建久9(1198)年
2月22日
・藤原定家(37)、良経の北小路殿に赴き、藤原頼長の「宇治左府御別記(御即位)」(『台記別記』)を見る。3月の土御門即位に備えての勉強。多くの不審が散じたと記し、27日にはその『台記』の記事を少し抄出する。
「二月二十二日。天晴。午ノ時許リニ、北小路殿ニ参ズ。宇治左府別記ヲ給フ(御即位)。之ヲ見、多ク不審ヲ散ジ了ンヌ。其ノ奥ニ画図等アリ。彼ノ日ノ物具等ノ体ナリ。」
2月24日
・定家(37)、式子内親王に、桜の木をいただいて自庭に植える。
2月25日
・定家(37)、良経から、雪に竹の歌をしらべるよう命じられる。三代集・『後拾遺集』『金葉集』『柿本集』『貫之集』になく、『久安百首』『堀川百首』『千載集』から書いて進上するが、『万葉集』以下を引見するよう命じられ、『古今和歌六帖』から二首をみつける。
また、荒法師文覚が、兼実の許に来て、近日のわが秀歌として、次の歌を示したという。
世のなかのなりはつるこそかなしけれひとのするのはわがするぞかし
文覚は、「此歌、心を殊勝に籠む。但し咎むる人あらば、文覚の事と謂ふべきの由称ふ」と言ったという。定家は、〈誠ニ心無キ歌ニアラザルナリ。不思議ナリ〉と記す。
「二月二十五日。天晴。殿ヨリ仰セテ云フ、竹ニ雪降ルノ古歌、少々注シ進ムベシト。予、此ノ仰セヲ蒙ルノ後、三代集幷ニ後拾遺・金葉集ヲ引見スルノ処、竹ニ雪ノ歌無シ。近代常ニ詠ム歌ナリ。定メテ巨多カノ由、存ズル処、更ニ見ズ。詞華集当時持タザルノ間、又柿本・紀氏集ヲ勘へ見ル。遂ニ以テ之レナシ。仍テ崇徳院百首・堀川百首幷ニ千載集ヲ予(タマ)ハリ、二首(読人、共ニ以テ然ルべキ人ニアラズ)ヲ書キテ持チ参ズ。御前ニ召シ、仰ス事等アリ。猶万葉集以下ヲ引見スべキカノ由、仰セアリ。其ノ歌又雑用卜質(ナ)スカ。是レ引物ノ絵ニ、竹ニ雪ヲ画カレ了ンヌ。歌ニ絵所ノタメニ求メラルルナリ。即チ候(タヅ)ヌル所等ヲ御覧ズ。若君同ジクオハシマス。- 此ノ間ニ又侍ヲ以テ仰セテ云フ、雪ニ歌、猶求メ出スベシトイヘリ。仍テ退下シ、更ニ和歌六帖ヲ引見ス。二首ヲ勘へ出シ、之ヲ献ズ。其ノ内、
あしびきの山より雪はふりくれどいつもかはらぬわが宿の竹
是レ頗ル祝言ニ寄セ、用フベキ由仰セラル。六帖、又勅撰ノ如キニアラズト雖モ、和歌ニ於テ軽々シカラザル物ナリ。何事カアランヤノ由申シ了り、又退下ス。」
2月26日
・定家(37)、北山長谷の方に売地ありときき遠路検分にゆくが気に入らない。
「二月二十六日。天晴。辰終許リニ、門ヲ出テ、北山ノ長谷ノ方ニ向フ。売地アルニ依り、行キ向フ所ナリ。 - 貴賢人ノ旧跡卜雖モ、其ノ所甚ダ輿ナシ。已ニ相伝ノ思ヒ無シ。空シク帰路ニ赴キ、未ノ時許リニ帰宅ス。遠路無益々々。」
2月27日
・定家(37)、『台記別記』を少し抄出する
2月28日
・定家(37)、仁和寺の守覚法親王に参じて、御室本「官庁指図(官庁御即位の図)」筆写
2月29日
・定家(37)、伊予少将より「元暦之式(元暦の即位式の記録)」を借りて書写。ついで不審のところを坊門大納言・堀川宰相中将等に尋ねる。
「家絶エ、心愚カナリ。万事只ニ惘然。期ニ臨ミテ諸方ニ問フ。又後世ノ人無シ。適々尋ネ得ル事、是レ万々ニ一カ。然リト雖モ、又励ミ営マズンバ有ルべカラズ。九牛ノ一毛卜雖モ、猶師ノ説大切ノ故ナリ」と、故実を尋ねる定家の心境を記す。
3月3日
・為仁親王(4)、即位(第83代天皇、土御門天皇)。
4月4日
・源通親(1149~1202)、後鳥羽上皇執事となり、「院中申行諸事之人也」と評され(「猪隈関白記」建仁2年(1202)10月21日条)、更に通親没後、その弟通資(~1205)も「非器無才」といわれ懇望して執事の地位につく(「明月記」建仁3年2月2日条)。
5月
・『和歌色葉』(上覚)成立
5月2日
・『後京極殿御自歌合』(藤原良経)成立
5月20日
・この日より「鳥羽百首」(明日香井集)
8月16日
・後鳥羽上皇、初めて熊野へ御幸。
10月
・越前の真柄荘(武生市上真柄町・真柄町)、七条院庁下文により御願寺の仁和寺歓喜寿院領に編成される。
真柄荘は、橘行盛の私領真柄保とそこに建立された氏寺の料田4町が母体になり、建久3年8月越前の分国主七条院の兄藤原信定に譲られる。橘氏は、信定又は父信隆の母方縁者とみられる。信定は翌4年越前守に補任。真柄保領有について訴訟で、記録所の勘状により真柄保は無主の国領と認定される。このため信定はこれを七条院に寄進、この月七条院庁下文により仁和寺歓喜寿院領に編成される。預所職は信定の子の侍従信継に伝えられる(信継の兄弟の仁和寺僧信長は歓喜寿院執行)。鎌倉末期、真柄荘領主職を巡り仁和寺側と領家が訴訟。真柄荘の地頭の所見はないが、南北朝期迄に武士真柄氏が成長。
10月16日
・興福寺衆徒の訴えにより和泉守平宗信の任を停止する
11月14日
・藤原兼雅が左大臣、藤原頼実が右大臣となる。
12月
・頼家長子・一幡、誕生。
母は頼家側室の比企能員娘の若狭局。能員は外戚として権勢を振う。
12月10日
・定家(37)、臨時祭舞人拝命
12月16日
・平宗信を解任して播磨へ流し、僧玄俊を佐渡へ配流。
12月27日
・稲毛重成亡妻の追善のため相模川に架橋して供養し、頼朝赴く。帰路、頼朝落馬
「相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。」(「承久記」)。
「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」(「保暦間記」)。
「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」(「神皇正統録」)。
12月晦日
・定家(37)、日吉社参観籠。翌年正月4日、帰宅。
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