東京 北の丸公園 2012-05-18
*天慶2年(939)
5月16日
・東国国司の介以下の人事を決める『本朝世紀』)。
相模権介(ごんのすけ)橘是茂(たちばなのこれもり)
武蔵権介小野諸興(おののもろおき)
上野権介藤原惟条(これつな)
これら3人は、6月9日に押領使(『貞信公記』)、21日に追捕官符を与えられる(『本朝世紀』)。
事件が起こった武蔵国、足柄関を抱える相模国、碓氷関を抱える上野国での追捕態勢を固めた。
小野諸興:
承平元年(931)11月、武蔵国小野牧の別当に任じられ(『政事要略』巻23)、天慶元年時点でも同職にある(『本朝世紀』同年9月8日条)。
同条には、諸興の弟として小野永興がみえ、小野姓で「興」を通字に持つ人物は、諸興の近親と看做すことができる。
小野国興(くにおき)という人物は、左馬少允を経て(『本朝世紀』天慶4年11月2日条)、右衛門少尉(検非違使)の時、脱獄囚を捕らえ、功績を賞せられている(『日本紀略』天徳2年(958)4月条)。
また、小野景興という人物は、醍醐天皇の皇子たちの鷹匠を務めている(『西宮記』巻17、延長4年11月5日条)。
小野一族は、武勇に優れ、下級官人ながら馬を介して在地と中央でつながり、しかも親王に仕えるといった広範な活動を展開していたと考えられる。
藤原惟条:
藤原利仁の従兄弟言行(ことゆき)の子。
利仁に従って群盗鎮圧のために下向し、利仁の地盤を受け継いで上野・武蔵に勢力を築いたと考えられる。
承平3年4月、武蔵国秩父牧の別当に任じられ(『政事要略』巻23)、天慶2年時点も同職にあり、国家に私財を納入した結果、叙位されている(『貞信公記』同年2月13日条)。
この2人は御牧の別当経験者である。
御牧の別当は、惟条のように私財を蓄積し、諸興のように広範な一族の結合があった。
さらに、御牧には浪人が集まったことが知られており(『類聚三代格』貞観18年(876)正月26日格)、軍事的機能も持っていたらしい。
このような理由により、在地社会に通じ、機動力として最も優れていた馬を多数抱えていた御牧別当経験者が、将門鎮圧に利用された。
『菴原公(いおはらのきみ)系図』にみえる菴原広統:
菴原氏は駿河国の大豪族。追捕使・駿河権介で、天慶3年に征夷大将軍藤原忠文に従ったとあり、駿河権介の記載から、この月に任じられた東国の介に含まれていた可能性がある。
また、広統の姉妹は、小野国興の妻になっており、武勇に優れた者どうしの横のつながりを見ることができる。
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6月上旬
・下総介平良兼、病没。
「その内に、介良兼朝臣は、六月上旬をもて逝去す。沈吟(ちんぎん)するの間に、陸奥守平維扶(これすけ)朝臣、同年冬十月をもて、任国に就かんと擬(す)るの次(ついで)に、山道より下野の府に到り着く。貞盛はかの太守と、知音(ちいん)の心あるより、相共にかの奥州に入らんと欲して、事の由を聞こえしむるに、甚だもて可なり」(『将門記』)
陸奥守平維扶(惟助・惟扶と書く場合もある)が陸奥国に赴任するのに乗じて、貞盛ともども、「同年十月」に東山道から下野国府に到り、陸奥国に入ろうとしたという。
藤原忠平の日記『貞信公記』天慶2年8月17日条には、平維扶が任国の陸奥国に赴任する際、宴が開かれたとあり、この年は天慶2年であることが判明する。このあたりの『将門記』には1年分の誤りがある。
良兼の病没により8年間に及ぶ平氏の内紛は終焉を迎えたかにみえた。
将門と国香・良兼・護らとの合戦はどこまでも私闘であり、政府も国衙も平氏の私闘に積極的に介入していない。
しかし常陸国衙が源護のために将門の犯過を訴える国解を作ったり、下野国衙が将門のために良兼の合戦の不当を証明したり、下総国衙が将門のために良兼の犯過を政府に訴える国解を作るなど、国衙が全く関与しなかった訳ではない。
坂東諸国衙は、むしろ将門に好意的である。
貞盛が政府に将門召喚官符を出してもらった際も、将門の住む下総国衙はそれを執行しようとしなかった。
将門は、自己の合戦を正当化するために国衙を利用し、また中央政府をも利用している。
護との裁判での情状酌量や良兼追捕の官符発給など、政府も将門に好意的である。
政府・国衙は、将門の卓抜した武芸によって、平氏の内紛を鎮静させようとしていたのではないか。
そもそもこの平氏の内紛は、政府や国衙にとって大した問題ではなかったし、良兼も将門も国衙に反抗していたわけではなかった。
『日本紀略』などの年代記にも『貞信公記抄』にも、この時期の平氏の内紛については一言も触れていない。
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