2020年7月27日月曜日

慶応4年/明治元年記(26) 慶応4年(1868)5月13日~15日 朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山、新政府軍、朝日山奪取失敗) 上野戦争(彰義隊攻撃、1日で壊滅) 

慶応4年/明治元年記(25) 慶応4年(1868)5月2日~12日 小千谷・慈眼寺会談決裂 奥羽越列藩同盟成立 第2次今市戦争(大鳥隊敗北) 同盟軍、妙見山占領
より続く

慶応4年(1868)
5月13日
・(新7/2)朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山)。新政府軍、朝日山奪取失敗。奇兵隊隊長時山直八、戦死。
新政府軍の攻撃に、朝日山南側守備の会津萱野隊200は敗退。政府軍は雷神隊が守る山頂付近に出現。長岡安田隊の軍刀槍による突撃体制と雷神隊の一斉攻撃で政府軍は落とされ退却。
朝日山攻防戦。
山県は北陸軍参謀時山直八(山県は奇兵隊軍監、時山は奇兵隊参謀)と今後の作戦を協議、妙見高地の要所朝日山奪取を決意。12日夜半、山県は増援を求めるため一旦後方に下がりるが、13日払暁、時山は信濃川周辺の濃霧を好機と見なし、手持ちの兵力のみで渡河開始。時山が率いるのは長州軍奇兵隊2番隊(久我四郎)・5番隊(野村三千三)・6番隊(山根辰三)・長府軍報国隊1番隊(下田恂介)・3番隊(諏訪好和)の5小隊と、薩摩軍2番遊撃隊(大迫喜右衞門)・外城3番隊(有馬誠之丞)・城下士小銃10番隊半隊(山口鉄之助)の3中隊相当の歴戦の精鋭部隊。時山は同盟軍に気づかれる事なく信濃川を渡河、長州軍(奇兵隊・報国隊)は朝日山北側より薩摩軍は西側より朝日山に攻め登る。時山自身は奇兵隊を率い北側より攻め寄せ、会津軍鎮将隊の陣地を次々に落とし山頂に迫る。この時、山頂間近の分かれ道で道案内の農民が道を間違え、山頂の同盟軍陣地の背後に出る積りが正面に出てしまうことになる。時山は、それでも攻撃を開始。山頂の陣地を守る歴戦の桑名雷神隊(立見鑑三郎)はこれを猛攻射撃、時山は銃弾を受け戦死、奇兵隊も総崩れになり朝日山から敗走。長州軍敗走を知った薩摩軍も撤退し、新政府軍の朝日山攻撃は失敗に終る。山県は同志の死を悼み、「仇まもる、砦のかがり、影ふけて、夏も身に染む、越の山風」と詠う。
・米沢藩、総督色部長門・参謀甘粕継成とし越後へ出陣。
この日、大隊長大井田修平率いる馬廻組7小隊による1大隊(古海勘左衛門隊・増岡孫次郎隊・曾根敬一郎隊・桃井清七郎隊・長右馬之助隊・山下太郎兵衛隊・戸狩左門隊)・色部総督直属6小隊による1大隊(浅羽徳太郎2番散兵隊・下秀丸1番散兵隊・潟上弥助隊・徳間久三郎隊・高野広次隊)・砲2門の約650が越後へ出陣。15日、追加軍勢として馬廻組10小隊(土肥伝右衛門隊・関文次隊・山崎理左衛門隊・西堀源蔵隊・三股九左衛門隊・佐藤久左衛門隊・岡田文内隊・古海又左衛門隊・上野貞助3番散兵隊・寺島太一4番散兵隊)・30匁大筒隊4隊(石栗善左衛門隊・桐生源作隊・三矢清蔵隊・蓬田新次郎隊)を出陣させる。
・バイエルン王ルーヴィッヒ2世、ホーエンシュヴァンガウ村復元計画発表。
・北越戦線、与板・市坪の戦闘。会津・桑名と共に戦う水戸の市川隊、戦死者77を出す。
5月15日
・上野戦争。彰義隊攻撃。1日で壊滅。総指揮大村益次郎、桐野・篠原国幹先鋒。本郷台の肥前藩のアームストロング砲が威力を発揮。官30・彰義隊183戦死。新撰組原田左之助、彰義隊に加わり負傷。「西郷の胆力、大村の戦略老練、感心堪え難く候」(江藤新平)。
・山国隊、因幡藩佐分利鉄次郎隊と薩摩桐野利秋・篠原国幹先頭に上野広小路進撃。戦果あげるも戦死1・負傷4。
軍防事務局判事大村益次郎は、彰義隊との戦いを戦術的勝利のみならず戦略的勝利に繋げようとする。彰義隊を大々的に壊滅させ、①勝の策略(慶喜を呼び戻し江戸に100万石を与える)を砕く、②反新政府な旗本の敵対心を消沈させる、③江戸市民に新時代到来を意識させる。江戸在の大総督府参謀林玖十郎・東海道軍参謀海江田らは彰義隊討伐に反対するが、大村はこれを押し切る。更に、夜戦を主張する声もあがるが、大村は白昼の攻撃に固執(勝ら幕臣や江戸市民に彰義隊討伐を見せつける、また、夜陰に紛れた砲火を恐れる)。
作戦配置。
実戦部隊
①主攻撃部隊(広小路・御徒町より上野寛永寺南方の黒門口を攻撃)。薩摩軍4中隊相当(城下士小銃1、3番隊・遊撃隊1番隊・兵具隊1番隊)・1番砲兵隊(7門)。鳥取軍2小隊(山国隊・支藩兵1小隊)・佐分利鉄次郎砲兵隊、後に援軍として近藤頼蔵砲兵隊(2門)。熊本軍5小隊(木造左門隊・和田権五朗隊・大槻権九朗隊・吉田源左衛門隊・柏原兼人隊)・砲兵隊、後に援軍として2小隊(寺本兵右衛門隊・堀十左衛門隊)。
②助攻撃部隊(団子坂・根津より上野寛永寺北西の天王寺・谷中門口を攻撃)。長州軍1中隊と2小隊(鋭武隊1中隊・施条銃足軽1番大隊4番中隊1番小隊・中間4番大隊1中隊1番小隊)。大村藩1小隊、佐土原藩兵1小隊及び臼砲1門、佐賀藩兵、岡山藩兵、尾張藩1小隊(中西真之助隊)及び仏製砲2門。途中より援軍として、津藩兵、福岡藩兵3小隊(郡右馬允隊・根本源五左衛門隊・大野十郎太夫隊)。
③砲撃部隊(本郷台より不忍池越に上野寛永寺を砲撃)。佐賀藩砲兵隊(アームストロング砲2門)、岡山藩砲兵隊(臼砲3門・米製砲2門)、津藩砲兵隊(臼砲2門)。
警戒部隊
①神田川水道橋:徳島藩2小隊(上田友秦隊・梯克好隊)、同和泉橋・同昌平橋:津藩兵、同神田橋:新発田藩兵。
②隅田川両国橋:久留米藩兵、同吾妻橋:紀州藩兵、同千住大橋:鳥取藩兵。
③森川追分宿場進駐:岡山藩兵、王子宿場進駐:福岡藩兵・芸州藩兵・津藩兵、戸田宿場進駐:岡山藩兵、川口宿場進駐:幕臣大久保氏の手勢。
④川越藩監視:福岡藩兵、忍藩監視:芸州藩兵、古河藩監視:佐賀藩兵。
黒門口には、①薩摩軍、②幕長戦争小倉口の戦いで長州軍奇兵隊・報国隊と互角以上の戦いを演じた熊本軍、③甲州柏尾・下野で歴戦の鳥取軍が投入される。
彰義隊の戦力
彰義隊本隊1~18番小隊(定員1小隊50、実際にはこれ以下)。その他の反新政府諸隊。遊撃隊(鳥羽伏見にも参加した剣士部隊)・幕府歩兵隊第8連隊・臥竜隊(幕府歩兵隊の残党)・菜葉隊(神奈川防衛の幕府歩兵隊)・水心隊(藩主らが率いる結城藩脱藩佐幕部隊)・神木隊(高田藩脱藩佐幕部隊)・卍隊(関宿藩脱藩佐幕部隊)・松石隊(明石藩脱藩佐幕部隊)・活気隊(小浜藩脱藩佐幕部隊)・高勝隊(高崎藩脱藩佐幕部隊)・純忠隊(その他の脱藩佐幕派による混成部隊)・他に砲兵隊。
13日、大総督府は作戦参加の諸藩兵に戦闘準備を布告、作戦図を配布。
14日、彰義隊討伐布告。外出を控えるよう、15日~3日間は河川の船の往来禁止と宿場人夫の使用を禁止(彰義隊の逃走防止)。また14日、徳川家に対し、翌日彰義隊討伐を実行するので、上野寛永寺の徳川家財宝を今日中に持ち出すよう連絡。勝は、戦争を回避すべく、山岡に託して寛永寺別当職覚王院義観に書状を送り上野山内から彰義隊を去らせるように懇願するが、断固徹底抗戦の姿勢を取る。但し、脱走者は多く、戦力は3千⇒1千に減少、元結城藩藩主(水心隊隊長)水野勝知、彰義隊の生みの親本多敏三郎も逃亡。
15日未明~3時、攻撃参加部隊が江戸城大下馬(二重橋)に集結、5~6時進軍開始、6時半~7時所定の部署に到着、7時~7時半攻撃開始。
黒門口の戦闘。薩摩・熊本・鳥取各藩兵は湯島天神経由で広小路に着。薩摩1番砲兵隊が、黒門から出て忍川に掛かる三枚橋に彰義隊が築いた簡易陣地を攻撃、簡単に破れ、残存兵は黒門内に逃げ込む。薩摩城下士小銃1番隊・同3番半隊がこれを追撃、広小路を北上し黒門を攻撃し、遊撃隊1番隊・兵具隊1番隊もこれに続く。広小路に薩摩軍が殺到し、熊本・鳥取軍の展開余裕がなくなり、両軍は広小路を横断し御徒町通りに移動、これを北上し、黒門口を側面から銃撃。彰義隊は上野山内の山王台(現在西郷像が在る辺り)に砲台を築き(7門)、ここから黒門攻撃の新政府軍を砲撃、広小路・御徒町通りから黒門進軍の新政府軍は、この山王台からの砲撃と黒門内からの銃撃(幕府歩兵隊)に阻まれ、黒門に迫れない状況。
一方の彰義隊も黒門口の新政府軍に対して、広小路・御徒町周辺の民家を放火して新政府軍の攻撃を遮ろうと試みるが、前日の雨の為思うように火が広がらず彰義隊の思惑は頓挫。
天王寺・谷中門口の戦闘開始
長州・佐賀・大村・佐土原・岡山・尾張各藩兵は団子坂を進軍、天王寺・谷中門口を攻撃。団子坂通り~天王寺~谷中門までには無数の寺院が在り、彰義隊はこれらの寺院の影から銃撃を行い、進軍する新政府軍を悩ませ、戦いは寺院を1つづつ占拠して前進する市街戦の様相を呈する。更に、大雨のため小川が増水・氾濫し、新政府軍の攻撃は遅々として進まず。長州軍はこの戦いに新鋭銃スナイドル銃(ゲベール・ミニェー・エンフィールドとは異なり、銃身後方から銃弾を装填出来、装填時間が短く連続発射が容易)が配布されるが、訓練が不充分で戦闘中に一旦後退してスナイドル銃の訓練を行うという失態を演じる。しかし、佐賀軍小銃隊がスペンサー銃(長州軍のスナイドル銃を超える性能の後装銃、ボルトアクションにより最大7発連続発射が可能、長岡藩のガトリング砲についで弾幕を張る事が出来る軍勢)で装備され、この猛射撃により長州軍が戻るまで持ちこたえられる。長州軍が戻ってからは、再び前進を再開。長州軍は戦線復帰するものの、今度は弾薬補充の為後退し津藩兵が戦線に参加。また佐土原藩兵も弾薬不足に陥り、福岡藩兵と交代。
黒門口突破と天王寺陥落
黒門口と天王寺・谷中門口とも戦線は膠着するが、佐賀藩砲兵隊の最新鋭アームストロング砲が、徐々に弾着点を修正し、正午頃、山内に弾着させ、その後は次々に山内の吉祥閣・中堂を炎上させる。この砲撃により、山内は動揺、彰義隊兵士の脱走が相次ぎ、応援諸隊の松石隊は隊長自ら命令して隊単位で脱走する始末。また、義観は輪王寺宮を伴い、彰義隊兵士を見捨てて逃走。彰義隊脱走者は、大村が意図して包囲網を開けておいた根岸方面に逃走。山内が混乱し始めた頃、主攻撃部隊の河田率いる鳥取軍が黒門の突破を試みる。鳥取軍は山王台からの砲撃に苦しむが、鳥取軍兵士がとある商家の2階に登ると山王台の様子が手に取るように見え、鳥取軍はこの商家より山王台に銃撃を開始。彰義隊の砲手達は次々に被弾し、山王台の砲撃力は弱まり、これを機に御徒町通りの薩摩軍遊撃隊1番隊(小倉壮九郎)・熊本軍和田権五朗隊と堀十左衛門隊・鳥取藩所属山国隊が、決死隊として山王台脇の崖を攀じ登り山王台突入を試み、山国隊が一番乗りで山王台に乗り込み、その後激戦の末に山王台を占拠。次に広小路の薩摩軍城下士小銃隊3番隊隊長篠原国幹は、西郷の突撃許可を得て、城下士小銃隊1番隊(鈴木武五郎)と共に黒門に突撃、これを突破。これに続き薩摩軍兵具隊1番隊(川路利良)・熊本軍も黒門から山内に突入。また別の軍勢が不忍池の方に回り、佐賀藩砲兵隊の弾道の下を潜り穴稲荷門を突破。一方、弾薬補給の為退いていた長州軍・佐土原軍が戦線復帰し、更に王子宿場から残りの津藩兵全兵が駆けつけ、佐賀・長州・大村・佐土原・岡山・尾張・福岡・津の全軍が寺院を1つづつ攻め落とし、上野寛永寺最大の支城の天王寺に攻め寄せ、これを落とし境内を放火。
上野陥落
天野は、黒門・天王寺陥落を知り小川斜三郎率いる幕府歩兵隊1小隊を率い黒門に駆けつけるが、薩摩軍を前に小川以下幕府歩兵隊は全員が逃走。この時、元幕府大目付大久保忠宜が「東照大権現」の旗を掲げ手勢を率い薩摩軍に突進するが、薩摩軍の銃撃により戦死、手勢は逃走。黒門突破後、彰義隊兵士の逃走が相次ぐなか、天野や首脳部は、未だ戦う彰義隊兵士に脱出命令も出さずに逃走。薩摩・熊本・鳥取各藩兵は、上野寛永寺境内各寺院に次々と放火、上野山内は火の海と化し、本道である御本坊も焼失、上野寛永寺は陥落。以降は掃討戦となるが、掃討戦も夕方には終わる。
彰義隊の多くは大村が意図的に包囲網を開けいた根岸方面に逃走するが、脱出後は、各宿場に配置された新政府軍に束縛・捕殺される。
翌16日、大村益次郎は彰義隊残党掃討作戦を発令。
敗残兵狩りの配置。広小路周辺:薩摩藩・熊本藩・鳥取藩、本郷・駒込・根津周辺:長州藩・佐賀藩・佐土原藩・大村藩・岡山藩、道灌山・谷中・王子周辺:芸州藩・津藩・久留米藩、浅草・蔵前周辺:福岡藩・尾張藩。また、河田率いる鳥取軍に上野山内警備を命じる。他にも芸州藩兵を甲州街道に進発させ彰義隊残党の甲州行き阻止を図る。この様な綿密な包囲網に、この日多くの彰義隊残党が捕縛される。
天野は江戸に潜伏して再起を計るが、警戒兵に捕らわれ獄中で病没。義観は奥羽に逃げ延びるが、奥羽越列藩同盟敗北後捕縛され獄中で憤死。一方、大村は勝海舟宅への家宅捜索という形で勝に警告を送り、以降勝は新政府軍に恭順。
・奥羽鎮撫総督九条の上洛問題で仙台藩にて列藩会議。結局、九条・前山に騙されて九条の転陣が決まる。18日、九条は仙台より盛岡に向う。7月1日、秋田城下で沢副総督と合流、同盟を離脱した秋田を政府軍の根拠地にして同盟軍と対決。前山清一郎の政治的外交手腕の勝利。
・米沢藩色部長門の本隊、越後入国。この日、国境近く下関村の米沢藩御用達商人渡辺三左衛門の屋敷(北越戦争で米沢軍中継基地となる)宿泊。横浜で購入したミニェー銃2千・スペンサー銃(元込7連発)250挺・その外弾薬雷管等を受け取る(「米沢甘粕備後日記」)。
色部は、17日、新潟の旧幕府奉行所からの治安維持軍派遣要請に応え3小隊(柿崎家教隊・芦名但馬隊・苅野鉄之助隊)を新潟に送る。また、同盟軍が結集しつつある加茂には4小隊(香坂与三郎隊・岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)を送り、4小隊(斉藤篤信隊・香坂勘解由隊・芋川大膳隊・朝岡俊次隊)は色部と共に会津領水原に留まる。

つづく


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