東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-09
*承平8年/天慶元年(938)
この年冬か翌年春
・平将門、武蔵国の紛争に介入。
興世王と武芝の仲を取りなして、和睦させることに成功。
武蔵権守興世王と武蔵介源経基が足立郡に侵入したことは違法と考えられた。
受領国司が任用国司と比べて、大きな権力を持ちつつあったから、受領国司の赴任以前に任用国司などが在地に入り、徴税活動を行うことは禁じられた。
当時の習慣として、受領が到来すれば、宴会や贈り物などの費用が莫大にかかり、興世王たちは、この費用を捻出するためであったのかもしれない。
当時、しだいに「国例(こくれい)」とよばれる国ごとの先例がつくられつつあり(成文法とはかぎらない)、国司といえども、在地の習慣に従わねばならなかった。
興世王たちはそれを無視して足立郡に侵入した。
彼らの行動は、武蔵国の人々の反感を買ったらしく、同国の書生(主として文書を扱った国衙の下級官人)は、越後国の先例にならって、国庁の前に興世王たちを批判する文書を落としたという。
越後の例は、天慶2年5月にあった事件で、詳細は不明(『本朝世紀』)。
武芝は、掠奪された私物の返還を要求する文書を、しばしば国衙に提出したが、興世王らは押収したものを返そうとせず、しきりに合戦を行うそぶりをみせた。
将門はこれを知り、従類に、「武芝たちは、私の近親ではない。興世王や経基も私の兄弟ではない。しかし、この争乱を収めるために、武蔵国へ行ってみようと思う」と語り、自分の兵士を率いて、足立郡へ出かけた。
武芝は、興世王と経基らは、軍勢を整え、妻子を連れて比企郡狭服山(さやきのやま)に登っていると言い、将門と武芝は、共に武蔵国府に進んだ。
興世王は、先回りして国府で待ち、経基は狭服山を離れずにいた。
将門は、興世王を招いて酒宴を張り、興世王と武芝の仲を取りなして、和睦させることに成功した。
(武蔵国府は東京都府中市に名を残している。国府そのものの遺構は未発見だが、大国魂神社付近ではないかと推測されている。)
ところが、この時、武芝の後陣(後備え)が、戦闘態勢を解かない経基の営所を囲んでしまった。
経基と軍勢は逃げ散ったという情報が、国府に届き、将門は争乱収束に失敗したと悟り、本拠地に引き上げた。
興世王は国衙に留まった。
経基は、興世王と将門が武芝にそそのかされて自分を討とうとしていると疑い、深い恨みを抱いて上京し、将門・興世王が謀反を起こそうとしていると、太政官に訴えた(翌天慶2年2月)。
都中の人々は大いに驚き、大騒ぎになったという。
『将門記』は、「介経基はいまだ兵(つわもの)の道に練れずして、驚き愕(さわ)いで分散す」という。
経基は未だに兵の道に未熟で、驚き騒いで逃げまどったという。後に経基が兵として名をあげたことを前提とした上で、「いまだ」という表現が用いられた。
将門の乱後、経基は将門の謀反を密告した功績により、従五位下になり、大宰少弐兼警固使として藤原純友の乱に転戦し、子孫が清和源氏の棟梁として成長していく。
従って、「いまだ」の表現は、経基やその子孫が武勇に秀でるようになってから、書かれたとも考えられる。
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4月15日
・京中に大地震。内膳司の建物が倒壊して圧死者が4人でる。
陰陽寮の人々は、東西に兵乱が起こると予言。
「京都大地震。東西兵革の卜占あり」(『貞信公記』他)
「亥刻に大地震。東西の京舎屋、諸寺諸山の堂舎仏像多く倒壊。死者4人。洪水あり。余震やまず。」(日本紀略後)
「大地震。天皇は底上に幄舎を建てて御座を遷す。鴨川洪水。」(改元勘文部類)
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5月
・この月、天皇が心身に不調をきたす。右大臣藤原恒佐は没す。
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5月22日
・天慶に改元。地震・兵革の慎みにより「天慶」と改元。(『日本紀略』)
その後も地震は続き、また大雨のために京中の河川が氾濫して都の人々を苦しめた。
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5月23日
・橘近安(橘遠保の兄弟)、武蔵国の申請により追捕官符の対象となる。(『貞信公記』)
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11月3日
・平将武(平将門の弟)、伊豆国の申請により追捕官符の対象となる。(『本朝文粋』)
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