2013年7月9日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(77) 「第9章 「歴史は終わった」のか? -ポーランドの危機、中国の虐殺-」(その1) 1988年ポーランド「連帯」が政権掌握

北の丸公園 2013-07-08
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第4部 ロスト・イン・トランジション
ー 移行期の混乱に乗じて ー

このような最悪の時代は、根本的な経済改革の必要性を理解する者にとっては最良の機会となる。
ー ステファン・ハガード、ジョン・ウィリアムソン『政策改革の政治緑済学』1994年)

第9章 「歴史は終わった」のか?
- ポーランドの危機、中国の虐殺 -

私は自由になったポーランドに生活している。ミルトン・フリードマンこそ、わが国に自由をもたらした主要な知的設計者の一人だと私は考えている。
- レシェク・パルチェロヴィツチ(ポーランドの元財務相、2006年11月)

投資した金の10倍儲かると、胃袋に何か特別な化学物質が放出される。それが病みつきになるんだ。
- ウィリアム・プラウダー(アメリカの投資家)、資本主義経済への移行から問もないポーランドで投資することについて

喉に詰まる危険があるからといって、食べるのをやめてはならない。
- 『人民日報』、天安門事件後も自由市場改革を続行する必要があると主張して

1980年、ポーランド、グダニスク造船所、電気技師ワレサ(36歳)、自主管理労組「連帯」
 共産主義崩壊の決定的なシンボルとなった光景と言えばベルリンの壁崩壊だが、それより前、ソ連の支配体制が崩れることを暗示するもうひとつの光景があった。
ポーランド、グダニスクの造船所で、電気技師レフ・ワレサが、花と旗で飾られた鉄のフェンスを乗り越えているシーンだ。
この日、造船所の中では何千人もの労働者が、政府の決定した食肉の値上げに反対してバリケードを張っていた。
ポーランド政府は35年にわたってソ連の支配下にあり、政府に抗議する労働者のストライキは過去に例を見たことがなかった。
何が起こるか、誰にも予想はつかなかった。
ソ連政府は戦車を出動させるだろうか?
戦車はストライキを決行中の労働者に発砲して、強制的に職場に戻そうとするだろうか?

 ストライキが長引くにつれ、造船所は独裁政権国家のなかに生まれた大衆民主主義地帯といった趣を呈し、労働者たちは要求を拡大していった。
労働者階級の味方だと称する共産主義政党の政治局員に、自分たちの生活を管理されるのはもう真っ平だ。自分たち独自の労働組合が欲しい。交渉し、ストライキを行なう権利が欲しい、と。

 そして彼らは上からの許可を待たずに、自分たちの力で自主管理労組「連帯(ソリダルノシチ)」を結成した。1980年のことだ。世界は「連帯」とそのリーダー、レフ・ワレサに惚れ込んだ。

カトリシズムの影響
 36歳のワレサは、ポーランドの労働者の願望の完璧なまでの代弁者であり、そこには霊的交流とも呼べる一体感が生まれた。
「私たちは皆、同じパンを食べているのです!」。ワレサはグダニスク造船所でマイクを握り、こう叫んだ。
これは、ワレサ自身の労働者としての身分たけでなく、この先駆的な運動にカトリシズムが果たした役割の大きさを示す言葉でもあった。
党当局は宗教に冷やかな目を向けていたが、労働者たちは信仰を勇気の印として身にまとい、バリケードの中で聖体拝領を受けた。いささか粗野な面と敬度な面とを併せ持つワレサは、「連帯」の事務所の開所式では片手に花束、片手に木製の十字架を携えていた。
また政府との間に結ばれた最初の画期的な労例協約には、「ヨハネ・パウロ二世の肖像をあしらった土産物の大きなペン」で署名した。
一方、ポーランド出身のローマ法王もワレサに称賛を惜しまず、「連帯」のために祈りを捧げるとワレサに告げた。

「連帯」運動の拡大
 「連帯」はポーランドの鉱山、造船所、工場に広まった。
1年以内に「連帯」組合員はポーランド労働年齢人口のほぼ半数の1,000万人に達した。
交渉の権利を得た「連帯」は具体的な前進を勝ち取っていく。
週休は1日制から2日制となり、工場の運営に関する発言権は増大した。
「連帯」の組合員たちは、遠く離れ隔絶されたソ連政府の官僚のほうばかり見て、ポーランド国民のことを見ようともしない党官僚たちの腐敗や残忍さを公然と非難した。
一党支配のもとで抑圧されてきた民主主義と自己決定権への渇望が、堰を切ったように各地の「連帯」へ流れ込み、統一労働者党を離党する人は増え続けた。

 ソ連政府はこの動きを、東欧ブロックにおけるかつてない重大な危機と受けとめていた。
この時点でのソ連国内の反体制派は主として人権活動家であり、政治的右派も少なくなかった。
だが「連帯」の組合員は資本主義の手先だと簡単に片づけるわけにはいかなかった。
彼らは手にハンマーを持ち、毛穴に炭塵の詰まった肉体労働者たちだった。

「もし戦車を造れと言われたら、路面電車を造ってやろう」
 さらに大きな脅威だったのは、「連帯」の考え方が統一労働者党のそれとまったく相いれないことだった。
権威主義ではなく民主主義、中央集権的ではなく分散型、官僚主義的でなく参加型。しかも1,000万人の組合員は、ポーランド経済を麻痺させる力を持っていた。
ワレサはあざ笑うように言った。
たとえ政治的闘いに負けても「われわれを無理やり働かせることはできない。もし戦車を造れと言われたら、路面電車を造ってやろう。後ろ向きに走るトラックを造ることだってできる。この体制をどうやったら打ち負かせるか、われわれは知っている。われわれはその体制のなかで訓練されてきたのだから」と。

*1980年によく使われた「連帯」のスローガンのひとつは、「社会主義にイエスを、歪められた社会主義にはノーを」というものだった。

 民主主義路線に邁進する「連帯」に心を動かされる者は、統一労働者党内部にもいた。
「かつての私はあまりに無知で、党が間違いを犯したのはほんのひと握りの悪者のせいだと考えていた」と、党中央委員会のメンバー、マリアン・アレントはポーランドの新聞の取材に応えて語っている。
「でも、もうそんな幻想は抱いていない。この国の体制そのもの、構造そのものが間違っているのです」

1981年9月、第1回全国代表者会議
 1981年9月、「連帯」の運動はいよいよ次のステージに進もうとしていた。
900人の労働者がふたたびグダニスクに集結して「連帯」のが開かれ、「連帯」はこれまでに代わる経済・政治政策をもってポーランド政権を奪取するという革命的な方針を打ち出す。

 その計画案は次のように述べる。
「われわれはあらゆる管理レベルにおける自治的かつ民主的な改革を要求し、本計画と自治政府と市場とを統合する新しい社会経済システムの構築を求める」。
計画の軸となるのは巨大な国営企業の設置というラディカルな構想で、これらの企業は「連帯」の組合員数百万人を雇用し、政府の管理を脱して民主的な労働者の協同組合となるとされた。
計画案はこう続ける。
「この公営化された企業はポーランド経済の基本的な組織単位となる。その管理には労働者の代表による評議会があたり、評議会を運営する議長は選挙により任命され、更迭には評議会の決定を必要とするものとする」。
従来の党支配と真っ向から対立する内容に、ワレサは当局に弾圧されることを危惧し、これに反対したが、この運動はただ単に敵と対決するだけでなく、将来の希望となるような目標が必要だと主張する組合員もいた。
討論の結果ワレサは負け、この経済プログラムが「連帯」の公式の政策となった。

戒厳令、弾圧、地下潜入
 ワレサが弾圧を危惧したのには十分な根拠があった。
「連帯」の運動の高まりにソ連政府は脅威と憤りを覚えていた。
1981年12月、ソ連の圧力を受けたヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領は戒厳令を布告。
雪のなかを戦車が工場や鉱山に突入して「連帯」の組合員数千人が検挙され、ワレサも逮捕・拘束された。
『タイム』誌の記事によれば、「カトヴィツェの鉱山では、兵士と警官が斧やバールを持って抵抗する労働者を武力で制圧し、七人が死亡、数百人が負傷した」。

1983年ノーベル平和賞、「何もない空間」
 「連帯」は地下に潜ることを余儀なくされたが、警察国家支配による8年間にポーランド民主化運動の伝説はますます膨らんだ。
1983年、ワレサはノーベル平和賞を受賞したが、彼の活動はまだ制限されていて授賞式に出席することもできなかった。
「平和賞の受賞者の席は空席です」と、授賞式でノーベル委員会の委員は言った。「何もない空間から発せられる沈黙のスピーチに、皆でいっそう耳を傾けようではありませんか」

 「何もない空間」とは、まさにこの状況にふさわしい隠喩(メタファー)だった。その時点では誰もが「連帯」に何かを重ねて見ていた。
ノーベル委員会はそこに、「平和的なストライキという武器以外にはいっさいの武器を否定する」人間を見ていたし、左翼はそこに贖い、すなわちスターリンや毛沢東の犯した罪に汚されていない社会主義の可能性を見ていた。
右翼はそこに、共産主義国家の残虐な権力に対して穏健な抵抗運動が起こりうる証拠を見、人権擁護運動は自分の信念ゆえに拘束される人間を見ていた。
カトリック教会は共産主義的無神論に反対する仲間を見ていたし、サッチャーとレーガンはそこに、ソ連という鎧に空いた穴を見ていた(「連帯」が勝ち取ろうとしていたのは、二人の指導者が全力をあげて抑えつけようとしていた権利にほかならなかったのだが)。
戒厳令が長引けば長引くほど、「連帯」の神話はますます強さを増していった。

1988年「連帯」運動公然化、自由選挙、圧勝
 1988年、政府の弾圧は緩和され、労働者たちは再び大規模ストライキに打って出た。
今回は景気の急激な悪化と、ソ連に穏健なミハイル・ゴルバチョフ新政権が成立したことを受けて共産主義勢力側が譲歩し、「連帯」は合法化され、自由選挙を実施することで合意がなされた。

「連帯」は組合部門と「連帯」市民委員会の二部門に分割され、後者が候補者を立てることになったが、二つの組織は密接に結びついていた。
候補者は「連帯」の指導者であり、選挙要綱は漠然としていたため、組合が策定した経済プログラムが「連帯」の唯一の具体的な公約となった。
ワレサ自身は出馬せず、組合部門の責任者に徹することを選んだものの、「われわれに一票を投じて安全な暮らしを手に入れよう」というスローガンのもと、選挙戦はワレサを前面に出して戦われた。
結果は、「連帯」が候補者を立てた261議席中、260議席を獲得するという、統一労働者党にとって屈辱的、「連帯」にとっては輝かしいものだった。
舞台裏で糸を操るワレサはタデウシュ・マゾヴィエツキを首相に据えた。
ワレサのようなカリスマはないものの、「連帯」機関紙の編集長を務めていたマゾヴィエツキは、この運動きっての知識人と目されていた。

*選挙が実施されたことは画期的だったが、不正操作は相変わらずだった。
議会下院の議席のうち65%はあらかじめ統一労働者党に配分されており、「連帯」は残りの自由選挙枠の議席を争うことしか許されなかった。
それでも「連帯」が圧倒的な勝利を収めたため、政権の事実上の支配権を獲得した。
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