2020年7月12日日曜日

慶応4年/明治元年記(15) 慶応4年(1868)3月13日~22日 西郷隆盛・勝海舟会談(江戸城総攻撃は中止) 五箇条の誓文 河井継之助ら横浜出発 奥羽鎮撫総督九条道孝ら、仙台領東名浜に上陸 隠岐騒動 

慶応4年/明治元年記(14) 慶応4年(1868)3月7日~12日 水戸藩小石川藩邸で本圀寺党クーデタ(諸生派は北越戦争に参加) 松平定敬(桑名藩主)、越後柏崎へ向かう 西郷隆盛・山岡鉄太郎会談 会津藩の軍制改革(洋式) 奥羽鎮撫使、仙台に向かう 東海道軍先鋒、品川着 東山道本隊、板橋着
より続く

慶応4年(1868)
3月13日
・西郷隆盛・勝海舟会談。大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝海舟。13日は薩摩藩邸、14日は田町の橋本屋。
勝、9日に中岡鉄太郎に示された7条件を大幅に修正した対案を示す(江戸城無血開城、旧幕軍軍艦・兵器の引渡条件に慶喜の助命・水戸謹慎約束)。西郷は明日(15日)の江戸城総攻撃を中止、15日に駿府に戻り大総督と慶喜処分案を協議。更に、京都に戻り、3月20日、三職会議で協議、勝案をかなり取り入れた最終的な政府案決定。25日、再び駿府の大総督のもとで最終的に処分案を決定。
慶喜処分案は2月下旬に大久保が岩倉に提出した徳川処分案と同じ。
西郷の戦術:①反抗すれば直ちに軍事的に制圧できる体制を整える。②勝や大久保忠寛により徳川内部を処理させる。イギリス公使パークスが、恭順している者への攻撃に反対していること、関東一円の農民一揆、脱藩士・浮浪人の不穏な動きも反対材料。
・近藤勇ら48人、五兵衛新田の金子邸に入る。
3月14日
・東山道別動隊(板垣軍・甲府進軍)・山国隊、内藤新宿着。19日、市ヶ谷尾州藩邸に移る。
・五箇条の誓文(新政府の成立宣言)
明治天皇、紫宸殿において5ヶ条の誓文を神前に宣す。1月の鳥羽伏見の戦い後に由利公正が草稿、これに土佐藩士福岡孝弟が「列候会議を興シ、万機公論ニ決すべし」と公武合体論的訂正を行い、木戸孝允が最終案を作る。
正月11日、政府は諸侯に挙兵上京を命じ、2月末頃には相当数の諸侯が上京。彼等を余り長く滞京させるのは難しく、親征が実施された場合親征に供奉しない諸侯は帰国させねばならない。しかし、新王権樹立後初の諸侯入京なので、帰国前に諸侯・政府間に何らかの君臣の誓約が必要となる。この問題を打開する為、政府はかつて幕末に公議政体派が主張した諸侯会盟-簾前誓約という形式を採用し、公議政体派の主張とは別の意図をもって由利公正・福岡孝弟らが作製した案に若干の修正を加えて「五ヶ条の御誓文」を実施。これは、新王権・臣下間の君臣の誓約の形式で、在京中の堂上・諸侯・帰順を許された旧幕臣に「御誓文」についての誓約署名を行わせ、4月に帰国を許す際にも署名を必須の条件とした。
「御誓文」の内容は極めて抽象的で、政府もこれを「国是」と呼びながら、明治2年、版籍奉還実施の際の東京会同で、会同の目的を「国是の大基礎」を立てる為としながら、「御誓文」には何ら言及せず。とはいえ、「御誓文」への署名より、諸侯達は本領安堵を認められ事になり、政府は旧来の領有権確認手続きを回避する事ができた。
由利案は福井藩改革派の「公議論」路線を踏まえる。由利案第1条「庶民志を遂げ」が、誓文第3条では「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ」となり、「庶民」の捉え方が異なる。由利案第2条「士民心を一にし」が、誓文第2条「上下心ヲ一ニシ」と上下の差別が意識される。由利案第4条「貢士期限を以て」は、西欧議会制度の議員任期を着想し、身分的な独占に反対するもの。由利案第5条「万機公論に決し」は、誓文第1条に掲げられるが、これは文久期幕政改革の際に政事総裁職松平春嶽の政治顧問となった熊本藩横井小楠が建白した「国是七条」の第5条「大いに言路を開き、天下と公共の政をなせ」と同趣旨のもので、由利の盟友坂本竜馬の慶応3年6月の「船中八策」第2条「万機宜しく公論に決すべき事」が取り入れられる。また、第5条「私に論ずるなかれ」、福井藩の幕政に対する鋭い批判によるもの。
・東征軍参謀木梨精一郎、横浜でパークスと会見。慶喜攻撃には反対、戦禍の及ぶ居留地外交団に正式連絡ない、など。夜、木梨は、これを西郷に伝える。西郷は横浜への連絡を怠った外交的不始末に愕然とする。
・衝鋒隊(総督古屋佐久左衛門)、五十里駅に至る。
・高松隊偽勅使事件
・堺事件助命9名、大坂発、/16.浦戸発、/5/21.流刑申渡し、/11/17.赦免、1人は死亡
3月15日
・新政府、旧幕府高札の撤去、五榜の掲示を示す
・川路聖謨(68)、ピストル自殺。
・キリスト教禁制、および、外国人に対する暴行禁止を布告
3月16日
・長岡(河井継之助ら藩士150名)・桑名(松平定敬ら藩士100名)、横浜出発。3月23日新潟着(スネル兄弟がチャーターした貨物船「コリア号」)。4月8日柏崎着。河井は慶喜に戦意のないこと、江戸拠点での幕府勢再挙は不可能と見て、まず藩主を帰国させ長岡藩江戸藩邸を処分。骨董品・什器まで売払い得た数万両で外国商人より最新式銃砲(数百丁の新式銃とガトリング砲2門)・弾薬、米穀(江戸では価格が下がっっていた)、銅銭3万両(江戸と新潟では1両につき3貫文の差がある)を買入れ。米穀は箱館で売却。
この船には会津藩家老梶原平馬(26)も乗船。平馬は藩主容保の帰国後も江戸に残り、兵器・軍資金調達に奔走(他に残留した者は、止戦工作をする者、脱藩して旧幕軍に投じて軍を会津に誘導する者など)。平馬は横浜に潜行、河井継之助の紹介でヘンリーとエドワードのスネル兄弟よりライフル銃や兵器・弾薬を購入、旧幕府軍より銃とイギリス製貨客船順動丸を買入れ、一部をこれで会津に運ぶ。
3月17日
・長州藩奇兵隊400、下関より華陽丸で上坂。総督毛利昌之三郎、軍監山県狂介、福田侠平、参謀時山直八。
3月18日
・奥羽鎮撫総督九条道孝ら、仙台領の東名浜に上陸(3月2日、京都発。23日、仙台入り)。19日、仙台藩に出兵を求めるため、松島に到着。
・隠岐騒動。隠岐島庄屋井上春彦ら、同志隊組織。農漁民3千を指導し郡代追放。
農兵取り立て令とその中止に端を発し、郡代を退去させ、尊攘派儒者の指導の下に、神官・村役人らの「自治機関」によって、80日に亘る「自治」を行なう。
この騒動は、米価と高利の引き下げを求めて、隠岐の中心地西郷の町や郷方を襲った1865(慶応元)年の打毀しをその歴史的前提として持つ。この年の騒動には、これらの半プロレタリア層の闘争と、豪農層の「既ニ徳川謀反ノ色顕然」という判断に立つ松江藩支配の拒否と、民衆の「就中外夷日々に切迫」という危機感と山陰道鎮撫使の「年貢半減令」への期待とが絡みあっている。そして、その「自治」の担い手の「同志」達が求めるものは、「国民ノ動揺ヲ取鎮置・・・御地頭ノ儀ハ、乍恐奉朝議相待候ヨリ外他念無御座」とこということにある。豪農ー半プロレタリア層の矛盾激化が、豪農層を連繋させ、「天朝」への期待を頼りに、領主と対抗させている。
3月19日
・ゴッホ、ティルブルフの中学校中退、フロートズンデルトヘ戻る。
3月20日
・西郷吉之助、徳川家処分案持ち京都に到着。朝議は大総督宮稟議の徳川家処分案大綱を容れることに決する。木戸準一郎(桂小五郎)、徳川慶喜の寛典を主張。
・この頃五兵衛新田に屯集した鎮撫隊は新選組に復して隊伍を整える。勇、歳三、大石鍬次郎、安富才助、島田魁、中島登、市村鉄之助、他227人
3月21日
・天皇、大坂行幸。~閏4月8日迄。23日、大坂行在所西本願寺入り。閏4月1日、パークスが東本願寺でヴィクトリア女王の信任状を奉呈。新政府はイギリス政府の承認を得たことになる。
・前島密、大久保一蔵の大坂遷都論を知り、反論する形で東京遷都を大久保宛手紙で主張。
・会津藩砲兵隊長山川大蔵、若年寄に昇進。後任砲兵隊長は日向内記、日光口に赴く。
・オーストリア議会、結婚に対する民事裁判所の権限確立、教育の管理権獲得、ローマ教皇ピオ9世の反撥
・エンゲルスの「資本論」に関する論文、「デモクラティッシェス・ヴォヘンブラット」に掲載。28日にも。
3月22日
・幕軍衝鋒隊(古屋作久衛門・今井信郎)、下野簗田で敗戦後、若松城に到着。隊員は850→500に激減。

つづく


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