2020年7月15日水曜日

慶応4年/明治元年記(18) 慶応4年(1868)4月12日~15日 大鳥圭介率いる旧幕府軍、日光へ向かう(前軍に土方歳三) 奥羽鎮撫軍の一部、庄内征討のため新庄へ 徳川慶喜、水戸で謹慎生活に入る   

慶応4年/明治元年記(17) 慶応4年(1868)4月3日~11日 近藤勇捕縛 会津・庄内同盟成立 江戸城無血開城 榎本艦隊は脱走 土方歳三、島田魁らと脱走
より続く

慶応4年(1868)
4月12日
・川路聖謨、ピストル自殺。
・江戸脱走の旧幕兵(伝習隊等)、鴻ノ台に集結、市川で軍議。
総督は元歩兵奉行大鳥圭介。前・中・後3軍に編成、前軍は秋月登之助(会津)・土方歳三が引率、常州を北上し、街道沿い小藩から物資を徴発しつつ日光目指して進軍。中後軍は大鳥が率い、野州への北上を開始。大鳥は無用な戦闘を避ける為あえて日光街道の行軍はせず、間道を進軍して北上を目指す。
11日夜、旧幕陸軍伝習第1大隊(約700)・同第2大隊(約600)らが屯所を脱走、国府台(千葉県市川市)で歩兵奉行大鳥圭介の下に2千ほどが結集。伝習隊以外には、旧幕第7連隊の一部、伊勢桑名藩士の1隊、流山で局長近藤勇を失った土方歳三以下の新撰組残党など。
以後、大鳥を総督として、宇都宮(栃木県宇都宮市)、日光の入り口の今市(栃木県今市市)、会津若松城下などを転戦、9月に小田付村(福島県喜多方市小田付)で古屋佐久左衛門率いる衝鉾隊と合流、その後旧幕府脱走軍艦隊松島湾に入るの報を得て仙台に向かう。衝鉾隊は、伝習隊脱走以前(2月7日)に脱走した第5、7、8、11、12連隊の兵士を、歩兵差図役古屋佐久左衛門が信越方面の鎮撫を目指して統率していた1隊。その外には、講武所の剣客で編成した(慶応2年10月23日編成)将軍親衛隊の遊撃隊からも、脱走艦隊のもとへ集まる。遊撃隊は、慶喜が上野で謹慎中は護衛の任に就いているが、将軍が水戸に向かうと、その一部が人見勝太郎・伊庭八郎らに率いられて脱走、箱根の関所の占拠を策したが破れ、伊豆熱海から奥州小名浜(福島県いわき市小名浜)へ走り、相馬の中村藩(福島県相馬市)に滞在。その後、脱走軍艦隊が松島湾に入ったことを知り艦隊のもとへ集る。
①前軍:第1伝習隊隊長秋月登之助(会津藩)、新撰組副長土方歳三、参謀辰見(立見)鑑三郎(桑名藩)・井上誠之進(会津藩)、計約1千・大砲2門。
②中軍:幕府歩兵隊伝習隊第2大隊(大隊長本多幸七郎)、参謀浅田光蔵・柿沢勇記(会津藩)。
③後軍:第7連隊隊長米田敬次郎(幕臣)、歩兵指図役頭山瀬主馬、天野電四郎(幕臣)、参謀国枝太郎(桑名藩)。別伝習隊隊長工藤衛守(会津藩約60・砲1門)、参謀松井九郎・鞍平次郎(桑名藩)。遊軍:回天隊隊長相馬左金吾(約100)。中・後軍約1千。合計約2千。
・箱館裁判所(行政府)設置。総督嘉彰親王、副総督に清水谷公考・土井利恒。井上石見が赴任。閏4月26日に函館裁判所を函館府と改称
軍防事務局督仁和寺宮嘉彰親王は発令直後就任を固辞、軍防事務局督に復す。土井能登守利恒は北蝦夷地開拓に従事したことのある越前大野藩藩主で病気を理由に辞任を乞い閏4月24日認められる。辞令には「但 限三年」の但書があり、閏4月5日に清水谷が総督に昇任した辞令も同様。実務担当責任者として井上石見(箱館の実務責任者)・岡本監輔(カラフトの責任者)が徴士兼内国事務局権判事に任命され、箱館在勤を命ぜられる。14日、松前・秋田・津軽・南部4藩の京都留守居役を清水谷邸へ呼び出し、この日太政官から蝦夷地警衛と旧幕府箱館奉行所の金穀等の保全を命ずる達書が4藩へ対して出される旨を伝え、協力を要請。4藩と仙台藩(仙台藩は15日達)は、15日、足並みは不揃いながら、箱館裁判所設置の先触れ役に藩士を付き添わせることを承諾し、達書の趣を拝命する旨の「請書」を太政官へ提出。
17日、旧幕箱館奉行所諸役人に対し、旧幕の金穀・物産を警衛諸藩へ引継ぐことを命ずる達書が出される。同日、これ迄の開拓論議を纏めた「覚」7ヶ条、蝦夷地開拓基本方針が示さる。①蝦夷地開拓の事は箱館裁判所総督に委任する、②蝦夷の名称を改め地域を分けて国名をつける、③諸藩の開拓熟練者は新政府へ雇い上げ総督の管轄下とする、④蝦夷地の諸税は開拓入費に充てる、⑤開拓出願の諸藩へ土地を割渡する、⑥カラフトに最も近い宗谷付近に1府を立てる、⑦カラフトの開拓は蝦夷地開拓の目途がついてからとする。次いで、吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(のち基と改名)の3名が先触れ事前調整役として箱館へ派遣され、蝦夷地警衛を命ぜられた5藩藩士が1人ずつ付き従う。彼らは松前藩の周旋により、閏4月4日松前に上陸、7日箱館へ向い、10日杉浦兵庫頭に面会。
「裁判所」の名称は、新政府が旧幕直轄領を没収した際、その主要地に設置した地方行政機関の名称で、旧幕地方政務全般の引継ぎ継承を主任務とし、旧幕府の遠国奉行所と同義と認識されていたようである。慶応4年1月27日大坂裁判所設置始め、兵庫、長崎、大津、京都、横浜、箱館、新潟など12ヶ所に設置。閏4月21日の政体書により地方制度が全国統一的に把握されることになり、地方行政機関が府・県・藩の3官と整理され、順次府・県に改称されてゆく。
《3月末~4月中旬の箱館の状況》
3月20日、ロシア蒸気船で江戸へ派遣の荒木済三郎から、蝦夷地警衛諸藩へ箱館での所置を任せ江戸表へ帰るようにとの幕閣からの指令書(3月11日付)が届く(荒木が奉行杉浦兵庫頭の決意を無視し、蝦夷地の治安より幕吏の身の安全のみを考慮した副申を添えた為)。奉行杉浦兵庫頭は、3度目の上申書を江戸へ戻る橋本悌蔵(4月3日朝発)を託す。上申書には、朝命を受けた人々が派遣され、彼らに引渡しを完了するまで引上げる意志は無いと幕府現地責任者として最後まで任務を全うしようとする覚悟を披瀝。杉浦奉行は、3月3日には松前藩から、新政府の鎮撫使下向の情報(「公卿清水谷隆政なるもの長州人六七百人を護衛として蝦夷地箱館松前鎮撫使被命、二月二十八日頃兵庫出帆ニテ可相越ノ旨、京都二月二十二日付同家重役よりノ書状昨夜着ノ由」(「日次記」))を得ており、平穏引継には自信を持っている。松前の有力商人には江戸からの急飛脚(江戸発2月12日、松前着30日)が到着し「今度京都より御勅使御三方、清水谷様・高野様外御一任様へ、右付添として薩長土御三方御人数惣勢凡六百人程御下向」のため、旅宿の手配を指示されている。2月27日、京都において清水谷公考・高野保建連署の蝦夷地鎮撫の「建議書」が提出され、3月9日、太政官代で蝦夷地開拓可否が初めて諮詢される。松前藩は、この「建議書」が提出される前から、彼らの側近との接触し情報を入手した模様で、以後松前藩は、箱館奉行所から箱館裁判所への平穏引継に貢献する。
3月21日、杉浦奉行は市在に触書を出し、朝廷の命令次第で穏便に引き継ぎを行う予定であり、それ迄は迷惑や不安なきよう取り計らうので、安心して家業に励むようにと方針を示し民情安定に努める。また支配下諸役人へも同様に指示し、引き続き蝦夷地で任務に就きたい者は、仕事と共に人も引き継ぐこととなる思うと述べ、引継ぎ後の円滑な経営継続と下僚の活計への配慮を示す。更に、蝦夷地は外国の脅威に晒され易い地で、統治が不十分なままで万が一侵略を受けるようなことがあれば、これほどの大罪はないと述べ、蝦夷地経営の重要性を強調、その為にも人民を動揺させないよう市在安堵の取締りが肝要と指示。橋本悌蔵に託した杉浦奉行の上申書は、4月10日幕閣へ提出、14日「書面ノ通可心得」と承認される。杉浦は閏4月5日入港のプロシア国蒸気商船ロワ号がもたらした4月16日付御用状でこれを確認。
4月13日
・大鳥圭介率いる旧幕府軍、松戸を出発し日光へ向かう。
・新撰組、布施に宿す
・英国人医師ウィリアム・ウィリス、大総督府に乞われて横浜軍陣病院に勤務、上野東叡山の彰義隊の戦や、旧幕府系勢力の抗戦による負傷兵の救護に専念。
4月14日
・大総督宮、江戸城入城
・福田平馬、勝海舟に面談の上、近藤勇助命嘆願する
・奥羽鎮撫軍二分
沢副総督ら庄内征討のため仙台領岩沼から新庄へ。参謀大山綱良以下薩兵1小隊・桂太郎隊長の長州兵1中隊。天童藩重臣吉田大八が先導役。17日10時、山形城着、上ノ山藩まで行軍。18日、山形・上ノ山藩に庄内征討応援出兵命令。
・河井継之助、長岡城下中島で藩兵のフランス式大調練を実施。草履2千足の発注と戦備に努める。(河井は武備中立?)
・山内容堂、病のため京都を離れる。
4月15日
・仙台・米沢両藩、会津謝罪修正条件案を会津に提示。①開城、②削封、③3重臣の首。7~14日、仙台・米沢両藩は会津藩の謝罪条件・交渉の進め方について協議。
一方、仙台藩主伊達慶邦は鎮撫軍参謀世良修蔵に会津謝罪周旋したい旨告げる。世良は激怒し、容保斬首・嗣子若狭の監禁・開城(慶喜でさえ水戸謹慎)。
米沢藩、重臣会議で、会津藩の謝罪を奥羽鎮撫総督に周旋し、却下されれば「有志之列藩」と相談して「天下之公議」によって解決することなどを決定(「木滑要人(政愿)の日記」4月14日条)。
木滑要人:米沢藩中之間年寄、藩政に関与し、仙台藩・会津藩など諸藩との折衝を行う。会津藩謝罪嘆願を巡る関宿での会談や、それにつづく奥羽諸藩会議に、米沢藩代表の1人として参加。
・徳川慶喜、水戸に到着し弘道館の一室で謹慎生活に入る
・新選組、利根川を渡り水海道方面へ進む。

つづく

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