2020年7月15日水曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月1日(その2終) 「五年女子 〔一日〕倒れ掛かった我が家には入れず、バラックの中でうずくまった。「朝鮮人」と何人かの叫び声に目を覚ました。急いで母と一緒に彼岸へ行って見たが目に入ったのは哀れな避難者の群れであった。万歳の声に彼岸を見れば、これ如何に大きな朝鮮人の死体、自分も思わず万歳と呼んだ」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月1日(その1) 「一日の夜から始まった虐殺。交番の前での虐殺遺体」 「五人つかまり二人ころされ三人電柱にしばる」 「ツルハシを持った男は、逃げる男の脳天目がけて力一杯ふり落とした」
より続く

大正12年(1923)9月1日
【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(4) 弘明寺町の虐殺
①松信八十第「電柱に縛られた朝鮮人」
〔震災当時横浜尋常小学校の1年生であった弟の泰輔が、それから6年後の昭和4年、小学校の卒業記念に綴った作文「生い立ちの記」の一部である〕
家は一階がつぶれて二階が下に落ちていた。けれど家なんかつぶれても、もっとよい家をお父さんが建ててくれるだろう。潰れたほうがかえって隠れん坊するのに都合がいいと思った。
頭の上から火の粉がばらばらと落ちてくる。「早く外に出なさい」という母やあねの怒鳴り声が聞こえる。出られるくらいならとっくに出てらー。やっと外に這い出したら横浜高工(横浜国大工学部の前身)と隣のそば屋から火の手が上がっていた。僕たちは横浜高工の運動場に逃げたけれど、ここも危険なのでもっと先の原っぱに逃げた。〔・・・〕
地震も止んだ。火事も治まった。夜がきた。僕たちは周りを箪笥やつづらで囲った。中は泥棒してきた戸板の上に蒲団をしいて寝た。うとうとしたときだった。
「朝鮮人だ、朝鮮人だ、助けてくれ」
といいながら2、3人が弘明寺の観音様の方から逃げてきた。外は急にさわがしくなった。僕も見たくて仕方がないので、便所にいくと言って外へ出た。見ると朝鮮人が電信柱にしばられて、巡査に、「切れ、切れ」と目をつぶってわめいていた。
(松信著「横浜有隣堂 九男二女の物語」草思社、一九九九年)

(5) その他
②四竃(しがま)孝輔(侍従次官、海軍少将) 「鮮人に就いて兎角の風評高し」
1日の地震に際し、横浜の刑務所を開き、在監囚支那入鮮人合して約一千名を解放せり。此事が大いに市民に恐怖の念を懐かしむ。即ち良民青年団は自衛上必要として自ら武器を以って起ち、警官を助けて警察保安に任ぜしか、民心激昂の際とて、鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、或は致死せしむるもの殆ど其の数を知らず。一方鮮人側に在りては解放の後ち獄衣を普通衣に改めんとして良民を追いはぎするもの多く、また何分にも施米は邦人を先に、鮮人には容易に及ばざる関係上、飢渇を覚えては、邦人の糧食を無理に強奪するものあり。これらの乱暴が甲より乙に伝わり、また乙に暫時噂に噂を生じ、はて 「鮮人隊伍を組み銃器を備えて襲来し、掠奪凌辱を擅にす」 との揚言高く、青年団員の激昂殆ど其の頂に達し、前記の始末に及びたる次第なりと。かくして鮮人は良民たると暴徒たるとの差別なく、到底市に止まるを得ず、身を以て免れて杉田、金沢、保土谷など諸方に遁走せしか、これらがまた地方騒擾の原因を作し、現に、杉田、金沢方面の住民は痛く選民を恐れて、急を追浜航空隊に報じ救援を求むること切なり。即ち、航空隊よりは、五人あるいは八人と、小人数の隊伍を各地に派遣し、警戒に任ぜしむ。一人も現行犯ある鮮人を見出きざりしと言ふ。
兎に角鮮人にして我が邦に反感を抱くもの此の天災を機としてあるいは放火し、井水に毒を投じて毒殺を計り、爆弾を使用して邦人を暗殺し、婦女子を凌辱して獣欲を逞しうするの悪漢固よりこれなきを保せず。必ず噂の生ずる所其の真原因あるべきも、また良鮮人にして不幸これら暴徒と同一視せられたるもの必ず多かるべく、これらの人々にしては実に気の毒に絶えざる次第なり。
鶴見にては警察官の処置宜しきに叶い、早く良鮮人三百人を一団として警察に保護し、禍を末前に防ぎ得たりと。川崎鶴見程ケ谷方面鮮人に対する諸種の流言蜚語盛に行はれ人民兢々たりしも、事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり。
(四竈著「侍従武官日記」芙蓉書房、一九八〇年)

(6)寿尋常小学校の作文集(「大震災遭難記」)
四年男子5  其夜〔一日〕大なる事件がおこりました。それはいふまでもなく、朝鮮人さわぎでした。此のよるは口でこそえらいことをいっても内心はびくびくでした。
四年女子3 2時頃〔一日夜中〕になりましたらおとこの人が今朝鮮人が女子どもをさらったりするから女子どもはやうじんなさいといったのでおつかなくてたまりませんでした。

五年女子 〔一日〕倒れ掛かった我が家には入れず、バラックの中でうずくまった。「朝鮮人」と何人かの叫び声に目を覚ました。急いで母と一緒に彼岸へ行って見たが目に入ったのは哀れな避難者の群れであった。万歳の声に彼岸を見れば、これ如何に大きな朝鮮人の死体、自分も思わず万歳と呼んだ。

六年男子1 〔家がつぶれ、石川小の上の山→相澤〕〔一日〕そのうちに鮮人が来るというので男の人達は皆、棒を持って警衛するようになりましたので、僕はすこし安心をしました。其の時向こうで鮮人が二、三人殺されました。それっきり鮮人も来なかったので安心して寝ました。

学年不明男子6 通りかかった巡査が公園は水で一杯だから山へ逃げた方がいいといったので、近所の人と扇橋を渡って長者橋をまっすぐ車橋にかかった。車橋が人々が逃げるのでこんざつをしています。此所をむりに渡って見るとかあさんや弟やおばあさんがつぶされているのとどうする事も出来たかった。かあさんや弟は巡査にひっはり出された。それから其夜中ごろになると朝鮮人さわぎになった。僕は夜が早く明ければよいと思っていた。其中に夜がだんだん明けてきたのでほっと息をつきました。すると僕の前で朝鮮人が一人皆にたけやりで殺されました。それから親類の人にげんまいと白米のおむすびをもらいました。〔・・・〕其の昼頃朝鮮人が井戸に毒を入れたというのでこれでは飲料水も飲めなくなったというので舎田へ親類中の者といってしばらく舎田にいました。

学年不明男子1 〔夜〕その内に火ばんが かんごくからでたちよせんじんが火をつけたり 日本人のところえ びすとるをむけて日本人の着物きて日本人のふうをして食物をとつるといふことだからきをつけて もし朝鮮人がきたら なんでもいいからころしてしまえ とどなってきました。私はびくびくしているうち 朝となりあさごはんをたべて 日るごろ朝鮮人はますますあばれて日本人をころす みんなはたけやりをもつたり鉄ぼうをもっている また夜になるとまた火ばんの人が朝鮮人がいどにどくをいれるといいにきた 三日めには しんるいをたづね、めあたりましてやはり朝鮮人がでたそいう 長い間おっかないくるしみをした バラックをたててくらいてぶじにくらしました。

学年不明男子6 すると巡査は公園へ逃げろといったからいくとみんなか公園はいけないといったからやまへいくと・・・ (一日) よ中かに朝鮮人がきたといって かき根のたけおとって おつかけまはしてました するとだんだんと明けてきました するとみんな はいかきに いってしまいましたから のこっていることは 田けいとんもろこしや鮮人かいろいろのものを とってきて たべました 水はどろ水をのんでいました 水がないからくみにいこうとしたが朝鮮人がどくをいれたといつたから くみなかった するといま又朝鮮人が火をつけたからといっていました

高等科二年女子2 〔1日夜〕「朝鮮人が襲来して来ましたから気をつけて下さい」とどなる声にびっくりして私達は飛び起きた。すると父は朝鮮人なんかきたって「大丈夫だよ こんな多さん人が居るから なんでもありやあしないからさわがないで寝て居いで」と云はれても安心して寝ることが出来ず、なほさら早く夜があげればよいと思った。叉山の所で「朝鮮人を二人捕へましたから安心して下さい」といった人の声を聞くと私達も幾分安心して寝むることが出来た。

(7)磯子尋常小学校の作文集(「震災に関する児童の感想」)
五年女子2 九月一日 そこから根岸橋までくると朝鮮人が幾人ともなく死んで流れてるました それはひさんのやうでした

(11)南吉田第二尋常小学校の作文集(「震災記念綴方帖」)
六年男子27 〔一日〕夜十一時頃山道通って行きました 其の夜からは朝鮮人があばれるのでこわくてこわくてたまらないので二日の日港でのじくして天龍といぶ軍艦へ乗って田舎へ行きました

六年男子30 〔一日夜〕空は一面赤い火の海となってゐた、おそくは鮮人等にせめたてられいきた心地は致しませんでした。

六年男子31 〔一日〕 その中朝鮮人がせめてくると言ふ人があるので胸がどきどきと又して来たが僕の居る所にはせめてこなかった。

六年男子35 〔一日〕 日はだんだんに暮れて行く 男や女のどなってさがしてゐる声が方々に聞こえる。時々朝鮮人さわぎやゆり返しが来るのでおちついて居られない。しばらくして下の方を見ると横浜中は盛にもえてゐる。時々朝鮮人だと言ふと、皆竹槍を持って用心する。・・・三日頃焼跡へ行くと、あちらにもこちらにも真黒になった人がころがつてゐる。まるで生じごくへ行ったやうだ。

六年男子36 〔一日夜〕其時「朝鮮人 朝鮮人 朝鮮人」 トイフ声や、「殺してしまへ」「焼ころせ」などと言ふ声が聞こへた、僕は恐ろしさにぶるぶるふるへながらさ様々の事」で一夜を明かした 〔二日〕下へおりて来て見るとあっちこっちには真黒になった死体がごろりごろと見へる。

六年女子23 一日の夜朝鮮人さはぎでした 地震にたすかつた私は朝鮮人にまけてはならないとをもった 夜家の人は原にぢんどつて手に手に皆竹をもっている 私の家ではねようとをもってもねつかれません すると春ちゃんはつかれてすやすやとねてしまった をばさんはお母さんと小供といふものはむじやきなものだとはなしていると人々のさはぐこへがした すると朝鮮人がてつぽうをうつを音かしました 私たちははやく夜があければいいとをもつていた だんだんしづかになつてきたのて戸のすきまからをもてをみると夜があけてきた まもなく兄さんがかえつてきた 私はよく朝原へきて見ると朝鮮人が二三人ころされていた お昼頃牛込の〇〇むかえにきてくれた

【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(2)横浜公園、横浜港方面
①フェリス女学院本科六年「横浜公園は火に囲まれた夜、北方で朝鮮人がここへ襲来するかもと聞いた」
〔一日模浜公園へ避難〕公園の中は既に一杯の人だった。水道管が破裂したと見え、通路は一尺余りも出水して居た。大きな木の根元に少し許りの空地を見いだした私達は、やっと其処に落ちつく事ができた。周囲には知らぬ人許り。川向ふの不老町の方から盛んに黒けむりが昇り始めた。と見る間に市役所の横手からもめらめらと火の手が上る。段々拡かって西からもえてきた火は東と一所になって更に北へと延びて行く。風は益々劇しくなった。殆ど旋風の様四方八方へ吹きまくった。段々火事は大きくなる。遂に公園の周囲は火と黒煙で囲まれた。火の粉が雨のように降り注ぐ。真黒のもえ殻が飛んで来る。その間も引き切りなしに大地は動いて居る。到々空気は熟して呼吸が苦しくなった。私はもう駄目だと思った。
夜になった。「今、北方で朝鮮人が乱暴し始めました。此方へ襲来するやも知れませんから気をつけて下さい」誰かがふれ回った。私達の心はこの知らせに極度に暗くなった。

(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
⑦フェリス女学院本科五年「竹槍のすれ合う音がだんだん近くなった。今度こそたすからない」
〔西戸部 十全病院のそばで一日〕少し気をゆるめている中、向方から「朝鮮人が隊をくんでせめてきました。男の人はみんな護って下さい」ときこえてきました。竹槍のすれ合う音がだんだん近くなってきます。地震でもう生きた心地もしていないのに、又朝鮮人の襲来! もう今度こそは今度こそはたすからないと〔・・・〕女の人達はあたりの火を消して、小さい子供を泣かせまいと息をころしていました

【横浜証言集】4 鶴見地域 (橘樹郡) の朝鮮人虐殺証言
①横浜市震災誌「歩兵銃50挺を青年会員に貸与」
朝鮮人襲来の噂あり。浅野中学校〔鶴見町〕 に三八式歩兵銃50挺あり、九月一日朝鮮人襲来の噂ありし際、同地青年会員に氏名を控へて貸与。(「横浜市震災誌」)

(9月1日おわり)




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