建久8(1197)年
1月20日
・藤原定家(36)、中宮任子御物忌に参入するも諸病おこり退出
2月4日
・藤原雅経(頼経次男、大江広元女婿)、後鳥羽院命により鎌倉を出発、京に向かう
2月7日
・高野山金剛峰寺修理料の運送のため紀河津料を免除する
3月
・参議藤原公時の家人橘兼仲の妻、後白河に託して妖言を吐く。このため兼仲を隠岐へ妻を安房へ配流。式子内親王、この事件に関与するとされる。
3月20日
「造国司隆保朝臣従三位に叙す。上臈数輩超越す。不便の由、関白申せしむと雖も、勅許無しと。能登の国を以て中将猶子源具親(師光入道子と)と。」(「玉葉」同日条)。
3月23日
・里見義成・新田義兼等、頼朝の信濃善光寺参詣に供奉。(「吾妻鏡」)
5月
・翌月にかけて心房病なるもの流行。
6月
・頼朝、石橋山で戦死した佐奈田義忠のため証菩提寺を建立
7月14日
・大姫(頼朝の子・義高の元妻、19)、没。
「京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。能保が子高能と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。」(「愚管抄」)。
7月20日
・この年、藤原俊成、式子内親王の下命に応じ、歌論書「古来風躰抄(こらいふうていしよう)」を献ずる。
この頃、初撰本成立
(1201年改訂)、晩年の和歌観を吐露。俊成は天台止観によって和歌の変遷を内観し(最初の和歌史観)、浮言綺語(ふげんきぎよ)の和歌が仏法悟得の機縁たりうるという新価値観(狂言綺語観)を提示、さらに「古今集」を歌の本体と仰ぐ伝統観「古典の定立」を述べる。俊成の新風は広義の幽玄体といわれ、幻想的な詩趣と優美な声調の調和の中に陰翳深い耽美的情念を流露させ抒情の世界に余情の新領域を開く。
8月16日
・藤原定家(36)、駒牽に奉仕、駒牽の儀の後、右中弁資実と贈答歌各一首
定家が日野資実に送った歌
立馴之三世乃雲井乎今更暦爾隔天見鶴霧原乃駒
(立ち馴れし三世の雲井を今更に隔てて見つる霧原の駒)
これまで高倉・安徳・後鳥羽の三世には殿上人として交わって見てきたのに、それを遠い立場から見る私は「霧原の駒」のようなものである、と殿上の籍を除かれたことで、朝廷の行事を遠くから見ざるをえなくなった無念さを詠む。
9月10日
・後鳥羽院の第三皇子守成(もりひら)親王(後の順徳天皇)生まれる。母は、藤原範季の娘重子(在子とは従姉妹)。
9月21日
・幕府、僧文覚を紀伊の阿弖川荘下司職に補任。
10月4日
・幕府、8万4千の塔を全国に立て、敵味方の区別なく保元以来の諸国の戦没者の霊を弔う。
奥州合戦終了直後の文治5年(1189)12月、頼朝は「数万の怨霊を宥め」(『吾妻鏡』12月9日条)るために、中尊寺大長寿院(だいちょうじゅいん、二階大堂)を模倣して、鎌倉に永福寺(二階堂)を建立する計画を立て、工事を始めた。
翌建久元年(1190)7月15日には、も「平氏滅亡の衆等の黄泉を照らさんがため」(『吾妻鏡』同日条)、鎌倉の勝長寿院において万燈会を行った。
そして、内乱で滅亡した敵方武士の鎮魂のために積極的に進めていた宗教政策の最大のものが、この日午(うま)の刻(昼12時頃)、諸国一斉に行われた8万4千基の宝塔供養である。
8万4千基の宝塔供養とは、仏教を保護したアショーカ王(阿育王)が、多くの人を殺した罪を償うために8万4千基の塔を造ったという伝説に基づいて、怨霊調伏・罪障消滅のために小塔を造るというもので、日本でも阿育王(あいくおう)信仰が浸透した10世紀半ば以降たびたび行われていた。
頼朝はその8万4千基の宝塔(塔長5寸)の造立を、全国で8万4千基になるように、守護などを通じて各国の鎌倉殿祈禱所や有力御家人に割り当て、「諸国夭亡(ようぼう)の輩、成仏得道」(『鎌倉年代記裏書』)のために一斉に供養を行った。
但馬国では300基が割り当てられ、63基は鎌倉殿祈禱所である進美寺(しんめいじ)の住僧、残りの237基は「国中大名等」が造立し、10月4日に進美寺で300基の宝塔供養が行われた。進美寺には、その日の午の刻に但馬国守護安達親長が読み上げた「敬白文」が残されているが、そこでは「平家に駆られて北陸に趣くの誰は、露命を篠原の草下に消し、逆臣に語はれて南海に渡るの族(やから)は、浮生(ふせい)を八島の浪士に尖ふ。比の如きの類、恨を生別の衢(ちまた)に遺し、悲を冥途の旅に含むか」と、北陸や屋島などの戦場で命を落とした敵方の戦死者に対して、「怨(うらみ)を以て怨に報ずれば、怨は世々断つること無し。徳を以て怨に報ずれば、怨は転じて親と為る」(進美寺文書)と述べて、鎮魂の供養を行う趣旨が語られている。中世社会においては、正当な政治権力には戦後処理としての敵味方を問わない鎮魂が必要とされていた。
10月13日
・一条(藤原)能保、没。
「能保入道はうせにける。」(「愚管抄」)。
12月
・島津家初代当主島津忠久、大隅・薩摩の守護となり、後、日向の守護も兼ねる。
・後鳥羽天皇の譲位が世の噂となる。
12月5日
・仁和寺宮守覚法親王(37、式子の同母兄、後白河の第二皇子)、俊成・定家に五十首和歌の詠進を召される(「御室五十首」)。この宮には珍しいと驚く。この五十首は秀歌揃いで、『新古今集』に六首も採られた。
霜まよふ空にしをれし雁が音のかへるつばさに春雨ぞ降る
春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空
「源氏物語の最終部をふまえて、浮舟が見捨てられたままにされていることなどがこの三十一音詩に含められている。これはもう教養による人工の極と言うべきものであろう。かくまでの巧みと寓意と象徴は、他を考えてみてもせいぜいでマルラメの十四行詩にあるくらいのものであろう。音韻のなだらかさにも耳を澄したいものである」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
十二月五日。天晴。少輔入道来タル。一日召シニ依り、仁和寺宮ニ参ズ。仰セニ云フ、五十首和歌ヲ詠マント欲ス。定家父子、詠進スべキノ由、相示スベシトイヘリ。時ニ云フ、身ニ憚リ多シト雖モ、此ノ事ヲ聞キテ左右ナク領状。宮ノ御事更ニ似ザル事ナリ。
関白兼実の失脚、慈円(兼実の弟)の天台座主辞任などの政変(建久七年の政変)により、兼実の嗣子良経が内大臣・左近衛大将として残ってはいるものの、九条家としては歌会などを開くこともなく、建久8年の定家の歌作は、これまでたったの2首であった。
12月15日
・源頼家(16、頼朝長男)、従五位右近衛少将に叙任。鎌倉殿頼朝の後継者として認められた。在鎌倉のままで天皇に近侍する役職である右近衛少将に補任されたことも、先例を破ることでもあり、後鳥羽上皇は頼家に対し破格の待遇を与えている。この頼家の初任とそれ以降の官途を見ると、ほぼ摂関家の庶子と同等の待遇であった。
つづく
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