江戸城(皇居)東御苑 2013-07-02 名残の紫陽花
*明治36年(1903)
12月18日
・臨時閣議、日露交渉妥結望みなし、戦争決意。
満洲問題については徹頭徹尾外交的解決をはかるも、韓国問題についてわが要求がいれられなければ、干戈に訴えてもその貫徹を期すとの方針。
以後、日本の対露外交は妥結にむけての外交でなく、決裂をも予測のうちにいれた外交となり、急速に戦争準備を推進した。
桂・小村、上奏。
桂は、閣議決定につき天皇の裁可を得ると、「日露交渉」の妥結は望みうすである、今後の外交は戦争準備の性格をおびる旨を述べ、
「陛下、今此ノ事ニ允裁ヲ賜フ。而シテ異日恐ラクハ国家非常ノ難局ニ立タン。陛下予メ其ノ決心ヲ腸へ」と、戦争決意の要請を進言。
天皇は無言でうなずき、首相と外相は拝礼して退出した。
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12月19日
・啄木のエッセイ「無題録」(「岩手日報」)。啄木の雅号の由来について語る。
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12月20日
・幸徳秋水・堺利彦の木下尚江評。
「『平民新聞』第六号の「同志の面影」に幸徳はこう評している。
▲君は雄弁家である。君の演説はその組立でも修辞でも大いに心を凝らしたもので、決して一語一字も苛(いやし)くもしない……。
▲……常に君の演説を聞く者は、時には巧妙な浄瑠璃を聞くが如くに面白く、時には危険な軽業を見るが如くにハラハラ思つたことであらう。古人の「擒縦(きんしよう)自在」の一語は、君の演説を評して余りがある。
堺は同じ記事の中でこう評している。
▲……君は演壇に立って自在に聴衆を笑はせるの術を知っている。その術たるや実に巧妙を極めたもので、人をしてほとんどその術たることを感ぜしめぬ。
▲ある時、君はその演説について予に語ったことがある。ああして笑はせておいて、その開いたロの中にヒョイと苦い丸薬を投げ込むのだと。……さきに甚だ多くの滑稽を弄していた君が、忽ち厳粛の態度をとつて、その丈高き身軀を直立せしめて、その長き両手をもつてその胸を打ちたたきながら、燃ゆるが如きその腹中の感情を吐きつくす時、聴くもの覚えずその声と色とに酔はされて賛嘆帰依の心を起すに至る。」
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12月21日
・小村寿太郎外相、ロシア公使ローゼンにロシア側第二次修正案の再考を要求。
ロシア側対案にある「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的ニ使用セザルコト」という項目と、北緯39度以北を中立地帯にする条項の削除を求めた。
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12月21日
・桂首相、寺内陸相・山本海相に出兵準備通告。
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12月21日
・林有造・小田貫一ら25名、新たに自由党結成。
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12月22日
・山本海相、ひそかに天皇に拝謁して、常備艦隊の連合艦隊への改編(戦時編制)の裁可得る。
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12月22日
・フィリピン、タフト委員会、ヴァチカンとの間で修道会所領購入協定を締結。修道会所領法制定。
12月24日
・清国、練兵処章程制定。北洋軍閥はここから起こる。
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12月24日
・山本海相、秘書官兼副官野間口兼雄中佐を佐世保軍港に急派し、常備艦隊司令長官東郷平八郎中将、同司令官上村彦之丞中将、竹敷要港部司令官片岡七郎中将に対し、日露交渉の経緯と最高首脳会議の決定、各種の戦争準備の進展の事情を伝える書簡を伝達。
司令長官東郷中将は、「如何ナル命令」にも即応できる用意がある旨を述べ、「要ハ我先ヅ彼ニ打撃ヲ与へ、以テ戦機ヲ制スルニ在り。乃(すなは)チ時至ラパ迅速其ノ命ヲ下サレ、以テ機ヲ逸セザランコトヲ望ム」(いつでも先制攻撃を実施できる)と返事。
山本海相は天皇に東郷中将の言葉を上奏し、天皇も「満足ニ思フ」とこたえた。
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12月24日
・閣議、英で公債募集方針決定。
25日、林董駐英公使に準備の訓令。英が同意せず中止。
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12月27日
・幸徳秋水「世田ヶ谷の襤褸市」(「平民新聞」)。歳末の迫る東京の底辺の状況。
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12月28日
・臨時閣議、枢密院会議開催、京釜鉄道速成に関する緊急勅令・軍費支弁に関する緊急勅令など公布。即日施行。
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同日
・海軍軍令部条例改正公布。戦時大本営条例改正。(参謀総長、海軍軍令部長を対等に)。
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同日
・軍事参議院条例公布。帷幄の下で重要軍務の諮詢に応じる元帥・陸海軍大臣・参謀総長・海軍軍令部長・親補の将官により構成される。
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同日
・憲法第70条に基づく財政上の必要処分に関する緊急勅令
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・戦費支弁のための緊急勅令。
①「軍費補充ノ為メ臨時支出ヲ為スノ件」
「特別会計」資金(「日清戦争」賠償金のうちの3千万円による軍艦水雷艇補充基金、罹災救助基金、教育基金を合わせ5千円)の転用、一時借入金(無制限)、国庫債券(無制限)によって必要な軍費をまかなう。
②「京釜鉄道速成ノ件」
韓国内の京城-釜山間の鉄道の建設促進のために、「一千万円」の保証と「百七十五万円」の補助を京釜鉄道会社に与える。
曾禰蔵相、アルゼンチン軍艦2隻の購入費を一時借入金を財源にする「臨時事件費」にして海軍予算に組みこみ、海軍は、翌日、ロンドンに送金。
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同日
・常備艦隊を解き、新たに連合艦隊(第1~3艦隊)を編成。第3艦隊は翌年に編入することにして、当面第1・2艦隊を合わせて連合艦隊編成。
第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官東郷平八郎海軍中将。第2艦隊司令長官上村中将。第3艦隊司令長官片岡中将。
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同日
・国庫債券1億円発行。軍備充実のため。
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12月28日
・ハンガリー、フォン・ノイマン、誕生。
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12月29日
・片山潜、渡米。
渡米協会事業は山根吾一に託す。雑誌「社会主義」は「渡米雑誌」と改題。
20日、社会主義協会の送別会。
21日、秋山定輔・島田三郎らの送別会。
翌37年1月下旬、社会主義協会本部、片山方から平民社に移る。
山路愛山「現時の社会問題及び社会主義者」で、堺・幸徳が片山を追出し、社会主義協会を乗っ取ったと書く。
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12月29日
・仏領コンゴが、ガボン、中央コンゴ、ウバンギ・シャリ、チャドの4つに分割。
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12月30日
・シカゴの劇場で舞台から出火して大火事。死者600人(大半が婦人・子供)。
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12月30日
・参謀本部・軍令部首脳会議。開戦時の陸海軍共同作戦計画を決定。海軍側の方針にそう合意。
〔陸軍参謀本部〕参謀総長大山巌元帥、次長児玉源太郎中将、総務部長井口省吾少将、第五部長落合豊三郎少将、第一部長松川敏胤大佐。
〔海軍軍令部〕軍令部長伊東祐亨大将、次長伊集院五郎中将、副官上泉徳彌中佐、参謀財部彪中佐、参謀中野直枝中佐。
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12月30日
・アルゼンチン巡洋艦2隻の売買契約成立。ロンドン。「日進」「春日」。
駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐、駐ドイツ海軍武官鈴木貫太郎中佐に、「日進」「春日」の回航責任者としてイタリアに急行すべき旨が、指示される。
(経緯)
アルゼンチン・チリ間で軍備制限条約締結。アルゼンチンはイタリアで、チリはイギリスで新造艦を建造中。
日本はチリの2艦を購入する計画。ロシアもこれを狙う。チリ側が意図的に価格を吊り上げたため、交渉中断中にイギリスがこれを購入。イギリスからこれを購入するよう交渉するが不調。
この月20日、駐イタリア公使(大山綱介)より建造中のアルゼンチンの2艦が手放されるとの情報。山本海相はこれの買い入れを決意。
日本海軍の「六六艦隊」:
日本海軍は日清戦争後、戦前に予算が通過していた1万2千トン級の「富士」「八島」(明治30年完成)に加え、1万5千トン級の新計画戦艦4隻を建造(新計画戦艦「敷島」「朝日」は明治33年、「初瀬」は明治34年、「三笠」は明治35年に完成)。
日露開戦時、日本はこれら新鋭の戦艦6隻を主力とし、1万トン級の一等巡洋艦(装甲巡洋艦)6隻を保有していた。一等巡洋艦「浅間」「常磐」は明治32年、「八雲」「吾妻」「出雲」は明治33年、「磐手」は明治34年に完成。
これが連合艦隊の主力で、「六六艦隊」の名称は、この戦艦6隻・巡洋艦6隻の構成を意味している。
「八雲」がドイツ、「吾妻」がフランスで建造され、残りの10隻はすべてイギリスで建造。
このほか、巡洋艦12隻、駆逐艦19隻、その他砲艦・水雷艇などを加え、連合艦隊の総排水量は23万3,200トン余。
対するロシアの全艦隊の総排水量は51万トン余。
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12月31日
・ロシア極東総督アレクセーエフ大将、太平洋艦隊司令長官スタルク中将に、ウラジオストクの巡洋艦隊を宗谷海峡経由日本沿岸へ威嚇のための派出を命令。
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12月31日
・林芙美子、誕生。
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