建久10(1199)年
・俊芿(しゅんじょう)の入宋。宋文物の進取的・総合的招来。
前年、戒律求法のため入宋を発願し100日間の不眠の行を修し、この年、博多から入宋。
「径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで、12年後の1211年(建暦元年)日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。」(Wikipediaより引用)
1月1日
・昏に臨み雷電地震あり。二年続きで元日に日蝕。
1月1日
・定家(38)、「今年病息災ヲ除ク為」に写経
1月4日
・定家(38)、「風気不快」。この頃、風病を病む。
日吉社から戻り、中宮任子(兼実の娘、宮中を追われている)の九条殿を訪れる。
「元三の間、人人多く宮(任子)に参ずと云々。申の時許リ大臣殿(良経)に参ず。相次で宮御所に参ず。巽(東南)の方、悉く造り畢(おわん)ぬ。風流の勝形、仙洞(院御所)に興らず。殿下(兼実)御覧じ廻る。召しにより御前に参じ、御供して暫く徘徊す。自ら御所の御格子を下げしめ給う。」
九条殿では正月三ヵ日、中宮任子に挨拶に参る人が多かった。兼実が任子のために新しく御所を造っていた。その御所は「風流の勝形、仙洞に異らず」と記すように、院御所にも劣らない立派な殿舎であった。
「この年は、風病だけではなく、脚気、腰痛、手足苦痛、咳病などがこもごも彼を襲い、腰痛のときには「焼石」なる石を温めたものを腰にあててみたが、効かないどころかますますひどくなり、車に乗せられて嵯峨の山荘へ行って湯治をしている」(『定家明月記私抄』)
1月5日
・定家(38)、式子の大炊殿に拝賀。兼実は、腫物が出来て、六十草ばかり灸治を行っている。
1月7日
・定家(38)、長男光家(16)を連れて九条殿へ行き、兼実や良経、中宮任子に面会。兼実より過分の仰せ事を賜う。光家は、樺桜浮文の織物・狩衣・萌黄の衣・紫の指貫に、紅の下袴という優美な出立ち。
1月11日
・頼朝、急病のため出家。
1月11日
・定家(38)、八条院の八幡御幸に供奉、浄衣を着す。
八条院の女房の戸部宗頼の妻が、「虚言狂乱、言語道断ノ事」に怒って「喧嘩口舌」、健御前(5歳年超の定家姉)と諍う。健御前が八条院に忠なるため、戸部夫婦は追い出しにかかる様子だとある。「凶女ノ舌端、虎口ニ入ルガ如シ」。健御前は院を出て定家のもとに避難。
1月13日
・源頼朝(53)急死。
安達盛長、出家、蓮西と号する。
政子(42)は剃髪し尼御台となる。
死因は、稲毛重成が亡妻の追福のために相模川の橋を新造し、その供養が前年10月に行われ、頼朝も列席したが、その帰り道で頼朝は馬から落ち、その後しばらくして亡くなったとされている。
しかし、落馬そのものが単なる事故なのか、それとも脳溢血のような急病だったのか、あるいはまたそれ以上に暗い背後の事情があったのかは判断できない。
頼朝の死については、『吾妻鏡』が建久7年(1196)1月から建久10年(1199)1月まで記事を欠いていることもあって、詳しいことは不明。
ただ、よく知られているように、建暦2年(1212)2月、相模川に架かる橋の修理が幕府の評議で検討された際に、「去る建久九年、重成法師これを新造し、供養を遂ぐるの日、結縁のために故将軍家渡御す。遠路に及びて御落馬あり。幾程を経ず葬じ給ひ畢んぬ」(『吾妻鏡』建暦2年2月28日条)と話題になり、この記事に基づけば、頼朝は相模川の橋供養の帰りに落馬し、それから間もなくして亡くなったことになる。
なお、摂政基通の子で権大納言近衛家実は、「前石大将頼朝卿、飲水に依り重病」(『猪隈関白記』建久10年1月18日条)と記し、頼朝が「飲水」(糖尿病)で重体に陥っていたと伝えている。
京都の人びとの驚いた様子は、『愚管抄』に「夢か現かと」人びとは思ったという慈円の形容や、『明月記』に定家が記した「頓病(急病)か」という言葉に表れている。
そして急死であり、その意味で尋常でない死であったがゆえか、頼朝の死は彼によって滅ぼされた人びとの怨霊の祟りとする見方もあった。
例えば『保暦間記(ほうりやくかんき)』は次のような話を載せている。
橋供養の帰途、頼朝が八的(やまと)ケ原にさしかかると、志田義広・義経・行家などの亡霊が現れて頼朝とにらみ合いになり、さらに稲村ケ崎に至って、海上に十歳ばかりの童子姿で安徳天皇の亡霊が現れ「今こそ(頼朝を)見つけたぞ」と叫んだ。その後、鎌倉に帰って頼朝は病みついて亡くなったが、これは老死ではなく平家の怨霊のせいであり、多くの人を滅ぼしたためだというものである。八的ケ原というのは現在の藤沢市辻堂付近の海岸に当たるが、この場所は、生虜になった平家関係者が鎌倉への行き帰りに通った道筋であり、頼朝に鎌倉入りを拒まれた義経が弁明の状を捧げた腰越にも近い。さらに頼朝の本拠である鎌倉の西端から出たところで、頼朝を狙う怨霊が出現する場所として条件は揃っている。
権力者の不幸の背後に、その人物によって敗亡した人びとの怨霊の崇りを見るのは、当時の社会にあってはごく当然のことでもあった。とりわけ大量の犠牲者を生んだ、保元・平治から治承・寿永にかけての争乱期には、こうした噂が広く行われ、治承・寿永の争乱自体が、崇徳上皇・藤原頼長ら魔道に堕ちた保元・平治の乱の敗者たちの怨霊のせいだとまで考えられていた。
この争乱時代を生き延びて天寿を全うした後白河さえ、死を前にして痢病に苦しみ、怨霊の恐怖に怯えながら、崇徳・安徳をはじめとする戦乱の犠牲者たちの菩提を祈る措置を請じている。頼朝もまた生前、崇徳の慰霊や、奥州合戦の死者の鎮魂に努めたりしていたが、死の数年前からの『吾妻鏡』には、怨霊の崇りを窺わせる怪異についての記事が散見される。そうした時代にあっては、平氏を遂い、源氏一族を粛清し、弟たちをも滅ぼした頼朝の死に関して、怨霊の出現が放り沙汰されるのは必然だったともいえるのである。
「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」(「保暦間記」)。
「前右大将所労に依り、獲麟(かくりん)。去る十一日出家の曲、飛脚を以て夜前に院に申さる。…‥朝家の大事、何事かこれに過ぎんや。怖畏逼迫の世か」(建久10年1月18日条)
「嫡子少将頼家を喚出し、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜せよ。八ヶ国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑て日本国をば鎮護すべし」と遺言をし給ひける。」(「承久記」)。
「カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ、アサマシキ事出(いで)キヌ、同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ、ヤガテ正月十一日出家シテ、同十三日ニウセニケリト、・・・・・夢カ現(うつつ)カト人思タリキ」(慈円『愚管抄』)
1月13日
・定家(38)、八条院日吉御幸に供奉
1月16日
・藤原定家(38)、光家を連れて、大炊殿・三条殿・禁中をめぐる。
頼朝死去。
以降、
「院中物忩。上ノ辺り、兵革ノ疑ヒアリ」
「巷談、京中騒動、衆口狂乱、院中又物忩」
「与州以下、宿所ニ会合シ、院中ヲ警固ス。女房等凡テ人ヲ出サル。何事ナルヲ知ラズ」
「世間ノ狂言、逐日嗷々。院中ノ警固、軍陣ノ如シト云々」
との記事が続く。
つづく
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