江戸城(皇居)二の丸雑木林 2013-07-02 オカトラノオ
*長元3年(1030)
5月
・5月になって、ようやく追討使直方から忠常情報がもたらされたが、夷灊山(上総国夷隅郡伊志みの要害)に立て寵もる忠常の軍勢は減ってきたというだけで、政府首脳を満足させるものではなかった。
続いて忠常が出家して常安と名乗っているという情報も入ってきた。
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6月23日
・忠常追討使平直方・維時(上総介)・致方(武蔵守)らの解文、源経頼(右大弁)に届く。
忠常の所在がわからなくなったこと、忠常が下野国の前鎮守府将軍藤原兼光(かねみつ、秀郷子孫)を介して直方に「志(こころざし)」(贈り物)を送ってきたこと、などが報告された。
それを受けて政府は7月、ついに追討使直方の解任・召還を決定。
9月、代わって河内源氏の一族・源頼信(甲斐守)を追討使に任命。
源頼信、嫡子頼義と関東下向。甲斐を本拠に上総へ出兵。
忠常は夷灊山に立て籠もって政府の出方をうかがい続けていたようだ。
坂東諸国の有力武士は追討官符に応じず、忠常と連絡を取り合っていた。
これでは追討使直方が動けなかったとしても致し方ない。
しかし京を出発してすぐに成通と不和になる度量のなさ、政府に経過報告できない小心さ、忠常と真っ向から渡り合えない優柔不断さ。直方はどうみても優れた武将とはいえない。
11月、3年3ヶ月前には熱狂で送り出された直方は、人目を避けながら空しく帰京した。
彼の武名は失墜し、子孫は在京武士として生き残れなかった。
なお、娘は頼信の嫡子頼義の妻となり、義家・義綱・義光の3兄弟を生む。
また、後に流人の頼朝の外戚となった伊豆国在庁官人北条氏は、この直方の子孫と称している。
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9月
・河内源氏の一族・源頼信(甲斐守)を追討使に任命。
源頼信、嫡子頼義と忠常の子の法師を伴い任国甲斐に下向。甲斐を本拠に上総へ出兵。
諸国亡弊という状況下、頼信に誅せられた使命は、これ以上亡弊させずに追討を実現することであった。
追討官符の草案準備中の実資に、頼信は、追討使拝任の謝礼として糸10絢(く)・紅花20斤の志を贈っている。
頼信は追討使起用に先んじて甲斐守に就任している。
長元元年以前に伊勢守を辞任して以来、数年ぶりの受領であった。
反乱の舞台に近い国の受領という、追討使に相応しい官職に就任させた。
頼信は僧侶となっている忠常の息子をともなって任国に下向した。
このことは、当初から合戦よりも説得を試みようとした彼の姿勢を示唆している。
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10月29日
・藤原頼通、法成寺の五重塔を供養。
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12月
・長元の闘乱
(平致経と平正輔の衝突:長徳4年以来の維衡流と致頼流の対決)
事件については、断片的な史料が残っているだけなので詳細は不詳。
長元4年(1031)年1月より証人調べが始まっているので、衝突は前年暮までにはあった模様。
『小右記』によれば、正輔は攻撃を受けた旨を国司に連絡しながら、返事を聞かずに進撃し、結果「民烟多く以て焼亡」し、部内は損亡、双方に戦死者が出ている。
致経は本人の言では尾張にいたというが、事件にあたって伊勢の交通路を遮断する作戦に出たようである。
戦闘に参加した致経側の兵力は、正輔の証言では、30余人あるいは200余人(『小右記」長元4年9月19日条)。
(30余人というのも、騎馬の郎等の数と考えれば、理解できる。)
また、伊勢国司から、合戦の地は致経宅より10余町隔たっていたとの報告があり、このことが公卿たちに致経側から戦いを挑んだ状況証拠と認識される一幕もあった
(『左経記』長元4年9月8日条)
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