2020年7月20日月曜日

慶応4年/明治元年記(22) 慶応4年(1868)閏4月12日~19日 仙台藩に実質的戦闘命令(「三藩(薩長筑)の者ども悪逆無道に付き、、、」) 奥羽鎮撫軍参謀世良修蔵(34)、仙台藩士により殺害  

慶応4年/明治元年記(21) 慶応4年(1868)閏4月1日~11日 大村益次郎(軍務事務局判事)、江戸着、彰義隊討伐作戦作成 江藤新平、新政府「徴士」に採用 小栗上野介忠順(42)、捕われ斬首 白石列藩会議(14藩33名 会津藩寛典処分嘆願書提出→却下される)
より続く

慶応4年(1868)
閏4月12日
・宇都宮~日光口から、桑名藩主戦派立見鑑三郎、北関東でゲリラ活動。陸路柏崎着。/4/8.藩主ら、着。
閏4月14日
・政府軍大総督、薩・長・加賀・長府報国隊・富山・越後の村上・新発田・村松・三根山・与板・黒川・清崎の各藩に会津攻撃を命令。
・仙台・米沢藩重臣、歎願書が九条総督から却下となった場合、会津征討諸口を解兵し、朝廷へ歎願することを決める。
17日、九条総督を仙台に移し、世良参謀更迭を懇願すると決める。
19日、沢副総督と大山参謀を引き離すべく、米沢藩士が新庄表に赴く。
・桑名藩新軍制。
軍事奉行山脇十左衛門・小寺新吾左衛門。一番隊「雷神隊」隊長立見鑑三郎、副隊長富永太兵衛、銃士68名。二番隊「致人隊」隊長松浦秀人、副隊長馬場三九郎、銃士66名。三番隊「神風隊」隊長町田老之丞、副隊長大平九左衛門、銃士(狙撃隊)一番半隊27名、二番半隊28名。大砲隊:第一~第四砲軍等約45名。 
閏4月15日
・会津藩家老梶原平馬(26)、仙台藩士横田官平から歎願書提出を知り、米沢藩士千坂太郎左衛門と七ヶ宿で会談。この日、仙台藩老坂英力は、梶原平馬に書簡を送り、新政府軍の白河城侵攻を警告、藩兵退去を進言。
閏4月16日
・仙台藩に実質的戦闘命令。「三藩(薩長筑)の者ども悪逆無道に付き、このたび御討伐相成れ候間、少人数は横道に引き入れ人知れず討ち取り、大人数は銃隊にて討ち取り、・・・」。
・越後の桑名軍、兵約60を最前線の鯨波青海川に派遣。藩主松平定敬は護衛兵約60と共に後方の桑名領地加茂に移動。
閏4月17日
・鯨波青海川に旧幕軍衝鋒隊200・浮撃隊約100が来援。本道鯨波方面、桑名隊・支道北条方面衝鋒隊・遊軍柏崎浮撃隊が布陣。さらに桑名軍本隊も到着。嫁入坂に雷神隊、致人隊は鬼穴の上、向山には神風隊が布陣。
・九条総督、新庄在陣の沢副総督と福島にいる醍醐・世良両参謀などに意見を求め、会津藩歎願書を拒否し即刻討ち入りを命令。                  
・浦上キリシタン信徒4010人、逮捕。34藩預とする旨通達。
閏4月18日
・米沢藩士宮島誠一郎、米沢に戻り、広沢真臣の言葉を千坂太郎左衛門に報告。千坂は戦争回避の可能性を認め、翌日19日、宮島を白石に派遣するが、宮島の報告は一顧だにされず。
閏4月19日
・土佐・彦根藩兵、会津軍と交戦。今市北方。官軍敗北。
・天童藩重臣会議。奥羽鎮撫使先導役中老吉田大八(37)処分、先導役辞任。奥羽列藩同盟に参加してゆく。大八は身を隠すが庄内藩に狙われ懸賞金100両が掛けられる。29日山形藩に自首。6月17日天童藩に引渡し、切腹命令。19日切腹。
・秋田・庄内藩、戦闘、死者なし。
・仙台・米沢藩主、会津征討攻口の解兵を九条総督に届ける。
・奥羽鎮撫軍参謀世良修蔵(34)、二本松を経て松川本陣にで参謀醍醐少将と密議。午後福島北町の旅館金沢屋にて新庄にいるはずの大山参謀に手紙。「奥羽皆敵とみて」。仙台藩士はこの手紙を入手。20日午前2時、寝込みを襲われ、処刑。
世良は、仙台藩や他の奥羽諸藩兵を用いての会津討伐は不可能と判断し、奥羽鎮撫総督府を白河城に後退させ、ここで新政府軍の援軍を待ち、会津・庄内両藩を討伐する作戦を立案、秋田に向った大山宛の相談の手紙を福島藩士に託す。この手紙は福島藩から仙台藩に渡り、文中「奥羽諸藩はもはや皆敵」と書かれているのを見て仙台藩士は激昂、翌20日未明、仙台藩家老但木土佐の許可を得ていた瀬上主膳・姉歯武之進率いる20余が、福島城城下町の金沢屋2階で就寝中の世良を急襲。世良は2階から庭に飛び降りた際に置石に頭部を強打し意識不明の重傷となる。瀬上らは、意識不明の世良を阿武隈川河原に引き連れ処刑。後、世良殺害を許可した家老但木・世良捕縛責任者の瀬上は新政府の命を受けた仙台藩によって斬刑、姉歯は第3次白河城攻防戦で戦死。
・北陸道鎮撫総督兼会津征討総督府(総督高倉卿)、高田に到着。参謀黒田清隆・山県有朋、軍監岩村精一郎、北越鎮撫の会談。高田に集結した政府軍7藩約6千。二手に分けて進軍開始。山道軍(薩・長・尾張・飯田・飯田・松代・高田の諸藩兵による長岡攻撃軍)。海道軍(富山・加賀・薩・長・高田各藩兵による新潟攻略軍)。
北陸道軍(北陸道先鋒総督府軍、後に会津征討越後口総督府軍に再編成)は、参謀長州藩山県有朋(狂介)・薩摩藩黒田清隆(了介)の指揮の元、薩摩軍4中隊相当(城下士小銃隊10番隊・2番遊撃隊・外城3、4番隊)、長州軍6小隊(奇兵隊1~6番隊)、長府藩4小隊(報国隊1~4番隊)等を主力として京を出撃、北進。加賀藩を降し、その兵力を傘下に加え越後に侵攻、高田藩を降す。高田で、本来は東山道軍(東山道先鋒総督府軍)所属の軍監岩村高俊率いる尾張藩8小隊・大垣藩3小隊・松代藩12小隊及び大砲隊・松本藩7小隊・高遠藩2小隊・高島藩2小隊・飯山藩1小隊・飯田藩1小隊・上田藩2小隊・竜岡藩1小隊の戦力を指揮下に入れ、兵力を二分、軍監三好重臣(軍太郎、長州)率いる海道軍と軍監岩村高俊率いる山道軍に分かれ進軍、会津軍・桑名軍・衝鋒隊等を駆逐し、長岡城で合流する作戦。
・白河城守備の仙台藩兵、撤退。残る守備隊は二本松・棚倉・三春等の藩兵約200余。20日、第1次白河城攻防戦。【白河城確保】歎願拒絶により、会津藩田中左内率いる会津兵と旧幕軍約300、白河城占拠。新撰組参戦。5月1日、奪回。
白河藩主阿部正静、この年正月、飛び領を加えて10万石で棚倉に転封となり、白河城は領主不在・幕領として二本松藩主丹羽氏が警備。奥羽列藩同盟を進める状況下で白河城を守る諸藩兵には戦意なし。

つづく



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