2020年7月24日金曜日

慶応4年/明治元年記(24) 慶応4年(1868)5月1日 白河口の激戦(同盟軍2,600が政府軍700に大敗、白河城奪還) 大総督府、江戸市中取締まりを彰義隊→政府軍と布告(事実上の宣戦布告) 箱館の引渡し完了 

慶応4年/明治元年記(23) 慶応4年(1868)閏4月20日~30日 政体書制定(七官制、3職7科8局制) 白石列藩同盟成立 三国峠口の戦い(越後方面での戦いの口火) 政府軍、小千谷(会津藩飛地)占領 田安亀之助(6、のち徳川家達)、徳川家家督相続 京都府できる(府知事は大津裁判所総督長谷信篤)
より続く

慶応4年(1868)
5月
この月
・朝鮮、南延君墓盗掘事件。米人オッパードとジェンキンズ、大院君の父の墓盗掘試み追払われる。
天主教弾圧の難を逃れて上海にいたフランス人宣教師フェロンがドイツ系アメリカ人オッパードに持ちかけ、アメリカ人ジェンキンズ(元アメリカ領事館中国語通訳)が出資。隊員約100人が牙山湾九万浦に上陸、墓のある徳山まで4時間歩き、作業にかかるが時間切れ。のち、江華島に向かい南端永宗島に上陸。銃撃戦によりフィリピン人水夫2名没。朝鮮侵入後10日で引揚げる。
・多摩・都筑3組の39村の村役人、「百石三両御下ケ願」を官軍方御用掛に提出。又次郎(石阪昌孝)も役人総代名主として連署。
・薩摩「乾行」・長州「丁卯」、寺泊沖に出現、同盟軍軍艦「順動丸」を攻撃、「順動丸」は追詰められて自沈。
・榎本艦隊「回天」、箱館入港。船長甲賀源吾の他に開陽丸艦長荒井郁之助が同乗。事前視察。
・美作竜野鶴田藩の騒動。強訴から始まる。「庄屋層と小前層は完全な乖離状態」。被差別民との連繋が成立。
初旬
・会津藩兵の白河城占領の報、京都に届く。大久保と岩倉(両名共、朝議で徳川家移封を主張)はこれを逆手にとり東方親征を計画(先の大阪親征は政治的意味合いのものであったが、今回は軍事的意味合いのもので、親征を理由に増援大部隊を送ろうとするもの)するが、朝議で、鍋島直正・松平慶永・広沢兵助(長州、但し増援派遣には積極的に賛成)らの反対もあり否決される。しかし、増援部隊派遣については一致し、これ以後大量の増援兵を送る措置がとられる。
5月1日
・白河口の激戦。同盟軍大敗。政府軍700・砲7門、日光口・江戸から援軍を集め、三方から白河城攻撃、白河城奪還。大勝。城兵2,600、死体700残し1日で潰走。同盟軍は緒戦で敗退。同盟軍、以降7度の奪還戦を行うが果たせず。
白河城は堅固であるが小規模で(簡単に包囲できる)、仙台藩を仮想敵としているため北方の防御は堅く、南方の防御は稲荷山・雷神山・立石山等の小山に頼っている。会津藩白河口総督西郷頼母(会津藩家老)は、戦力大半を白河城に篭らせ、残る戦力を稲荷山・雷神山・立石山に布陣。同盟軍戦力(2600)。
①会津軍:5中隊相当及び2小隊と1砲兵隊(朱雀士中1番隊(小森一貫斎)・朱雀足軽1番隊(日向茂太郎)・朱雀寄合1番隊(一柳四郎左衛門)・青龍士中1番隊(鈴木作右衛門)・青龍足軽1番隊(杉田兵庫)・義集隊(龍野源左衛門)・会義隊(野田進)・砲兵隊(樋口久吉))、②仙台軍:3大隊相当及び3小隊と1砲兵隊(瀬上主膳大隊(5小隊と1砲兵隊)・佐藤宮内大隊(3小隊と1砲兵隊)・真田喜平太大隊、他に司令部直属3小隊と1砲兵隊)、③その他(二本松藩6小隊・棚倉藩1小隊・純義隊(小池周吾)・新選組(斉藤一))。
新政府軍(700)。①薩摩軍:3中隊相当(城下士小銃隊2番隊(村田新八)・4番隊(川村純義)・5番隊(野津静雄))、②長州軍:1中隊と2小隊(施条銃足軽第1大隊2番中隊(楢崎頼三)・第1大隊4番中隊2番小隊(口羽兵部)・施条銃中間第4大隊1番中隊2番小隊(原田良八))、③その他(大垣軍2中隊・忍藩1小隊)。
午前4時、川村純義率いる右翼軍(薩摩城下士小銃2、4番隊)が白河城南東の雷神山へ進軍。午前6時、野津鎮雄率いる左翼軍(薩摩城下士小銃5番隊・大垣藩1中隊・長州藩施条銃足軽第1大隊2番中隊・第1大隊4番中隊2番小隊・大砲3門等)が白河城南西の立石山へ進軍。同時に、伊地知率いる中央軍(囮の大垣藩1中隊、長州藩施条銃中間第4大隊1番中隊2番小隊・忍藩1小隊、大砲6門等)が、同盟軍主力が布陣する奥羽街道を見下ろす要所稲荷山へ進軍。
稲荷山方面の戦い(中央軍の攻撃)。伊地知の中央軍は、稲荷山から1kmの小丸山を守備する同盟軍守備隊を蹴散らし、小丸山に多数の軍旗を掲げ大軍集結を装う。更に、稲荷山へ砲撃を開始すると、同盟軍は小丸山に新政府軍主力集結と判断し砲撃開始。伊知地の中央軍が押され始めると、大垣・長州の大砲に援護をさせ、薩摩の大砲が前進し猛砲撃を行い、稲荷山の同盟軍は制圧され始める。会津藩副総督横山主税は督戦のた山頂に上がったところを長州・大垣藩兵の銃撃により戦死。白河口総督西郷頼母(会津藩家老)は、白河城・雷神山守備兵を次々に稲荷山に投入。西郷は伊知地の囮作戦に掛かる。
雷神山方面の戦い(右翼軍の攻撃)。川村の右翼軍は、稲荷山防衛に兵を割かれた雷神山を攻撃、占領。雷神山奪回に派遣された白河城の同盟軍は、右翼軍の山頂からの射撃により易々と撃退される。更に、川村は右翼軍を二分し、一方は雷神山から尾根伝いに米山越に向かわせ稲荷山の同盟軍の退路を遮断、もう一方は敗走する同盟軍を追撃しつつ城下町に突入、この追撃戦で右翼軍は白河城・雷神山間の谷津田川河原で捕らえた同盟軍兵士を次々に斬首。米山越に向かった右翼軍が米山越から稲荷山の同盟軍を砲撃を開始し、稲荷山は、前方の小丸山方面の中央軍と後方の米山越の右翼軍に狭撃され大混乱に陥る。更に、この段階で中央軍も攻撃、稲荷山麓で凄まじい死闘が展開。
立石山方面の戦い(左翼軍の攻撃)。またこの段階で、野津率いる左翼軍が立石山を攻撃、奪取、会津藩朱雀足軽1番隊隊長日向茂太郎が戦死。仙台藩参謀坂本大炒は手勢を率い立石山方面に向かうが、銃撃により戦死。野津の左翼軍は、立石山周辺を完全に占拠し白河城へ進軍。
白河城陥落。稲荷山・雷神山・立石山で敗れた同盟軍は白河城へ敗走するが、白河城に至る奥州街道は米山越の右翼軍と立石山から進出した左翼軍が封鎖している為、多くの兵は阿武隈川を渡り北方に敗走。白河城守備兵も、大半が稲荷山方面に戦力投入され必要兵力なく、城を放棄して北方に逃走。同盟軍は2500は、新政府軍700に三方から包囲殲滅。
仙台藩参謀坂本大炊・会津藩副総督横山主税(22)・会津藩軍奉行海老名衛門・軍事方小松十太夫・仙台藩軍監姉歯武之進、戦死。会津藩300余・仙台藩80・二本松藩兵・旧幕軍合わせて戦死682の大敗北。仙台藩兵は二本松方面、棚倉藩兵は棚倉へ、会津藩兵は勢至堂方面へ退却。政府軍戦死10・負傷38。
白坂村名主大平八郎、薩摩4番隊長河村与十郎を案内し、村人しか知らない間道から桜町方面に潜入、奇襲攻撃を成功させる。後、この功により2人扶持・白坂町人馬継取締役となるが、明治3年旧会津藩士田辺軍次に斬殺。
仙台藩偵察方細谷十太夫、白河の敗戦の報に憤慨、自ら隊を作る。15日までに博徒など57名が集まり、衝撃隊と名付け神出鬼没の働き。鴉(からす)組として薩長兵から恐れられる。
5月6日、池上四郎、会津白河口の戦を報告するため京師へ帰る。
・沢副総督政府軍、新庄より秋田藩領内転陣。7月1日、九条総督と合流するまで秋田藩領に留まる。
・米沢藩、越後方面の国境小国に色部長門を越後総督に任命して兵約1200を派遣。ついで国境を突破し越後下関に本陣をおき、新発田藩を強引に説得して同盟に加入させる。
・米沢藩前軍、越後へ出陣。中条豊前率いる11小隊による1大隊(斉藤篤信隊・柿崎家教隊・香坂与三郎隊・苅野鉄之助隊・香坂勘解由隊・岩井源蔵隊・菅名但馬隊・芋川大膳隊・小倉吉蔵隊・朝岡俊次隊・松木幾之進隊)約680が出陣。13日に本軍、15日追加の兵を出陣させる。
・大総督府、彰義隊の江戸市中取締まりの任を解き、政府軍がこれに当たると布告。彰義隊と新政府兵の衝突事件、頻発。事実上の宣戦布告。 
・元箱館奉行杉浦兵庫頭、五稜郭に出頭、引渡目録13冊を箱館裁判所清水谷総督へ手渡し引継式は終了。
閏4月5日、清水谷公考は総督に昇任、内国事務局監督徳大寺実則から、議論理屈でなく現地の情態を熟察し着実の処置が肝要、井上石見其外を添えるので諸事十分に評議し後顧の憂いをなくすよう取計らい、重大難事件は太政官代と協議すること、ロシア人と雑居の地は、外国人との外交も「忽卒ノ取計」らいとならぬよう注意すること、会津藩等が蝦夷地へ渡る場合は守衛の藩々等を指揮して速に鎮定することなどの指示を受ける。実務担当責任者は井上石見・松浦武四郎(清水谷総督に同行せず)が内国事務局判事に、岡本監輔・山東一郎・小野淳輔・堀真五郎・宇野監物(のち巌玄溟と改名)が同権判事に任ぜられる。赴任費用・開拓資金は、近江商人珠玖清左衛門を箱館裁判所用達に任じ、蝦夷地産物取扱商人へ献金の周旋を依頼。予めの内諾もあり、清左衛門の尽力により箱館産物問屋から献金を受け、赴任費用の目途が立つ。
清水谷総督の一行は、閏4月14日京都出立、20日敦賀から長州の汽船華陽丸で海路箱館へ向かい、24日江差に着岸。25日、山東一郎・小野淳輔を陸路先発させる。26日午後、杉浦奉行と小野淳輔との間で五稜郭管理引継ぎを終え、五稜郭の門番も松前・南部・津軽3藩の手に移り、番士も交代、船で箱館港に入っていた清水谷総督一行は、称名寺で休息後夕方遅く五稜郭に入る。27日、杉浦兵庫頭は五稜郭で清水谷総督と対面、その後、井上石見・岡本監輔・巌玄溟・小野淳輔・堀真五郎の箱館裁判所首脳とも会談、今後の事についての意見を述べる。杉浦は、箱館奉行所直接統治地域の業務内容を認めた「地方演説書」と蝦夷地全域に関する業務内容を認めた「蝦夷地演説書」に分けて引継書を作成。「地方演説書」は、和人地のうち松前藩領を除く箱館奉行所直轄50町村(箱館町から長万部村まで)の現況、収税法、拝借米金の貸与法などについて52ヶ条に亙り概説。「蝦夷地演説書」には、東西北蝦夷地の場所経営状況について述べられ、更に室蘭在住の荒木寛三郎の牧牛育成に関しても「牧牛の儀に付演説書」を作成。他に、「運上金并増運上金増冥加金取調書」「東西請負人共請証文」「全島大幅切絵図」「場所々々切絵図」「東西北蝦夷地其外離島場所詰人数書」「北蝦夷地出稼人名前書」「場所々々備米金高」「役託向并本陣会所運上屋備米等建物調書」「備馬員数調書」「ウス・アブタ・シャマニ牧并馬員数調書」「村役人浜役のもの名前書」「永住人出稼人家数人別調」「産物出石高壱ヶ年凡積」「建網笊網員数書」「場所々々取立候浮小物成調書」「永住のもの并土人共所持大小船数調書」「役土人名前并土人々別帳」等の場所経営基本台帳とも言うべき諸帳簿・図面が引継がれる。実務には種々問題あり、28日、組頭宮田文吉・山村惣三郎が五稜郭で相談の結果、目録引渡しは5月1日に行うが、役々の去就等はその後の話し合いでということになり、引渡し後も当分の間は、江戸に帰ることを願い出ている者までも手助けをすることに決定。
5月1日、杉浦兵庫頭は五稜郭に出頭、引渡目録13冊を清水谷総督へ手渡し引継式は終了。箱館奉行所の金穀は、江戸表の状況を心配した杉浦兵庫頭が、3月中に江戸へ回送しており箱館には殆ど残されず、箱館裁判所首脳陣は諸政務遂行と同時に金穀確保に奔走しなければならない。 5月1日、五稜郭で箱館裁判所開庁が宣言。裁判所は、箱館在留各国領事に対し、権判事小野淳輔の名でこれを通知。裁判所首脳はまず官吏服務規定「覚」8ヶ条(慶応4年5月「箱館裁判所例規」)を定め、上層部は京都から総督に随従してきた者、下僚は旧幕府箱館奉行所から実務担当者として引継がれた者とから成り立っていた箱館裁判所内の宥和と規律に配慮する。

つづく




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