建久9(1198)年
・法然の「選択本願念仏集」、栄西の「興禅護国論」が出る。
・熊谷直実、法然を師として仏門に入り、蓮生と名乗り、京都西岡の地に草庵を構える。法然を開山として念仏三味院といったのが光明寺(長岡京市粟生西条ノ内26)の始まりであるという。
熊谷直実(1141~1208):
源頼朝の御家人。1180年頼朝に従い常陸の佐竹秀義討伐に戦功をあげ、久下直光の押領地を停めて旧領を安堵される。1184年宇治川の戦では先陣として活躍。同年一の谷の戦では、源義経に従い平山季重と先陣の功を争う。海上に逃れようとする笛の名手平敦盛(16)をそのままにしようとするが、周囲の武士に咎めめられたため、敦盛を呼びとめ討取る。1187年鶴岡八幡宮の放生会で、流鏑馬の的立役を命じられるが、役目に不満で勤めず、所領の半分を召し上げられる。1192年久下直光と土地境界線で揉め、頼朝の前で対決するが、充分に弁明できず頼朝の不審を招き不利な採決が下る。証拠文書などを投げ捨て、幕府の西侍で髪を切り、行方不明となる。
・藤原定家(37)、為家誕生
1月1日
・この年、正月元日に日蝕。
1月1日
・藤原定家(37)、写経。
2日~4日、体調不良
「正月二日。天晴。辰ノ時以後、漸ク陰ル。未ノ時許リニ雨降ル。終夜止マズ。今日節会ナリ。申終許リニ八条殿ニ参ズ(略)。昏黒ニ退出シ、入道殿ニ参ズ。路頭ニ於テ秉燭。見参ノ後ニ退出シ参内。雨殊ニ甚シ。内弁已ニ中間ニ立ツノ間ナリ。雅人狼籍。甚雨ノ間、旁々進退谷(キハ)マル。 - 心神甚ダ歓楽。家門ニ人ルノ後、身体歓楽、忽チ為ス方ヲ知ラズ。終夜甚ダ歓楽。鶏鳴ニ臨ミ、頗ル落居ス。」
正月、定家は参内に、兼実邸にと忙しく、緊張して疲れたのか、歓楽(病に苦しむ状態)して終夜眠らず、明け方やっとおさまる。
次の日は籠居。やはり終日、前夜のごとく苦悩、鶏鳴以後やっとよくなった。にもかかわらず、人の見聞を書きとめる。即ち、宗国少将の異例の衣裳を人々があざけり、兼実の御沓を取る役を源雅行に改定させたこと。有雅少将が縫腋を着したとか等。
4日も心神違例。風邪らしいので沐浴(当時の療法の一つ)。
1月6日
「或る人云く、譲位有るべしと。明後日ばかりに大炊殿に幸き、閑院を以て新帝宮と為すべしと。十一日・二十一日の間、譲国の儀有りと。」(「玉葉」同日条)。
1月6日
・藤原定家(37)、除目の聞書(叙位任官者の理由書)が到来するが、「無慙ノ世ナリ」。左近衛権少将に任ぜられてから9年、従四位になって8年になるが、九条家失脚の状況では官位昇進の望みはない。
1月7日
「譲位の事、譲国等の事、元より沙汰に及ばずと。幼主甘心せざるの由、東方頻りに申せしむと雖も、綸旨懇切、公朝法師下向の時、子細を仰せらるるの時、なまじいに承諾を申す。然れども皇子の中未だその人を定められず。関東許可の後、敢えて孔子の賦を取り、また御占いを行わる。皆能圓孫を以て吉兆たりと。仍って一定せられをはんぬ。この旨飛脚を以て関東に仰せられをはんぬ。彼の帰り来たるを待たず、来十一日伝国の事有るべしと。桑門の外孫、曽って例無し。而るに通親卿外祖(彼の外祖母を嫁しをはんぬ故なり)の威を振わんと為す。(中略)通親忽ち後院別当を補し、禁裏仙洞掌中に在るべきか。彼の卿日来猶国柄を執る(世源博陸と称す。また土御門と謂う)。今外祖の号を仮、天下独歩の体、ただ目を以てすべきか。明日、中納言中将を補すべしと。その後任大臣を行わるべし。右大将丞相に昇る。その将軍を奪い通親拝すべしと。外祖猶必ず大臣に補すべきか。今日東札到来す。その詞快然なり。還って恐れを為す。今夜北斗を拝し奉る。」(「玉葉」同日条)。
「通親卿結構の外、帝王以下他の人有るべからざるか。」(「明月記」)。
1月8日
「譲位の事風聞す。天下の事倉卒より起こる。人皆仰天すと。」(「玉葉」同日条)。
1月9日
・藤原定家(37)、大炊殿行幸に供奉。
この日、使いが来て、「明後日行啓ニ参ズベシト。予云フ。行啓トハ何事ゾト。答ヘテ云フ。東宮ノ行啓ナリト。問ヒテ云フ、東宮トハ誰人ノ御事ゾヤト。」
後鳥羽が譲位して、第一皇子が土御門天皇になるについて、皇太子としての決定や宣布はなされていない。3人の皇子の中からクジ引きで決めたというが、源通親が決めたことである。
4歳の土御門が通親邸から抱かれての行啓。
定家の心境は、「其ノ役ヲ嫌フベカラズト雖モ、他ノ人無キニアラズ。不快不吉、疎遠地下ノ者、何ゾ吉事初度ノ事ニ供奉スベケンヤ」である。
後鳥羽が院となって入るべく新築中の豪奢な二条宮では棟上げ式の最中に「闘乱刃傷」が二件あり、「吉事ノ始メ、後鍳(こうかん)見ルベシ」(後のたたりが怖ろしい)と書く。
1月11日
・藤原定家(37)、脚気を病む。後鳥羽天皇譲位、土御門天皇受禅の儀に参仕
「この日譲位なり。大炊御門より劔爾を閑院に渡せらる。頭の中将公経爾を捧ぐ。右中将成定昼の御座に御劔を持つ。・・・新帝、今旦先ず博陸の家に渡御す。彼の宅より閑院に渡り給うと。」(「玉葉」同日条)。
1月16日
・元日の日蝕に続いて、この日は月蝕。
1月17日
・後鳥羽上皇(19)、院政を始める。
源通親は天皇外祖父として院庁別当(大納言兼任)に就任、朝政・院政を掌握。人々は「飛将軍」・「源博陸(げんはくりく)」(「博陸」は関白の異称)と呼ぶ。
1月17日
・藤原定家(37)、射礼に参仕
1月18日
「正月十八日。天晴。早旦、召シニヨリテ参上ス。女房ヲ以テ仰セラルル事アリ。一昨日、予申シ入ルル子細アリ。官途ノ事ハ望ヲ絶エ了ンヌ。御給等又所望無シ。 - 申ス旨等、殊ニ御威言ノ答へアルト云々。超越ニ於テハ、全ク痛ムベカラズ。所望ニ於テハ、又其ノ縁無キニ依り、更ニ申スベカラズ。但シ解官無クバ、本官ノ出仕全ク懈怠アルベカラズ。人ノ超越、翌日即チ出現スベシ。此ノ上ハ、申シ入ルル旨無キニ依り、解却サルルニ於テハ、又痛ムベカラザル由ナリ。此ノ条、殊ニ御甘心アリ。御興言等アリ。即チ退下ス。」
定家の現在の官職は、従四位上近衛権左少将である。絶望して、何も申し入れる事はないといっているが、兼実から女房を通じて、種々なぐさめの言葉を受ける。
1月19日
・全権を掌握した通親は思うがままに人事をおこない、この日、九条良経の左近衛大将を辞めさせて、後任に基通の嫡子家実を任じた。更に、この時、良経に太政大臣昇進の話が持ち上がっていた。建久2年3月10日、兼実の同母弟兼房が太政大臣になったとき、兼実が「太相(だいしょう、太政大臣)、近代大略棄て置くの官」と記しているように、太政大臣はこの頃、これといった職務のない、名誉職になり果てていた。
しかも、安元3年(1177)正月、藤原師長(頼長の子)が太政大臣への就任を望み、「永く執政の思ひを絶つ」と述べたように(同年正月23日条)、太政大臣になると、摂関にはなれないと考えられていた。人臣最初の摂政である良房を除き、太政大臣になってから摂関に任じられた者はいなかった。そこで、良経の太政大臣昇進の話が出ると、九条家の家中では「絶望」といわれた(『明月記』建久9年正月8日条)。
しかし、後鳥羽上皇は良経を太政大臣には任じず、かえって翌正治元年(1199)6月22日、左大臣に任じて厚遇した。良経は建久7年の政変以来、籠居して朝廷に出仕していなかったが、正治元年12月には後鳥羽の命令で兵杖(へいじょう、護衛の武官)を与えられ、出仕を果たした。
そして、建仁2年(1202)10月21日、通親が急死すると、12月25日、基通は摂政を解任され、良経が摂政となる(ただし、このときも、良経は兼実のときと同じく11月27日にいったん内覧とされている)。
良経が摂政に就任した後、基通は後鳥羽の命により閉門・籠居を命じられたが、12月26日には閉門処分を解かれている。また、嫡子家実も12月23日には出仕を許された(『猪隈関白記』)。
後鳥羽は近衛家・九条家のどちらに肩入れするわけでもなく、双方の勢力を均衡させ、そのうえで自分が人事権を持つことで、摂関家やそれに従う貴族たちを自分の下に統制しようとしていたと考えられている。後鳥羽にとって、摂関家は二つに分かれ、争っているくらいがちょうどよかった。
これによって摂関家は新たな段階を迎えた。一般に、摂関家は忠通の息子である基実・基房・兼実がそれぞれ摂関になったことから分立したといわれるが、法住寺合戦で師家が摂政になると基通が没落し、義仲滅亡後は基通が返り咲いて基房・師家が没落したように三つの家系は同時に併存することはなかった。これは保元の乱前、摂関家の後継者の地位をめぐって忠通と頼長が争ったのと同じで、ここまでは唯一の後継者の地位(嫡流)を三つの家系が争っていた。
ところが、後鳥羽は近衛家・九条家をともに摂関家として処遇した。摂関家領をめぐる争いに敗れ、嫡流を象徴する家産を持つことができなかった九条家は、本来ならば、建久七年の政変後、没落し、二度と摂関を誰出しなくてもおかしくなかったはずである。だが、後鳥羽によって摂関家としての家格の維持を許されることで、ここに新たな摂関家としての九条家が確立した。
1月19日
・藤原定家(37)、御堂例講に参仕。
1月24日
・藤原定家(37)、1日の写経の結縁により涅槃経一巻書写。
1月25日
・藤原定家(37)、兼実より藤原資房の日記『春記』(「資房卿紀七巻」、『春記』万寿・長元・長暦年間記)を借用、書写。2月6日、書写完了、翌7日返却
「正月二十五日。天晴。今日、殿ヨリ資房卿記七巻ヲ給フ(万寿・長元・長暦)。此ノ記、極メテ以テアリ難シ。人以テ之ヲ秘ス。年来借ルヲ得ズ。今之ヲ給フ。殊ニ以テ握玩ス。」
年来見たかった日記である。家の日記は大切に秘めて、写本を持っていても、門外不出、余程信用の置ける人でないと貸さなかった。翌日から、門を出ず、一心に筆写する。
翌26日には「不出門、向旧記」、28日に「書旧記」、29日「書旧記、不知他事」、2月6日 「扶重病、今日書訖旧記七巻」と熱心に書写した後、2月7日にすべてを返却。
この時期、兼実は建久7年11月に関白を止められて失脚していた頃で、定家は「官途事絶望」(正月18日条)という状況にあって、不遇をかこっていたが、それにもめげずに公事に精進を続けている。
これ以前に『春記』は、父俊成の下で書写されていた。『春記』永承4年(1049)記の奥書には「建久元年庚戍十一月六日 能成 又今書進了」とあって、その次の行に俊成の花押が据えられているので、俊成の下で能成なる人物が『春記』を書写したことがわかっている。
後年、建暦2年(1212)4月18日に中将藤原資家から御禊の際の垣下について問い合わせがあった時、定家は『春記』を資家に貸し与えている。
1月26日
・藤原定家(37)、病気不快。『春記』書写。~29日。
1月27日
「正月二十七日。通夜、雨注グガ如シ。朝後ニ休ミ、巳ノ時ニ晴ル。今日、左司即チ黄牛一頭ヲ引キ送ラル。尋常ノ牛ナリ。去年ノ冬ヨリ、惣ジテ牛ヲ持タズ。東西ニ相尋ヌト雖モ、更ニ芳心ノ人無キノ処、殊ニ以テ悦着ス。 - 下人云フ、今日、太上皇密々女房車ニ乗リオハシマシ、景勝光院ニオハシマスト。此ノ一所ニ限ラズ、近日、京中幷ニ辺地ヲ日夜御歴覧。尤モ用意アルべシト云々。」
定家は、黄牛一頭を贈られ悦ぶ。牛なしで全く不自由だった。譲位した後鳥羽院は、女車に身をやつして、京中ばかりか郊外を歴覧の毎日。「尤も用意あるべし」の「用意」とは、日夜各所を歴覧する院と、いつ、どこで出くわすか分らない、用心が必要だ、というもの。
1月28日
・この日も日記を写してくらす。文義(定家の家司)が来て、後鳥羽院は、昨日俄に法住寺殿に御幸。源通親・高能が車で陪従したと。良経が明日着陣するので供に参上すべしとのこと、定家は所労中であるが、扶けて参ずべき由答える。
1月30日
・藤原定家(37)、健御前が、日吉社に参詣するので女房辛をつかわす。除目の聞書を記す。
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