東京 北の丸公園 2012-05-11
*承平8年/天慶元年(938)
この年
・空也が都で念仏を説き、「市聖」と呼ばれる。
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2月
・平貞盛は将門の追跡を振り切り上京、将門追捕官符を得る。
平良兼勢に加勢して敗走した平貞盛は、承平8年(938)2月中旬、東山道を通って京に上ろうとした。
将門は、これを知り、兵100騎ばかりを率いて貞盛を追跡。
2月29日、将門は、信濃国小県郡(長野県上田市)にある信濃国分寺付近で貞盛に追いつき、千曲川を背にして合戦。
勝負はつかず、貞盛側の他田真樹(おさだのまき)は戦死、将門の上兵文室好立(ふんやのよしたち)も負傷。
(信濃国には、大化前代から続く他田舎人氏が多くみられるから、他田真樹も、信濃国の出身かも知れない。)
貞盛は落ち延びて都へ着き、将門たちの罪状を太政官へ訴え、将門追捕官符の発給を要請。
貞盛はこの官符を握って、「天慶元年六月中旬」に坂東に舞る(『将門記』)。
実際の時期は、前後関係からみて天慶2年6月中旬。
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・武蔵国で紛争。(武蔵・伊豆を中心に反受領闘争)
武蔵国で、国内巡検をしようとした武蔵権守(ごんのかみ)興世(おきよ)王と武蔵介源経基(つねもと)が、足立郡(東京都東部~埼玉県東南部)の郡司で判官代(在庁官人)も兼ねる武蔵武芝(むさしのたけしば)と紛争を起こす。
長年職務に忠実な足立郡司武蔵武芝が足立郡をよく治め、足立郡の人民を慈しみ育てていることは、武蔵国内に鳴り響いていた。また、代々の国司は、郡が納める官物の欠損分を求めず、官物の納入期限が遅れても責め立てないのを常としていた。
ところが、興世王たちは、正任の国司(武蔵守)が着任する前に、足立郡に入って官物を徴収しようとした。
これに対して、武芝は、正任の守より前に、権守や介が郡に入った前例はないと申し立てた。
しかし、輿世王たちは、郡司は無礼であると称し、ほしいままに国衙の武器を持って、無理やり足立郡に押し入った。
武芝は、裁判沙汰を恐れて、暫く山野に隠れていたが、彼らは、武芝の家屋敷、周辺の民家にやって来て徹底的に掠奪し、残った家には手が出せないように封印した。
武芝を支持する在庁官人らは国司弾劾文を国庁前に掲示してこれに抗議し、武芝は押収された財物の返却を求めたが、興世王らは合戦の準備を始めていた。
武蔵権守興世王:
従五位下の位階を持っていたことは確認できるが、系譜は不明。「王」とあり、いずれかの天皇の末裔と思われる。
権守は、正任の守以外に任命される権官のひとつで、地方官の場合、俸禄取得を目的として置かれる場合が多く、一般的には任国に赴任しない。
興世王が武蔵国に下向した真意は不明だが、任国から私的に物資を調達することが目的だったのかもしれない。世間に疎い、経験不足が事件を引き起こした可能性も考えられる。
武蔵介源経基:
清和源氏の祖。実像は、『将門記』以外ほとんど知ることができない。
将門の謀反を密告した恩賞によって、従五位下を与えられ、藤原純友の乱鎮圧にも、大軍少弐兼警固使として活躍。
子供には、安和の変で源高明の謀反を密告した源満仲らがおり、後の源頼朝につながっていく。
永承元年(1046)に源頼信が八幡神に奉った「告文(こうもん)」では、源氏が陽成天皇から出たと述べている。陽成は粗暴な振る舞いが多く、それが原因で皇位を追われた天皇であったため、陽成から出た血統では世間体が悪いと考えて、後の世代が清和天皇に出自を求めた可能性もある。
足立郡郡司兼判官代武蔵武芝:(国司・郡司制の変質と武蔵武芝)
律令税制(租・庸・調・雑徭・出挙など)は、人別に賦課される人頭税で、班田と、税徴収の前提として1人1人書き出した台帳である戸籍・計帳が必要不可欠であった(個別人身的支配)。
しかし、延喜2年(902)の「阿波国戸籍」では、女性の比率が男性より飛び抜けて高く、100歳以上の老人の割合も高い。律令制下では、女性は男性より税の徴収率が低く、兵役もない。60歳以上の者には男女ともに課税されない。そのため、税を逃れるために戸籍を改竄した。
またこの時期、官物の違期(いご、納入時期の遅れ)や未納・粗悪が深刻化していった。
10世紀には、個別的人身的支配は崩壊していたと考えられる。
そこで、国家は、戸籍・計帳による支配を放棄し、土地を単位として、官物や臨時雑役(りんじぞうやく)を徴収する税体系へと大きく転換した。
具体的には、正税(しようぜい)・調庸・交易雑物(ぞうもつ)・出挙稲などを、耕作面積に応じて徴収するというものである。
同時に、直接在地を支配する方法を放棄し、官物さえ確保できれば、地方政治は国司、とくにその最上位の者(受領国司)に委任する方策を打ち出した。そのため、受領国司に国内支配の権限を集中させ、受領以外の国司(任用国司)の地位を総体的に引き下げた。
こうして、受領が誕生した。
受領は、前任国司から国務を受け取ることを意味したが、国司のトップが国務を独占して受領するようになると、そのトップのことを受領もしくは受領国司と呼ぶようになった。
このような在地社会の変質は、郡司制にも大きな影響をもたらした。
郡司と国司との関係の変遷:
律令制では、郡司には、国造(くにのみやつこ)の子孫が優先して任命されることになっており(選叙令)、一般の官人とは異なり、郡司には任期が定められていなかった。
本来、郡司になるには、国司が候補者を連れて都に赴き、式部省の試験に合格することが必要であった。
ところが、弘仁2年(811)、国司の推薦どおりに郡司が任命されるようになり、郡司の資質の判定について、国司が責任を持つことが認めらた(『類聚三代格』)。
翌弘仁3年、国司が選んだ候補者を3年間擬任郡司として試用し、この間に郡司としての資質を見極めた上で、正任の郡司として採用することが認められた(『類聚三代格』)。
こうして郡司の採用制度が変わると、郡司の定員が実質的に増加し、より広い階層から郡司が採用されるようになった。
郡司の任用に国司の意見が強く反映するようになり、従って、国司の郡司に対する支配力が高まり、郡司は本来持っていた伝統的な権威を行使できなくなった。
郡司は、しだいに地方行政の一翼を担う国司の部下となっていった。
一方、判官代は、在庁官人の職の一つである。平安中期頃から現地に赴かない国司の遥任が増えると、諸国の国衙では国司がいなくとも国務を遂行する留守所とよばれる機関が成立した。そこで実務を行う者を在庁官人といい、在地の有力者が任じられ、郡司もその中に含まれていた。
彼らは、国衙で文書事務を行うとともに、その手先となって徴税活動も行うようになった。
10世紀の郡司は、在地に対する伝統的権威を喪失する一方、在庁官人として国衙の下で国務の下請けを行う過渡的な立場であった。
武蔵武芝の祖先は、丈部直(はせつかべのあたい)氏で、道鏡の地方豪族優遇策により、神護景雲元年(767)12月に武蔵宿禰を与えられ、武蔵国造に任じられた(『続日本紀』)。
丈部は、馳せ使い(下働き)に通じるともいわれるが、「丈」を武器とみれば、王権の軍事部門を担当した部民であったと考えられる。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された辛亥年(471)銘の鉄剣には、ヲワケ臣がワカタケル大王のもとに杖刀人(じようとうじん、杖をもって王宮を警備する人の意)として出仕し、「天下を佐治(さじ)」していたことが刻まれている。杖刀人の職務内容が丈部と共通し、両地域が近接しているところから、足立郡司の丈部直氏とヲワケ臣の間に深い関係があるのではないか、との説もある。「直」という姓は、国造やその末裔である郡司に与えられた地方としては高いものであった。武蔵宿禰氏は、奈良時代あるいはそれ以前から続く武蔵国きっての名門氏族なのであった。
『将門記』が伝える武芝は、長年職務に忠実で、足立郡をよく治めていたとある。
これは、彼が奈良時代以来からの郡領氏族として、足立郡で伝統的な権威を保ち、族長として共同体の成員を守り育てていたことを意味する。
しかし、一方では、在庁官人としての肩書きも持っていた。
武芝は、新旧二つの時代の要素を兼ね備えながらも、古いタイプの郡司の性格をより強く持っていたといえる。
これが興世王たち国司たちに楯突き、紛争に発展していった原因であった。
政府側の記録のこの年の5月23日、武蔵国から橘近保(たちばなのちかやす、遠保(とおやす)と兄弟、最茂(ももしげ)と同族で延喜勲功者子孫と思われる)の犯過解文(はんかげぶみ)が提出され、政府は追捕官符を武蔵国と隣国に下した。
武蔵国で負名経営を行っていた近保は興世王らの部内乱入に反抗し、追捕されることになったのではないかと見られる。
同年11月、伊豆国解により将門の弟将武(まさたけ)を追捕すべき官符が、駿河・伊豆・甲斐・相模等諸国に下された。
11月は官物収納の季節、将武も受領の収納に反抗する動きをしていたのであろう。
天慶元年、武蔵・伊豆を中心に反受領闘争が一触即発の状況になっていた。
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