2020年7月26日日曜日

慶応4年/明治元年記(25) 慶応4年(1868)5月2日~12日 小千谷・慈眼寺会談決裂 奥羽越列藩同盟成立 第2次今市戦争(大鳥隊敗北) 同盟軍、妙見山占領 

慶応4年/明治元年記(24) 慶応4年(1868)5月1日 白河口の激戦(同盟軍2,600が政府軍700に大敗、白河城奪還) 大総督府、江戸市中取締まりを彰義隊→政府軍と布告(事実上の宣戦布告) 箱館の引渡し完了
より続く

慶応4年(1868)
5月2日
・小千谷・慈眼寺会談決裂。長岡藩主席家老河井継之助(42)・岩村精一郎(23、東山道先鋒総督府軍軍監)。
嘆願書提出。長岡藩の苦しい立場と献金・出兵の無き事を弁明。藩論を統一し、会津・桑名・米沢等を説得の時間を欲しい旨を懇願。長岡藩の中立の立場等も説き、倒幕・会津征討の理由、真の官軍ならば恭順してもよいとも発言。河井の懇願空しく岩村精一郎はこれを拒絶、席を立つ。岩村の袴の裾をとって再度の懇願をしたといわれる。
5月3日
・河井継之助、会談前に兵を引かせた妙見高地奪回を決意、摂田屋の長岡軍本営光福寺に諸隊長を集め、会談決裂伝え開戦決意を表明。
4日、奥羽列藩同盟入り表明。長岡周辺で新政府軍と交戦中の会津軍・衝鋒隊・桑名軍を領内に迎え入れ戦力を増強。
・政府軍、小千谷から一部の軍を進発させ、長岡城下南3里の三国街道要地榎峠を占領。長岡を取り巻く本格的な戦闘開始寸前。
・奥羽列藩同盟成立。
仙台藩起草の盟約書、米沢藩の意見により改訂。米沢主導で30藩となる。4日、長岡藩。6日、北越6藩(長岡に加え、新発田、村上、村松、三根山、黒川)加盟。
5月4日
・ロッシュが横浜を出発し帰国の途につく
5月6日
・東久世通禧神奈川裁判所総督、江戸運上所において幕府から11ヶ国条約書を受領。
・奥羽越列藩同盟。
奥羽列藩同盟に北越6藩(長岡、新発田、村上、村松、三日市、黒川)が加わる。
「今度、奥羽列藩仙台に於て会議し、鎮撫総督に告げ、盟約を以て公平正大の道を執り、同心協力、上王室を尊び、下人民を憮恤し、皇国を維持し、而して宸襟を安んぜんとす。仍て条例左の如し。 一、天下の大義を伸べるを以て目的と為し、小節細行に拘泥すべからざる事。 一、海を渉る同舟の如く、信を以て居し義を以て動くべき事。 一、若し、不慮危急の事あらば、比隣の各藩、速やかに援救し、総督府に報告すべきの事。 一、強きを負み弱きを凌ぐ勿れ、私に利を営む勿れ、機事を泄す勿れ、同盟を離する勿れ。 一、城堡を築造し、糧食を運搬する、止むを得ずと雖も、漫りに百姓をして労役し、愁苦に勝えざらしむる勿れ。 一、大事件は列藩集議、公平の旨に帰すべし。細緻は則ちその宜しきに随ふべ き事。 一、他国に通諜し、或ひは隣境に出兵す、皆同盟に報ずべき事。 一、無辜を殺戮する勿れ、金穀を掠奪する勿れ、凡そ、事不義に渉らば、厳刑を加ふべき事。 右条々、違背あるに於ては、則ち列藩集議し厳譴を加ふべき者なり」(「維新史」)。
・第2次今市戦争。大鳥隊800、土佐藩兵400、大鳥隊敗北。靖兵隊矢田賢之助戦死。幕会軍、藤原に防衛陣地を構築、日光口からの政府軍侵入を防ぐ作戦に切り替え。18日、肥前藩兵が今市守備。土佐藩兵、宇都宮へ移動。
・越後赤田北方の戦い。政府軍大兵と互角の戦いで戦線は膠着状態。桑名藩の致人・神風隊、誤報により妙法寺に引き上げ、立見率いる雷神隊もやむおえず引き上げ。翌7日、会津藩よりの急使により、長岡へ転戦。
(政府軍兵力)薩摩10番隊・2番遊撃隊・2番砲隊・・約740、長州1~6番奇兵隊560、加賀藩兵1500、松代藩兵500、富山藩兵440、高田藩兵380、尾張・松本・高遠・飯田・上田の諸藩兵を合わせ5千(主力は薩摩・長州の1300余、中でも長州奇兵隊は歴戦の兵・屈指の精強部隊)。
(同盟軍兵力)越後口総督一瀬要人率いる会津藩兵約1千、古屋作左衛門の旧幕府衝鋒隊約500、桑名諸隊200、長岡藩兵3個大隊約1500、後に米沢藩1大隊約600、庄内藩4小隊約250、仙台藩1大隊約500。
5月9日
・光福寺で長岡藩家老河井継之助主導の軍議。妙見高地奪回作戦の計画を話し合い、出撃。10日払暁、妙見高地の榎峠を守る新政府軍に対し攻撃開始。
会津藩:越後口総督一瀬要人、水原奉行萱野右兵衛、朱雀隊佐川官兵衛・伴百悦、その他川瀬重次郎・中沢志津馬・井深宅右衛門。長岡藩:軍事総督河井継之助、軍事奉行川島億太郎・花輪求馬・安田多膳。桑名藩軍事総宰服部半蔵、軍事奉行山脇十左衛門・岩崎五太夫・町田老之丞・立見鑑三郎・馬場三九郎。衝鋒隊隊長古屋佐久左衛門、軍監松田昌次郎。浮撃隊隊長木村大作。
・奥羽鎮撫沢副総督、新庄より秋田着。同盟派の秋田は沢らの滞在を喜ばず、沢らは16日、大館まで進む。津軽藩は政府軍の入国を拒否し、沢らは暫く大館に留まる。
・大坂で銀目廃止が行われる
5月10日
・エドワード・スネルがチャーターした武器輸送船「カガノカミ」号、米沢領粟島に到着。旧式ミニエー銃2千、7連発銃は僅か200。13日、兵600で越後へ出兵。総督色部長門・参謀甘粕継成・大隊頭大井田修平。
・榎峠攻防戦。長岡・小千谷間の榎峠、同盟軍と新政府軍の戦い開始。同盟軍、妙見山を占領。
榎峠守備の新政府軍は尾張藩1小隊(津田九朗次郎)・上田藩1小隊のみ(新政府軍は援軍を送ろうとするが大雨による信濃川増水のため、対岸小千谷から援軍を送れない状況)。同盟軍河井は軍を三分、①主攻撃の軍事掛萩原要人率いる山本大隊所属3小隊(斉田轍隊・本富寛之丞隊・渡辺進隊)200・砲2門と佐川官兵衛率いる会津軍朱雀士中4番隊200を妙見本道から榎峠正面に向わせ、②助攻撃の軍事掛川島憶二郎率いる残りの山本大隊所属4小隊200(大川市左衛門隊・波多謹之丞隊・田中小文治隊・牧野八左衛門隊)を妙見山道から側面攻撃の為迂回させ、③会津軍鎮将隊200(官野右兵衛)・桑名軍浮撃隊50(木村大作)・神風隊(40町田老之丞)・衝鋒隊(古屋佐久左衛門)は大きく迂回させ妙見裏道から榎峠背後の朝日山方面に向わせる。
榎峠攻防戦。10日払暁、正面部隊は攻撃開始、狭い峠道では大兵力を展開出来ず、序盤は新政府軍有利で進む。しかし、助攻撃の迂回部隊長岡軍3小隊・砲兵隊が榎峠東の石坂山に辿りつき、山頂から銃撃・砲撃を開始すると、尾張・上田藩兵は浮き足立ち、その後会津・桑名・衝鋒隊の別働隊が榎峠南方の朝日山を占拠した事により、尾張・上田藩兵は半包囲状態に追い込まれ榎木峠から敗走。小千谷の新政府軍司令部では、山県有朋が同盟軍の銃撃音を聞いて急いで駈けつけ、軍監岩村を退け、自らこの方面の指揮を取り、ようやく反撃開始。しかし、夕方、援軍の薩摩軍・長州軍(奇兵隊・報国隊)・松代軍・尾張藩兵等が信濃川を渡河した頃には、榎峠・朝日山とも同盟軍が完全に占拠し、山県は一旦兵を退かせる。
会津佐川官兵衛と桑名山脇十左衛門の協議により朝日山を拠点にして攻撃する作戦を敢行、立見率いる雷神隊が朝日山占拠、陣地構築。
5月11日
・小浜藩兵、小浜に凱旋。2月、越後高田~信濃入り、4月、江戸着。5月、越後出兵、品川から海路越後今町港(上越市)に赴くがまもなく帰藩を許される。
5月12日
・北陸道軍軍監(長州藩)三好重臣(軍太郎)率いる海道軍、出雲崎等に篭る桑名軍・会津軍・水戸脱走軍等の同盟軍を駆逐しながら前進、この日、長岡西方5km弱にある長岡平野を見下ろす丘陵地帯の関原を制圧。
関原を本営とした三好は小千谷の山県と連絡を取り、同盟軍主力が妙見高地に居る隙を狙い、19日に海道軍が一気に信濃川を渡河して長岡城を攻撃する作戦を立てる。
・マルクス(50)提案、総務委員会、フランス・ベルギー政府の国際労働者協会への迫害に抗議する決議。

つづく

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