東京 北の丸公園 2012-05-24
*天慶2年(939)
12月15日
・平将門、上野国へ侵攻
上野介藤原尚範(ひさのり)は、印鎰を奪われ、使者に伴われて都へ追い払われた。
上野国は、常陸・上総国とともに、親王任国なので、実質的な長官(受領)は、介が務めていた。尚範は藤原純友の伯父に当たる。
その後、将門は、国府を占領し、国府にある四つの門を固めて、坂東諸国司の除目を行った。
将門が、下野・上野国府を占領し、国司たちを追い出した点は、国家側の史料からも確認できる。信濃国から都に届いた飛駅(ひえき、早馬による報告)によれば、将門が上野介藤原尚範・下野前司大中臣定(完ヵ)行・新司藤原弘雅の館を囲んで印鎰を奪い取り、彼らを追放したこと、実際、尚範が信濃国へ東山道を越えてきたことが報告されている(『本朝世紀』『日本紀略』12月29日条)。
この時の「除目」は以下の通り。
下野守 平将頼 将門の弟
上野守 多治経明 常羽御厩(いくわのみまや)の別当
常陸介 藤原玄茂(はるもち) 常陸掾
上総介 興世王 武蔵権守
安房守 文屋好立 将門の上兵
相模守 平将文 将門の弟
伊豆守 平将武 将門の弟
下総守 平将為 将門の弟
除目を行えるのは、天皇のみである。天皇の「官制大権」といい、天皇の専権事項である。
従って、将門が除目を行ったとすれば、そのこと自体、天皇の権限を侵した重大犯罪(死罪相当)である。
信頼できる史料から、将門に占領されたことが判明する国は、常陸国(『日本紀略』12月2日条)、上野・下野国(『本朝世紀』『日本紀略』12月29日条)、上総国(『日本紀略』天慶3年3月25日条)、伊豆国(伊豆守に任命された弟の平将武は、天慶元年11月に伊豆国で争乱を起こしている(『本朝世紀』)である。
将門が常陸国府を占領したとの飛駅が、12月2日に常陸国から都にもたらされてから、翌年3月に将門が敗死したとの報告が届くまでの情報は、坂東諸国から発信されず、駿河・甲斐・信濃国など、坂東に接する隣国からのみ発せられていた。
これは、坂東諸国の国衙機能が麻痺し、直接坂東から使者を出すことができず、口頭などの簡便な方法により、いったん坂東の隣接国である駿河・甲斐・信濃国などに情報が伝えられ、これらの国々が正式に都へ情報を伝えたのではないかと考えられる。
このように考えると、間接的ながら、坂東諸国の国衙機能が麻痺していたことを裏付けることができる。将門が坂東諸国を掌握していたのは、おそらく事実であろう。
新皇将門、即位の真相
その時、一人の巫女が現れ、神懸かり状態になり、次のように口走った。
「私は八幡大菩薩の使者である。朕(天皇)の位を平将門に授けよう。その位記(いき、位階を記した証明書)は、左大臣正二位菅原道真の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩が、多くの軍勢を起こして、朕の位を授けよう。今、三十二相の音楽(仏教音楽)を演奏して、はやくお迎えなさい」
将門は、頭の上に捧げ持って再拝した。国府の四つの門を守っていた兵士たちも慶び、伏し拝んだ。その場に居合わせた興世王と常陸掾藤原玄茂も、その時の威勢のある人としてたいそう慶んだ。
そして、将門は自ら新皇(新しい天皇)と名乗った。
「武蔵権守並に常陸掾藤原玄茂等、その時の宰人(さいじん)として、喜悦すること、譬(たとえ)ば貧人の富を得たるがごとし。美咲(びしよう)すること、宛(さなが)ら蓮花(れんが)の開き敷くがごとし。」
何故、菅原道真の霊魂が登場するのか
延喜元年(901)正月、道真は突然、右大臣から大宰権帥へ左遷された(『日本紀略』)。
理由は、道真が皇位を狙ったということであったが、実際には、宇多朝に急速に昇進した文人貴族道真への藤原氏の反撃とみるのが通説的である。道真は、大宰府で失意の人生を送り、2年後その地で没した。
ところが、藤原時平をはじめ、道真を窮地に追いやったとされた人々が次々亡くなり、次第に道真の怨霊の仕業と噂されるようになった。
その早い例は、延長元年(923)3月、醍醐天皇の子、保明親王(21歳)が早死にした時(『日本紀略』)。この日、皇太子が病で臥せっているので、天下に大赦を下した。そして子刻(午前零時頃)、皇太子保明親王は没した。世の中の人々がこぞって、菅原道真の霊魂の崇りの仕業であると言う。
次に、延長8年6月、清涼殿に落雷して多くの官人が死傷し、その結果、醍醐天皇も病気となり、9月に没した(『日本紀略』)。
午の3刻(午後1時少し前)、愛宕山の上から黒雲が起こり、急に雨が降った。俄に雷が大いに鳴り、清涼殿の坤(南西)の第一の柱の上に堕ち、火事が起こった。殿上に伺候していた者の内、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫(64歳)は、衣が焼け胸が裂け俄に没した。従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世は、顔が焼けて倒れた。紫展殿に登っていた者の内、兵衛佐美努忠包は、髪が焼け没し、紀蔭連(かげつら)は、腹が焼け悶絶した。安曇宗仁(あずみのむねひと)は、膝が焼けて倒れた。清貫は半蔀(はじとみ)に載せ、陽明門の外で牛車に載せ、希世は半蔀に載せ、修明門の外で牛車に載せた。両家の人々は、皆悉く侍所に乱入し、泣きわめく声は、禁止したにもかかわらず止むことがなかった。これから醍醐天皇は病気になった。
道真の息子たちは、東国の国司に任命されている。
景行は常陸介、旧風(もとかげ)は武蔵介、兼茂は常陸介とある(『尊卑分脈』)。
景行は、時期不明だが、常陸介であったことが確認でき(『公卿補任』正暦3年(992)菅原輔正条)、下総国で起こった争乱の責任を取ったこともみえる(『日本紀略』延喜9年(909)7月11日条)。
菅原兼茂は、延喜元年、父と共に右衛門尉から飛騨権掾(ひだごんのじよう)に左遷された(『政事要略』巻22)。そして、天慶元年(938)をそれほど遡らない時期に、常陸介であったことも確認できる。
『政事要略』巻27(11世紀初め明法博士令宗允亮(これむねのただすけ)によって編纂された法制書)には、天慶元年、常陸介菅原兼茂が任国の官物に損害を与え、同任の国司・郡司とともに補填を命じられた判定を勘解由使が下したことがみえる(勘解由使勘判)。当時の勘判は、任期が終わってから数年の内に下されることが多かったから、承平年間(931~38)の後半頃、彼は常陸介として赴任していたと考えられる。
つまり、将門が、平氏一族、源護(みなもとのまもる)と戦っていた頃の常陸介が兼茂であった。
兼茂についての噂(『扶桑略記』延長5年10月是月条)。
ある人がいうには「故大宰帥菅原道真の霊が、夜、旧宅を訪れ、息子の大和守菅原兼茂に雑事を語っていうには、『朝廷に大事件が起こるだろう。その事は大和国から起こるだろう。お前は慎んでその事を行わねばならない』と。その他のことについてもとても多くを語ったということである。ただし、他の人はこの話を聞くことができなかった。兼茂はこのことを秘密にして他人に話さなかった」と。(以上は、式部卿の『重明親王記』から引用したもの)
『扶桑略記』は、鎌倉時代初期に僧皇円(こうえん)によって編纂されたといわれ、末尾に『重明親王記』からの引用であるとしている。
『重明親王記』は、『吏部王記』ともいい、醍醐天皇の息子重明親王の日記である。現在完全には残っていないが、諸書に引用されており、史料の信憑性は高い。重明は、父醍醐が道真の怨霊に崇られて没したと考えられていたことから、道真について気にかけており、そのために書き留めたと考えられる。
兼茂は、父道真の霊魂と会話をしたという風聞があった。この時点では、道真の霊魂はまだ怨霊になっていないが、それに近づいた性格として記されている。そして、この事件から10年も経ないで、兼茂は常陸国へ赴任した。兼茂が常陸国府で父道真について語った可能性は高い。
道真の伝記の内で、もっとも信頼性の高い『北野天神御伝并御託宣等』には、
「景行・兼茂・淑茂、爵五品と為す。官二千石、皆踵を継ぎて早世す、」
とあり、兼茂を含む3人の子が五位で、国司に任命され(官二千石とは国司の中国的表現)、皆早死にしたと記されている。
『北野天神御伝并御託宣等』は、天慶年間(938~47)頃に、道真の孫菅原在躬(ありみ)が、『新国史』(『日本三代実録』に続く国史。未完成)の編纂材料として国史所(国史の編纂に当たる機関)に提出した道真の伝記である。
しかし、兼茂は「早世」とはいえない。延喜元年(901)、父と共に左遷された時の年齢を20歳と仮定しても、天慶元年には60歳近くになっていたはずだ。
兼茂は将門の乱に関係したと考えられたため、菅原一族から排除されたのかもしれない。
常陸掾藤原玄茂、武蔵権守興世王、大私営田領主藤原玄明、足立郡司武蔵武芝らは、9世紀末~10世紀初頭の国家政策(院宮王臣家と在地の家人の関係を断ち切り、受領国司に権力を集中させて、受領に官物徴収の請負をさせようとした)への不満が、その根本にあったと考えられる。
彼らは、新しい時代の趨勢に反発した古いタイプの人物であった。
9世紀、中国の影響もあって、菅原道真など、身分が比較的低い文人たちが重用され、議政官に登用されることもあった。
その典型例が、伊勢国員弁(いなべ)郡司の出身でありながら参議まで上り詰めた春澄善縄(はるずみのよしただ)といえるだろう。たとえ幻想に過ぎないとしても、中・下級の貴族たちにとっては、一抹の光明であったに違いない。
しかし、藤原基経たち藤原北家は、道真を左遷し、同時に受領に権力を集中する国政改革を断行した。
玄茂たち守旧派の人たちは追い詰められ、次第に苦況に立たされるようになった。
菅原道真の霊魂を持ち出したのは、常陸介菅原兼茂(かねもち)の存在があったにしても、むしろ当然だった。
彼らは、政府、そしてその手先である受領国司への不満を将門に託しながら、公然と国家に反旗を翻した。
一方、「将門書状」が、官物を厳しく取り立てた酷吏として描いた常陸介藤原維幾は、彼の個人的な性格を考慮するとしても、その行いを彼の個性だけのせいにしてはならないだろう。維幾の行為こそは、当時の国家が期待した理想的な受領国司像に他ならなかった。
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