東京 北の丸公園 2012-05-10
*天慶2年(939)
2月
・源経基、上京して平将門を告発。政府は動かず。
「経基、武蔵の事を告言(告発のこと)す」(太政大臣藤原忠平の日記『貞信公記(ていしんこうき)』2月3日条)。
翌4日、坂東の争乱の平定を祭主大中臣奥生(さいしゆおおなかとみのおくお)に祈らせる(『貞信公記』『日本紀略』)。
9日、十一社に祈祷させ、延暦寺でも修法を行う(『貞信公記』)。
22日、陰陽師に太一法(たいつほう)を行わせる(『貞信公記』)。
しかし、政府は、寺社に祈祷させるのみで、5月中旬まで、具体的方策をとらない。
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4月
・天皇、法性寺を御願寺とする。
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・この月、尾張国府から国守が射殺されたという報告。
尾張国は、この時代以後、受領と郡司・百姓の争いが際立って多くなる。
この国は富裕であり、受領たちはそれにつけこんで苛政を恣にし、その収奪物を京に運び去った。
その一方で、郡司や、その背後の土豪・有力農民もその経済力によって受領たちと争った。
この国は京から坂東への道の一大要衝にあたり、ここでの紛争がもたらす影響は東方に対して甚大である。
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4月17日
・この日、出羽から俘囚反乱が報ぜられた。
「凶賊乱逆し秋田城の軍と合戦せる」(『貞信公記抄』)。
元慶の乱から半世紀以上を経ての俘囚の反乱。
これに対し政府は精兵による警固とともに、出羽の「国内浪人は高家(こうけ、王臣家)・雑人(ぞうにん)を論ぜず軍役を差し充つべき」(『本朝世紀』)と命じる。
この動員の仕方は寛平・延喜東国の乱鎮圧でも適用されたものと思われ、彼らは押領使の指揮下に入って戦うことになる。
こうした一連の軍制改革によって国衙軍制が成立し、この新たな軍制にもとづく群盗鎮圧を通じて武士が登場する。
元慶の乱と同じく、これまた秋田城介源嘉生(よしお)の苛政が原因であったようだ(『本朝世紀』天慶二年七月十八日条)
蝦夷問題の継続性という点では、この出羽俘囚の反乱は元慶の反乱の延長上にあったが、更に、平将門の乱と時期的に重なっていることが注目される。
この時期は、将門が武蔵国の紛争に介入し、興世王と共に謀叛に与したとして訴えられたころ。
この年11月、将門の常陸国府襲撃という本格的反乱に至るが、将門の乱それ自体が、それ以前の東国における群党蜂起の総決算としての意味があった(福田豊彦『平将門の乱』岩波新書)。
将門の乱の陸奥・出羽との関連では、翌天慶3年春の鎮圧後、2月26日、陸奥からの飛脚で、将門が大軍を率い陸奥・出羽を襲おうとしていると報じてきた(『九条殿記逸文』天慶3年2月26日条)。これは流言であった。
またその2ヶ月後、常陸から将門の弟の将種と陸奥権介伴有梁(とものありはり)の謀叛のことがよせられており、奥羽方面でも将門の乱の余波があったことを確かめうる(『師守記』貞和3年12月17日条)。
将門の父が鎮守府将軍であったこともあり、将門と陸奥との因縁は深く、弟の将種の出羽での蜂起を考えると、弟将種との連携を目ざしたと想定もできる。
『今昔物語集』『元亨釈書』では、陸奥を舞台とした将門の子孫(蔵念や如蔵)の説話がみられる。
出羽の俘囚反乱と将門の乱との関係は不明であるが、この反乱は、将門・純友の東西兵乱という世情騒然たるなかで勃発した「もう一つの天慶の乱」であった。
元慶から天慶へ、辺境の争乱は断続的に続いていた。
また、天慶の場合は、関東(将門の乱)と東北(出羽の俘囚の乱)が同時多発的におきている。
もう一つの天慶の乱(出羽俘囚の乱)の鎮圧のされ方は不明だが、この時期に軍事官僚の土着化が進み、平行して王胤・王孫(源氏・平氏など)の派遣・土着化も進行した。
将門もまたそうした軍事貴族であるが、こうした王胤・王孫の移住は、東国のみではなく、陸奥・出羽方面でも進んでいたと考えられる。
将門の弟将種が陸奥国で権介の肩書をもつ伴有梁の聟であったことからすれば、地方有力者(国衙の在庁宮人や土着した軍事官僚)との婚姻関係を媒介とした勢力拡大の方法が一般的だったようだ。
10世紀のこの段階は、従来の軍事官僚にくわえ、軍事貴族と目される貴種の末裔たちの登場が促された。
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