わが猫額庭 2012-05-19
*天慶2年(939)
6月7日
・天慶2年6月の政策転換
6月上旬、寺社への祈願を中心とした消極的態度であった政府の対応が大きく変わった。
7日、源経基の密告に基づいて、陣定が開かれ、問密告使(もんみつこくし)が決められた。
長官に右衛門権佐源俊(みなもとのすぐる)、次官に左衛門尉高階良臣(たかしなのよしおみ)、主典(さかん)に法家(法律家)が任じられた(『日本紀略』天慶3年正月9日条、『本朝世紀』天慶2年10月7日条)。
問密告使は、推問使(すいもんし)とも呼ばれ、太政官の命により現地に派遣され、事件の詳しい内容を関係者から聴取して報告する使者のことで、検非違使と明法家(みようぼうか、法律家)を含むが任命された。
しかし、彼らは将門の威勢を恐れ出発しなかった。
源俊は、兵士や医師を伴ないたいと申請し、陣定で却下され(『貞信公記』10月3日条)、忠平のもとを訪れて出発を渋り(『貞信公記』10月22日条)、叱責された(『貞信公記』11月12日条)。
さらに、再度忠平を訪問して兵士を同行させることを請い、却下された(『貞信公記』12月4日条)。そして遂に12月28日出発に決したが(『日本紀略』12月19日条)、その前に将門蜂起の知らせが届いた。
結局、将門が待っていた推問使は都を出発することはなかった。
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6月9日
・源経基の禁固
藤原忠平、源経基を左衛門府に禁固すべきことを大納言平伊望(これもち)に指示(『貞信公記』)。
従来、この史料は、経基の告発に誣告(虚偽の罪で訴えたこと)の疑いがあったために、経基が禁固されたと考えられてきた。
しかし、律令制下の裁判では、告訴が取り上げられると同時に、告人(告訴した人物)も拘禁された(獄令告密(ごくりようこくみつ)条)。従って解釈は従来とはまったく逆に、経基の告訴が正式に取り上げられたことを意味するものである。
そして、28日、経基の告発状が、弁官に下される(『貞信公記』)。
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6月9日
・5月16日に任命された東国の介に押領使を兼帯させ(『貞信公記』)、21日には彼らに追捕官符が発給された(『本朝世紀』)。
この場合の押領使は、追捕官符を受け取った受領国司の命令に従って、争乱を鎮圧することを任務とする国単位に設置された軍事的指揮官のこと。
将門は、自分を召還する官符が出されたことを早く知っていた。
「また右少弁源相職(すけもと)朝臣、仰せの旨を引きて書状を送る詞に云わく、武蔵介経基の告状によて、将門を推問すべき後の符を定むることすでに了んぬてへり。」(「将門書状」)
右少弁源相職は、公用以外で『貞信公記』にしばしばみえ、忠平の家司と考えられ、「仰せ」の主語は忠平と考えられる。忠平からの私信が将門のもとにもたらされ、その中に、経基の告発状によって、将門を推問する二度目の太政官符が発せられたという内容が含まれていたことになる。
この官符は、
『将門記』本文では、貞盛が「去ぬる天慶元年六月中旬をもて、京を下るの後、官符を懐きて相糾す」であり、
「将門書状」では、貞盛が「今年の夏、同じき貞盛、将門を召すの官符を挙って、常陸国に至れり」と表現されているものであり、
6月9日、「また推問使官符、早く仰せしむべき事を示す」(『貞信公記』)とある「推問官符」がこれに当たる可能性もある。
ここでも平将門と藤原忠平が密接な関係がわかる。
忠平は、なるべく穏便に事件を収めたいと思い、公卿たちもまた同じであった。
推問使が兵士や医師・軍事的指揮官を連れていくことを申請すると、陣定はこの申し出を却下している(『貞信公記』天慶2年10月3日条)。
しかし、忠平の願いは実現しなかった。
常陸国で新たな事件が起こる。
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6月中旬
・将門追捕官符を持って平貞盛(常陸国掾兼押領使)が坂東に戻るが、諸国受領は貞盛に協力せず。
(『将門記』は「天慶元年六月中旬」とするが、天慶2年6月中旬が正しい。)
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6月21日
・東海・東山・山陽・西海道諸国に警固を強化すべしとの官符を下す。
この年夏、西国は深刻な旱魃。
この頃、西国でも群盗蜂起の危険性が高まっていた。
この時期、藤原純友は活動していないと考えられる。警固を強化すべしとの官符も、伊予国を含む南海道諸国は入っていない。
山陽道での群盗の指導者は、備前国の藤原文元であった。
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