日条)。敦賀郡もほぼ完全に義仲に味方する軍勢が占める。

9月20日

「盛職江州より脚力を上げて云く、北陸の賊徒すでに江州を掠領せんと欲す。若州閑かならずと。」(「吉記」同日条)。

9月25日

・土佐、源希義(まれよし、義朝五男、頼朝弟)、殺害。

「土佐の冠者希義は、武衛の弟(母は季範女)なり。去る永暦元年、故左典厩の縁坐に依って、当国介良庄に配流するの処、近年武衛東国に於いて義兵を挙げ給うの間、合力の疑い有りと称し、希義を誅すべき由、平家下知を加う。仍って故小松内府の家人蓮池権の守家綱・平田の太郎俊遠(各々当国住人)、功を顕わさんが為希義を襲わんと擬す。希義日来夜須の七郎行宗(土州住人)と約諾の旨有るに依って、介良城を辞し、夜須庄に向かう。時に家綱・俊遠等、吾河郡年越山に追い到り、希義を誅しをはんぬ。行宗は、また家綱等希義を囲むの由これを聞き及び、相扶けんが為、件の一族等馳せ向かうの処、野宮の辺に於いて希義誅せらるの由を聞き、空しく以て帰去す。」(「吾妻鏡」同日条)。

「土佐の国住人家綱・俊遠等を征せんが為、伊豆左衛門の尉有綱を彼の国に差し遣わさる。有綱夜須の七郎行宗を以て、国中の仕承と為し、今暁首途す。件の家綱等、土佐の冠者を誅す科に依って此の如しと。 」(「吾妻鏡」11月20日条)。

9月29日

「越後国の城四郎永用(永茂、助職を改名)、越後国の小河庄の赤谷(北蒲原郡赤谷村、新発田市上赤谷)に於いて城郭を構へ、…源家を呪詛し奉るの由、その聞こえ有り。」(「吾妻鏡」同日条)。


10月3日

・平宗盛を内大臣に、平知盛を権中納言(従二位)に補任。

知盛;

治承4年以降、武蔵の知行国主となり高倉院の御厩別当を務める。武蔵は相模と並んで東国武士の本場とでもいうべき国であり、国内の武士の組織化も進めたらしく、彼の御家人には有名な熊谷直美(くまがいなおざね)の名も見える。御厩別当は院の車・馬牛を管理する役であり、軍事に関係深いポストである。そして、この日、権中納言・従二位に進む。

10月9日

・源義仲、城長茂を信濃で破る。

「越後の住人城の四郎永用、兄資元(当国守)が跡を相継ぎ、源家を射奉らんと欲す。仍って今日、木曽の冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃の国築磨河の辺に於いて合戦を遂ぐ。晩来に及び、永用敗走すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月17日

・頼家・北条政子、頼朝邸に帰還。

「御台所並びに若公、御産所より営中に入御す。・・・比企の四郎能員御乳母夫として、御贈物を奉る。この事、若干御家人有りと雖も、能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月21日

・安徳天皇の大嘗会御楔(だいじょうえごけい)行幸。鴨川の三条河原。内大臣宗盛は待賢門前と三条京極で落馬し人目を引く(『玉葉』)。

天皇は即位にかかわる最後の仕上げの儀式である大嘗祭に臨むため、その前月の下旬に禊(みそぎ)を行なう。平安中期以降、おもに鴨川の三条河原で行なわれた。行幸の日は節下(せちげ)の大臣以下文武百官が従い、女御以下女官も車を連ねて供奉し、行程中の服装も華麗である。節下の大臣は儀式に立てる旗の下で事を執り行なう大臣のことであり、この日は内大臣宗盛があたった。"

11月

・私選集「月詣和歌集」成立。撰者賀茂重保。定家(21)9首入る。

11月10日

・北条政子、頼朝の寵女亀の前の館を破却させる(「吾妻鏡」)。

「この間、御寵女(亀前)伏見の冠者廣綱が飯島の家に住すなり。而るにこの事露見し、御台所殊に憤らしめ給う。これ北條殿の室家牧の御方密々にこれを申せしめ給う故なり。仍って今日、牧の三郎宗親に仰せ、廣綱が宅を破却し、頗る恥辱に及ぶ。廣綱彼の人を相伴い奉り、希有にして遁れ出て、大多和の五郎義久が鎧摺の宅に到ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月12日

・頼朝、牧宗親(北条時政室の牧の方の兄)の髻を切る(「吾妻鏡」)。

「武衛事を御遊興に寄せ、義久が鎧摺の家に渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に武衛事を御遊興に寄せ、義久が鎧摺の家に渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に次第を言上せしむ。仍って宗親を召し決せらるるの処、陳謝舌を巻き、面を泥沙に垂る。武衛御欝念の余り、手づから宗親の髪を切らしめ給う。この間仰せ含められて云く、御台所の事を重んじ奉るに於いては尤も神妙なり。但し彼の御命に順うと雖も、此の如き事は、内々盍ぞ告げ申さざらんや。忽ち以て恥辱を與うの條、所存の企て甚だ以て奇怪と。宗親泣いて逃亡す。武衛今夜止宿し給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月14日

・北条時政、伊豆へ進発(「吾妻鏡」)。

北条義時(20)、父時政の伊豆下国に随わず頼朝より賞される

「・・・今晩、北條殿俄に豆州に進発し給う。これ彼の欝陶、宗親御勘発の事に依ってなり。武衛この事を聞かしめ給い、太だ御気色有り。梶原源太を召し、江間は穏便の存念有り。父縦え不義の恨みを挿み、身の暇を申さず下国すと雖も、江間は相従わざるか。鎌倉に在るや否や慥にこれを相尋ぬべしと。・・・江間殿参り給う。判官代邦通を以て仰せられて云く、宗親奇怪を現すに依って発を加うの処、北條欝念に任せ下国するの條、殆ど御本意に違う所なり。汝吾が命を察し、彼の下向に相従わず。殊に感じ思し食すものなり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞追って彼に仰せらるべしてえり。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月24日

・安徳天皇の大嘗祭。

12月13日

・後白河法王、新造の法住寺御所に八条院と共に移る。定家、供奉する。

12月16日

・亀前を匿った咎により広綱が遠江に流される

「伏見の冠者廣綱遠江の国に配す。これ御台所の御憤りに依ってなり。」(「吾妻鏡」同16日条)。

12月19日

・兼実、御堂で故女院(崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子、兼実の異母姉)のための弥勒講を修す。

「玉葉」は、「年来故女院の御時、この講を行はると雖も、関東・北陸の御領等、路塞ぎによりて用途不通の間、毎月の御講等を止めらるるの中、同じくもって停止」していたという。女院がはじめた弥勒講は、戦乱の激しい治承・養和の頃は中絶していた。

12月20日

・頼朝の命により亀前が小坪の光家の家に戻る。

「御寵女小中太光家が小坪の宅に遷住す。頻りに御台所の御気色を恐れ申さると雖も、御寵愛日を追って興盛するの間、なまじいに以て仰せに順うと。」(「吾妻鏡」12月10日条)。


つづく



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