より続く
大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近
㉘小泉ふく「外国人が多く住んでいた地区の方から夜中に銃声」
〔横浜の山の上の畑地に避難した一日〕深夜、どこから持ってきたのか、父親は日本刀を持ち歩いていた。小泉さんは母親から短刀を渡され、言われるままに手にした。歩き回っている大人の男たちは、みな日本刀を持っていた。「異人館」が並び、外国人が多く住んでいた地区の方から夜中に銃声が何発か聞えたが、「うちには刀があって良かった」とホッとした。
明け方になって突然、一人の男が刀を抜いて大声でどなり始めた。「日本はだめになった。あとはおれたちが面倒を見るから、みな言うことを聞け。」周りの男たちはみな抜刀していた。
下から一人の男が上ってきた。刀を抜いた男と「通してくれ」「いや通さない」と言い争っている。刀を持った男がいきなり切りつけ、歩いてきた男のほおから血が飛び散った。
小泉さんは「あのときは何が起きるか分からず怖かった。だれかに襲われるのではないかと、みながおびえていた」と振り返る。
被災者の神経は、見知らぬものに対して異常なまでに敏感になっていた。
(「20世紀にっぽん人の記憶」読売新聞社、二〇〇〇年)
㉙金珠鎬(当時二〇歳)虐殺を免れた朝鮮人が一九八三年に韓国で証言
中学の夏休みを利用して、横浜の叔父母のもとへ行っていて震災に遭った。住所は横浜市石川町4-69番地。階段があり、ぐるりと山に囲まれたところだった。隣に亀の橋百貨店があり、崩壊していた上を這い上がって逃げた。叔母らと根岸町の競馬場に向かったが、地震から1時間とたたないうちに起きた火災のために叔母らとはぐれ、5才の女の子を連れて根岸町に逃げた。叔母とその娘は、火災を避けて竹林に逃れて夜を明かした。
翌2日、石川町の家に行ってみると全焼していた。また根岸町に戻る途中で叔母に会ったのが正午頃。午後3〜4時頃になると、根岸町付近の米屋に押し入って人々が米を盗んでいく。その主人が止めようとすると、その場で殺してしまった。それを見て、既に人間の心が殺気立ち、本当の自分の心でなくなっていることに気づいた。その夜を根岸町の競馬場側の倒れかけた家で過ごした。保土ヶ谷町の富士紡績会社の朝鮮人4、5人、他にも4、5人が合流して、その場を離れないことに決めた。
震災の翌日から、「朝鮮人は皆やっつけろ」という話が聞こえてきた。これは大変だと思った。女の人であれ、青年たちであれ竹槍・棍棒を持ち出して・・・そこは山で草むらがあったのだが・・・そこに潜んでいた朝鮮人を発見し(朝鮮服を着て板からすぐ発見された)容赦なくたたき殺す。朝鮮人は日本語を知らないから、助けてくれと言えない。止めようとすれば、こちらがやられる。もう皆正気ではないから。
そこに来た人が言うには「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「金庫を探るのは、みな朝鮮人だ」根岸町の人たちがそう吹聴するものだから、多の人も皆やって来て「そんな悪いことをするな」と言って・・・。
自分の身を隠す暇もないのに、そんなことできるはずがない。自分たちが悪いことして、みんな朝鮮人に転稼したんだ。一人二人でなく十何人ぐらい引っ張って行くのを見た。「鉄橋の柱に縛りつけて、日本刀で刺した」と、見た人が後で自分たちに語ってくれた。
それからはもう一人でもその場で発見するとワーツと棍棒を持ち出してやっつけた。それを見て自分たちは「石川町4の69に長く住んでいる者だから保護してくれ」と町の人に頼んだ。そのうちの一人が、腕章をつけろとよこした。赤い無地の布だった。
海軍相手に商売している叔父が大洋丸で呉から戻り、軍の証明書をもらって根岸町にやって来た。大洋丸に乗って静岡の清水港まで行った。大洋丸には避難民が多かった。清水港に着くと江尻駅に向かった。そこに避難民の収容所があり、50~60人いた。学生も多かった。
江尻警察署では「学生たちを朝鮮に行かせると何をするか分からないから、なるべくここで安心させて就職でもさせよう」と言ってきた。何時間かねばったあげく、自分たちは列車に乗ることができた。大阪で乗り換え下関に行った。〔・・・〕
船に乗るときも交渉をして、結局乗ることができた。釜山に9月17日に着いた。翌18日、故郷の平壌に帰った。平壌に帰ってから、総督府警務局長の丸山鶴吉が「関東大震災を機に、朝鮮人が悪いことをしているから厳重に取り締まれ」と指示を出したと聞いた。
自分が見たり聞いたりした範囲では、50~60人が殺されている。慶尚南道、済州島の人が多く、全部労働者で朝鮮服のままの人が多かった。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「渡韓報告」版元?一九八三年)
(3)本牧町、根岸加曽海岸方面
②小野房子(本牧在住)「もの言っても返事しない者は鮮人と見なし殺してもよいとの達しがあった」
九月二日
夜に入りて土地の青年団のもの「鮮人が三百人ほど火つけに本牧へやって来たそうだからもの言って返事しないものは鮮人とみなし殺してもよいとの達しがあった、皆んな注意しろ」と叫びふれて来るあり。
漸く命拾ひしとおもふまもなく、また火つけさわぎとはと涙さへ出ず。
またつづきてどなり声きこゆ「屈強の男はあつまれ、鮮人3名この避難地へまぎれ込んだからさがすんだ」〔・・・〕すぐ側にわっとさけぶ声す。大勢のたくましき漁夫は手に手に竹槍いづこにて見つけしか長刀などひっさげ何やらかこみて 「そんなやつ殺せ」「ころすな他にまだ二人仲間があるから証人にしろ」などめいめい勝手なことをわめき居れり。遂に我等の前までおいつめ来り一度其の時、「許して下さい。私は鮮人じゃありません」 と泣き声きこゆ。
如何にしてのかれしか海水の方へにげ出しぬ。気のあらき漁師たちは「そら逃げた、やっつけろ」と、とびの如きものにてひっかけその男は半死半生にていづこかに引かれて行きたり。 (「横浜地方裁判所震災略記」所収「震災日記」)
(3)本牧町、根岸加曽海岸方面
⑥フェリス女学院本科六年「鮮人襲来により男子はみな棒又は刀を携帯すべし」
〔一日本牧〕その中に「鮮人襲来により男子はみな棒又は刀を携帯すべし」といふふれがあった。私は胸がドキドキしてやまなかった。〔・・・〕
〔二日〕その中に私共の避難している原に鮮人の事で風聞がとても高かった。今誰々が北方の方へ用事があって行った所が、鷺山で鮮人があばれておっかけられてこっちの方向へ来たと、向うでは大騒ぎだと言った。又鮮人が舟に乗って来て本牧海岸をおそうの、今どこそこで何人殺されたの、又彼等は石油を持っており、家屋や荷物に火をつけるの、井に毒薬をいれるのと騒ぎだした。〔・・・〕5年の中島さんに会った。「秋ちゃん、海嘯〔津波〕が来るんですって。海の水がずいぶんましたんですって。どこへ逃げましょう」と鳴きそうな声をして叫んだ。私はその時、ただ神様の御心のままにと思った。〔・・・〕海嘯は来なかった。しかし鮮人の事を考え、いてもたってもいられなかった。〔・・・〕原にいた人は鮮人を防ぐために見まわりに歩きはじめた。昨日に変る今日はなんてみじめな生活であろう。時々、山の方で「それいたあー、それいたあー」と大声で叫んだ。そして捕えるために人を呼び集めるのに口笛を吹いた。その度に身は冷え水を頭から降りかけられるような気がした。
⑦フェリス女学院本科六年「山の方からは兵隊さん達の山狩りの鉄砲の音が聞こえ出した」
〔二日夜本牧で〕今まで鮮人のおそろしい噂を聞いて居りましたので、わからない先の事ばかりが目に見えて来て仕方がありませんでした。併しその時兵士の一隊が小港から上陸といぶ知らせが遠くから聞こえて来ました時には、急に暗に燈火を得たかの様に嬉しく、誰始めるとなくおもはず一声に万歳といふ声が起こりました。その内に兵士達が並んで進軍ラッパに合あせてこちらへだんだん近づいて来るのか見えました。〔・・・〕山の方からは兵隊さん達の山狩の鉄砲の音がきこえ出し、又「提灯を消せ・・・」又「提灯をつけろ・・・」といふ、警護してる一組から一組へ次から次へと、どなって知らせる声が、こだまにかえす様にすごくきこえました。そして今に鮮人が来るか来るかとおそろしい夜を母に抱きついて過ごしました
つづく
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