より続く
慶応4年(1868)
3月23日
・奥羽鎮撫使一行(総督九条道孝・参謀世良修蔵)836人、仙台に入る。
仙台藩に会津討伐を命じる。秋田藩に配下諸藩や津軽藩と共に庄内藩追討を命令。新政府の「鎮撫」方針が、強力な佐幕勢力の「討伐」政策であることが明確になる。奥羽諸藩は、隣邦会津・庄内2藩に対して軍事行動を強制される。鎮撫使の行動、特に参謀世良の言動は、仙台人の体面を傷つけるものがある。
・庄内藩、仙台入りの奥羽鎮撫総督府に謝罪の使者を送る。
村山郡内の天領問題で朝廷に弓引く叛逆の臣と決め付けられ、討伐軍の先導が天童藩に厳命。これにより会津藩と急接近し「会庄攻守同盟」が締結。庄内追討を久保田藩が受け、北より領内に攻め入るとみた庄内藩は清川口・大綱口・羽黒山・吹浦口に守備兵を配し、新しく新徴組の編成替え、藩兵の軍制も改める。
・河井継之助・スネル兄弟ら、カガノカミ号で新潟上陸。翌24日長岡入り。スネルは、4月上旬、会津入り。
・対馬藩主宗義達を朝鮮通交事務取扱とする
3月25日
・仙台(玉虫佐太夫(46)・若生文十郎)・米沢(木滑要人・片山仁一郎)藩代表、会津で会合。会津藩の謝罪嘆願周旋相談。26日、会津藩公用方手代木直右衛門・小野権之丞、仙米使節と会見。27日、会津藩主容保父子、仙米使節に周旋御救助懇願。仙台・米沢藩による会津藩周旋工作開始。
3月26日
・勝海舟、横浜へ出向き大原重徳侍従の旅館を訪問。
・フランス、パリ軽罪裁判所、インターナショナル協会員15名にインターナショナル解散と夫々に罰金100フランの刑を言い渡す。
3月27日
・西郷吉之助(東征総督府参謀)、駿府を出発。28日、横浜でパークスと面会。
・勝海舟、英国公使パークスと海軍総督キップルを訪問。
・仙台藩、会津征討軍(伊達邦教)1千を会津藩境に派遣。続いて、伊達邦成・伊達邦直・瀬上主膳らの兵6千が出陣、白石城を本陣とする。4月11日、藩主伊達慶邦も出兵。ともに偽装的出兵。
仙台藩:奉行(家老)6人の集団指導制。首席但木土佐(会津救済派)、他に玉虫左太夫、若生文十郎。これに反して、遠藤允信・三好監物ら重臣は会津攻撃派。総兵力は3万3800余。数では全国一だが、「仙台48館」と云われ、上級家臣団は仙台城下の屋敷のほかに領内各地に領有地をもち、ここに家臣団を住まわせている。
3月28日
・神仏分離令。仏教僧侶が社務に従うこと禁止。宗教界は大混乱。以後、全国で仏教施設・仏具の破壊運動が起こる。
3月29日
・田安亀之助、徳川宗家を相続。後の徳川家達
3月30日
・仏、労働組合評議会が公認
4月(この月)
・宗義達(対馬藩主)、朝鮮通交事務取扱い
・アメリカ軍艦シェナンドア、朝鮮に向う。シャーマン号事件調査。追払われる。
・支配体制全般の危機。
兵力不足で彰義隊も討伐できず、江戸市中警備も旧幕府に依頼するほど、宇都宮も旧幕大鳥軍に奪われる。また、2~4月、上州・武州の世直し一揆が繰り広げられる。新政府は、宇都宮で一揆指導者を斬首したのをはじめ各地で指導者を処刑。
・大和生駒郡矢野騒動。年貢諸役の減免、救銀の給与を要求。
・会津藩の布陣:
①日光口;総督(旧幕府歩兵奉行)大鳥圭介、副総督山川大蔵、約1300。②越後口;総督一瀬要人、幕府衝鋒隊など1200。③白川口;総督西郷頼母、副総督横山主税、約1300。④大平口;総督原田対馬、約700。⑤米沢口;約100。
・オーストリア、ヴィーナー・ノイシュタットで労働者の集会。
・(露暦4月)チャイコフスキー(28)、ペテルブルクで「五人組」(「力強い仲間」)作曲家と知合う
・ニーチェ、ローデと翌年パリへ留学計画。「カント以降の目的論と有機論なるものの概念について」テーマの博士論文計画。
4月1日
・武装神官、日吉天王社に進入、仏具・教典など焼き捨てる。
・五兵衛新田に集結の新選組総員227人(五兵新田の観音寺62、滝二郎宅83、新宅35、金子邸47)、流山へ転ずる。2日、流山に着陣。本陣を長岡屋に、平士ら分隊を称名院に置く。
・幕軍衝鋒隊(古屋作久衛門・今井信郎)、会津を出発し途中で兵員を募集しながら、この日新潟到着、総勢600余。7日、同じく会津藩の援助を受けた水戸脱走軍、新潟に進駐衝鋒隊含む越後に入った旧幕軍は、北越諸藩の間を徘徊し、兵糧・軍資金などの調達に狂奔、評判を落とす。特に無頼の徒が多い衝鋒隊は略奪・暴行が横行、諸藩からは特に嫌われる。
長岡藩河井継之助が、新潟の混乱を知り、単騎新潟に駆けつけ、衝鋒隊・水戸脱走軍を新潟から退去させる。
新潟は幕府直轄領で新潟奉行所が統治していたが、大政奉還後。新潟奉行白石千別は江戸へ逃走。慶応4年(明治元年)には新潟奉行所は組頭田中廉太郎・松長長三郎等が運営。田中・松長は新潟の平和は維持し、外国船来航・開港要求の状況の下で、信頼できる藩に新潟の統治権を託す事を決意。5月21日、米沢藩と交渉。
・福澤諭吉、塾を鉄砲洲から芝新銭座に移し、3日、「慶應義塾」と命名。月に金2分の授業料制度。
4月2日
・奥羽鎮撫総督九条道孝、出羽矢島藩に、6日、秋田・津軽藩に庄内藩征討令。10日、副総裁沢為量の庄内表への出馬公表。秋田・米沢・仙台の諸藩より庄内藩討伐理由の問合せ。総督府の回答からは、庄内藩の罪状は江戸薩摩藩邸焼討ちの報復としか理解できない内容。薩長両参謀が掌握している奥州鎮撫使の討会・討庄政策への疑惑深まる。
・甲鉄艦「ストン・ウオール号」(最初の本格的な装甲艦)、横浜に入港。
シュネルらは、同盟軍に対し購入をもちかける(旧幕府が既に40万ドルを支払っているので、残金10万ドルで入手できる)。長岡藩が反対するなど足並みが揃わず、実現しない。後に新政府軍海軍の主力軍艦として活躍。
・マルクス次女ロウラとポール・ラファルグ、結婚を戸籍役所に届出。
つづく
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