2012年5月23日水曜日

天慶2年(939)11月 常陸国の藤原玄明、国衙(常陸介藤原維幾)と対立し、平将門に庇護を求める。将門は常陸国府と対立するに至る。

東京 北の丸公園 2012-05-18
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天慶2年(939)
7月
・群盗の制圧を任務に藤原子高(さねたか)が備前介に任じられた。
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8月
・平維扶(これすけ)、陸奥守に任じられ下向。
「陸奥守維扶朝臣を餞(はなむけ)す」(『貞信公記』天慶2年8月17日条)。
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9月
・東西で武装蜂起の緊張が高まっており、政府は武力行使を禁ずる官符を全国に出す。
官物収納の時期であり、しかも深刻な早魅である。
山陽道諸国では、国衙と負名の間で旱害による控除をどうするかなどをめぐって例年よりもいっそう鋭いせめぎ合いがあり、反受領の気運が高まっていた。
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10月
・平貞盛が任国に下る平維扶と共に陸奥国に逃れようとするが、将門に事前に察知・急襲され失敗。維扶は、そのまま任国に下っていく。
平維扶は、左馬助や左馬頭として、しばしば古記録にみえる。貞盛と「知音の心ある(知り合い)」とは、左馬寮での上司と部下の関係にあったことを示している。
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11月
・推問(すいもん)密告使源俊、11月になっても進発せず。
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常陸国の藤原玄明、平将門に庇護を求め、将門は常陸国府と対立するに至る

武蔵国で、武蔵武芝と興世王らの事件が起きていた頃、
常陸国では、藤原玄明と国衙(常陸介藤原維幾)との対立が起きた。

『将門記』と「将門書状」での藤原玄明の評価の違い
①『将門記』が記述する玄明の行状:
玄明等は、常陸国を乱す人々で、民衆の害毒であった。
農作の季節には膨大な面積の農地を経営しながら、国衙へは官物をまったく納めなかった。そればかりか、収納使が来れば、彼らに暴行を加え、弱い民衆から搾取する。行いはエミシよりもひどく、心情は盗賊と同じである。
常陸介藤原維幾は、官物を弁済させるために、たびたび「移牒」を送ったが、常陸国衙に出向かなかった。公に背き、悪事を働き、私宅に居て、領内の人々を虐げていた。

常陸介藤原維幾は、太政官に申請し追捕官符を下された。そこで、追捕しようとしたところ、急いで妻子を連れて、下総国豊田郡の将門のもとに逃れたが、そのついでに、常陸国行方・河内郡の不動倉の稲穀などを盗み取った。
そこで、維幾は、玄明を捕らえて移送してはしいとの「移牒」を下総国ならびに将門に送った。
ところが、将門は、玄明を常陸国衙に送ろうとはしなかった。
玄明は、常陸国に対しては前世からの敵となり、郡に対してはひどい悪行を行った。
常に往還(流通)する物を奪って、妻子の物とし、常に人民の財産を掠めては、従類の物とした。

②「将門書状」では:
常陸介藤原維幾の息子為憲は、父の常陸介としての権力を恃んで、ただ法を曲げること(法外な官物を徴収すること)を好んだ。

『将門記』は、権力者側(国司)の論理で書かれ、玄明を悪人として描き、「書状」では常陸介藤原維幾の息子為憲が非法を行い、非は国司側にあったとする。

国司(受領)及びその家族の横暴について
永延2年(988)「尾張国郡司百姓等解文」(尾張国の郡司らが尾張守藤原元命(もとなが)の非法を政府に訴えたもの、全部で31条からなる)を見ると、
その中には、元命の息子の頼方ら子弟郎等が、郡司百姓らから不法に財物を奪取していることが数ヵ条にわたって摘発されている。
また、先には上総国でも前任国司の子弟が問題となっている。当時、受領国司の権威を笠に着て、子弟が乱暴狼籍を働くことがしばしば起こっていたと思われる。

『将門記』では、藤原玄明が収納使に暴行を加え、官物を全く弁済しないと指摘しているが、受領が大きな権力を持ちつつある時代にこのようなことが可能だったとは考えにくい。

「移牒」について:
「移」、「牒」とも公式令(律令制下の書式を規定した令の編目)に規定された文書様式で、「移」は、本来直接支配関係のない官司どうしで用いられる文書様式、「牒」は、本来官人個人が諸司に上申するための文書様式であったが、しだいに上下の支配関係にない機関や個人の間でも使用されるようになった。
太政官が東大寺に要件を伝える場合には、「太政官 牒東大寺(太政官牒す東大寺)」と文書を書き出した。
「移牒」は、同等の者どうしがやり取りする文書である。

常陸介が無位無官の玄明や将門に対し、移牒で連絡しなければならなかったのは、彼らが都のしかるべき貴族と主従関係にあったため、その権威を恐れたためであろうと考えられる。
或いは玄明は、上流貴族の所有する荘園の荘長(現地経営者)であったのかもしれない。

将門の場合は、関白太政大臣藤原忠平との関係。
「将門書状」で、彼は年少の折、忠平に仕えていたことを吐露しているが、忠平との関係は続いていたと考えられる。

将門と忠平の関係のような地方在住の下級貴族と都の上流貴族の関係は、9世紀後半頃から国家にとって大きな問題となっていた。
延喜の荘園整理令で有名な延喜2年(902)3月13日官符では、院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)が民間の私宅を偽って庄家と号し、国衙に官物を弁済せず、国司も制止できないようすが描かれ、以後このようなことを禁止しているが(『類聚三代格』巻19)、実際には、根絶することは不可能であった。
将門や玄明は、こうした王臣家の権威を背景に、常陸国司の命令を無視し続けた

『将門記』と「将門書状」の違いは、それぞれの立場の違い(国司側の論理で書かれているか、在地側の論理で書かれているか)である。

玄明については、『将門記』で、
「鎮(とこしなえ)に往還の物を奪いて、妻子の稔(にぎわい)と為し、恒に人民の財を掠めて、従類の栄えとするなり。」
とも書かれ、常に往来する物資を奪って妻子の物とし、常に人民の財産を掠め取って従類の物としていたとされる。
これは、所謂、僦馬(しゆうば)の党と共通する富豪の姿であり、玄明は、私営田領主でありながら、東国と都を結ぶ輸送にも関わり、時に強雇(ごうこ)を行い、流通する物資を略奪する行為も行っていたと推測できる。

追捕官符が出され、玄明は国家からお尋ね者の格印を捺され、常陸国が正式に軍事行動を起こすことも許可された。
ここに至って玄明も、妻子を連れて、豊田郡の将門に助けを求めざるを得なかった。その間に、行方郡と河内郡の不動倉に収められていた穀や糒(ほしいい)を掠奪したという。
不動倉とは、飢饉に備えて穀物を蓄えておいた倉のことで、通常は開かず、開くには政府の許可を必要とした。
穀とは籾付きの稲のこと、糒とは一度蒸した飯を乾燥させ、湯に浸けるだけでもとの状態に戻る米のことで、合戦の際の携帯食料として用いられた。

「将門は素より、侘人(わびびと)を済(たす)けて気を述べ、便(たより)なき者を顧みて力を託(つ)く。時に玄明等、かの守維幾朝臣のために、常に狼戻(ろうれい)の心を懐きて、深く蛇飲(じやいん)の毒を含めり。
或る時は、身を隠して誅戮せんと欲(おも)う。
或る時は力を出して合戦せんと欲う。
玄明、試みにこの由を将門に聞ゆ。乃(すなわ)ち合力せらるべきの様あり。
弥(いよいよ)跋扈(ばつこ)の猛(たけ)みを成して、悉く合戦の方を構えて、内議すで訖(おわ)んぬ。」
(『将門記』)

将門は、世の中に受け入れられない人を助けて意気を示し、頼るべき者を持たない人を顧みて力を貸した。玄明は、常陸介維幾を恨み、ある時は暗殺しようとし、ある時は合戦しようと思った。その心の内を将門に話すと、将門は合力するそぶりをみせた。玄明はますます心強く思い、合戦の仕方を将門と内密に協議したという。

武蔵武芝と興世王・源経基の紛争を解決するために武蔵国に向かったり、玄明に頼られて、常陸国府へ向かったり、将門は強きを挫き弱気を助ける性格であった。
この性格が後に不幸な結末をもたらすことになる。

藤原玄明は、『将門記』には、常陸国の大私営田領主でありながら、まったく官物を納入せず、国衙から派遣された収納使(官物の収納に当たる使者)に対して、場合によっては暴行を加える人物として描かれていた。
そして、その原因として、彼がいずれかの都の貴族と主従関係を結び、その権威を背景にして国司から「移牒」を発給され、国司に対して強い態度に出た可能性がある。
9世紀後半以降、院宮王臣家の活動が活発化すると、地方の有力者は、在国したまま院宮王臣家と主従関係を結び、その家人となったり、衛府の舎人などに取り立てられたりして、在地で権力を振るうようになった。

例えば、播磨国では、本来納税すべき者の半分以上が、六衛府の舎人となっていた。
彼らは(在国しているにもかかわらず)、泊まりがけで勤務していると偽って官物を納入せず、国郡の命令にも従わずにいた。また、収穫した稲を自分の家の倉に収めているにもかかわらず、この倉は衛府、あるいは上流貴族のものであると偽って、納税を拒否した。
そこで、国司が収納使を派遣すると暴力を振るい、あるいは、不善を行う者たちを集めて「党」を形成する場合もあった。
このため、官物がほとんど集まらないという状態であった(『類聚三代格』昌泰4年(901)閏6月25日官符)。

寛平年間~延喜年間、国家はこうした状況に対して問題解決を図ろうとした。
① 院宮王臣家が新たに荘園をたてることの停止
② 院宮王臣家が在地の家人に関わる裁判に介入するのを禁止すること
③ 在国する院宮王臣家の家人が身分的特権を楯に、官物の不払いや納入拒否を行うのを禁止すること
④ 在国する院宮王臣家の家人に対して、国衙が雑徭などの力役を徴発する権利を保障すること、
などが細かく指示された。
(院宮王臣家とその在地における家人の結合を分断する政策)

この改革(延喜の国政改革)でも、
国衙勢力に権力を持たせるために、受領国司に権力を集中させた
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