2020年7月14日火曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月1日(その1) 「一日の夜から始まった虐殺。交番の前での虐殺遺体」 「五人つかまり二人ころされ三人電柱にしばる」 「ツルハシを持った男は、逃げる男の脳天目がけて力一杯ふり落とした」

「関東大震災時朝鮮人虐殺 横浜証言集」(2016.9.3 関東大震災における朝鮮人虐殺の事実を究明する横浜の会)
による大正12年記【増補改訂Ⅳ】

《横浜での流言の発生》
「横浜での流言は,警察資料によると9月1日にすでに発生しています。山手本町警察署管内で「午後7時頃鮮人200名襲来し,放火,強姦,井水に投毒の虞ありとの浮説壽警察署管内中村町及び根岸町相澤山方面より伝はるとて,部民の一部は武器を携帯し,警戒に着手し,該浮説は漸次山手町及根岸櫻道方面に進行伝播せり」(「大正大震火災誌」神奈川県警察部)とあります。また,鶴見方面では浅野中学校から「三八式歩兵銃五十挺あり。九月一日朝鮮人襲来の噂ありし際,同地青年会員に氏名を控えて貸与せる」(「横浜市震災誌」)と,流言が伝わるとすぐ武器の調達にはしっている様子がうかがえます。」(『横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺(山本すみ子)』大原社会問題研究所雑誌 №668/2014.6)

大正12年(1923)9月1日
【横浜証言集】1横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近
①石川小高等科二年女子「一日の夜から始まった虐殺。交番の前での虐殺遺体」
〔植木会社一日〕夜になると今度は朝鮮人さわざ、男の人は手に手に竹やりをもっている。〔・・・〕十時頃になるとむこうの方でやれ、やれと朝鮮人をおいかける声、私は生きているかいがなかった。・・・朝になって外通へ行って見ると朝鮮人がひもにゆはかれて交番の前にいた。その内に社会主義の一隊が赤旗を立て表通りにおしかけて来た。〔・・・〕〔四日〕あした十時頃通へ行って見ると家の裏の人足が「ピストル」をもっておどかして居ました。そして外のいえのものなどとって居ました。しばらくすると兵隊等が人足を追いかけていった。そしてきずをうけた。

⑪清水清之(中村町平楽在住、石川小教員)「昨夜犠牲の鮮人、頭から石油をかけられ・・・」
〔九月二日〕「植木商会の馬小屋(植木商会とは貿易商植木会社の前身、当時は百合根の輸出を盛んにして居り、輸送用の馬車馬を此の小屋で常時30頭飼育していた。)の附近まで来ると焼場のようないやな悪臭が鼻につく。フト脇道を見ると道の真中に一杯のたき火の跡があり、まだ白煙が立昇って居る。更に近づいて見ると、焼けボッ杭の間から足が二本ニュッと出て居る。聞けば今朝早く昨日圧死した4頭の馬と一緒に昨夜犠牲の鮮人が頭から石油をかけられて灰となったとのこと。
(清水著「『あの日あの時』関東大震災の思い出」神奈川歴教協横浜支部高校部会、一九七四年)

⑫清水清之さんの姉(教員) 「「鮮人が来たっ」と警官の叫び「・・・手に余れば・・・」」
〔九月一日、相沢墓地付近の避難場所〕突如、暗やみをつらぬくときの声何事ぞといぶかる其の時、「鮮人がきたッ。男子は得物を持て、女子供は外に出るな、手に余れば・・・」とはげしき警官の叫び。
すわこそにくき鮮人よ。人の弱味につけ込んで、忽ちあなたこなたにかがり火ならぬたき火がもし付けられぬ。
後鉢巻に長棒をもちて、敵はいつでも来いとののしり合う若人たち。殺気立ちたる有様に歯の根は合わず、流言は流言を生み、怖ろしさは何とも云う言葉なし。
(同前)

⑬寿小5年女子「丸たん棒もって追いかけ、ぶって殺した」
〔一日〕だんだん暗くなってきて晩になった。私は焼けている方を見ていた。するとそばにいた人々が、朝鮮人がまだ焼けていない家へ石油をかけて火を着けて居ると話をして居た。後の方では、朝鮮人が人を殺したり、あばれたりしていると言って話しているうちに、朝鮮人が来たからお集まりくださいと言っているので、おっかなくて身がぶるぶるふるえていた。真暗でたださわいで居るのであった。〔・・・〕
〔二日の朝、近所のところを見に行った。〕丁度其の時、朝鮮人が逃げて来て、後ろから丸たん棒や色々な物を持って追っかけて来て、其の朝鮮人をぶっていた。其の中の一人の朝鮮人は死んでしまった。後の一人は頭の真中から血が流れて来た。少したって姉さんがおむすびを持って帰ってきた。

㉖南吉田小四年男子「五人つかまり二人ころされ三人電柱にしばる」
〔九月一日夜〕 わたしはいなり山へにげた 山に上っておなかがすいたのでおとうさんがお菓子をもって来てくれました。暗くなると朝鮮人が五人つかまった。二人はころされましたが他の三人は電信ばしらにいはひ〔ゆわえ〕つけてあった。

(3)本牧町、根岸加曽海岸方面
①養老静江(医師)「ツルハシを持った男は、逃げる男の脳天目がけて力一杯ふり落とした」
東京帝大小児科医局時代に発生した、忘れることのできない惨事が関東大震災です。
大正12年9月1日私は、横浜本牧の海辺で友達が経営している小さな旅館に土曜日から滞在していました。宿は小高い丘の上にあって、眼下には東京湾が広がっていました。〔・・・〕
時、私は生まれて初めて無惨な殺人を目撃しました。十数人の男性の集団が海辺に出てきました。先頭の1人は集団から必死に逃げているのでした。追いつめられた男は遠浅の海にかけ込みました。追手は手に武器を持ってます。一番先に追いついた男は長いツルハシを振り上げると、逃げる男の脳天目がけて力いっぱい打ちおろしました。血が噴水のように飛び散ったあとは、寄ってたかってメッタ打ち。海水を真赤に染めて男は沈んでゆきました。彼等は「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を入れまわっている」と、言う風聞に踊らされて殺人を犯したのを後で知りました。」〔・・・〕
「〔二日〕品川に着く頃にはすれ違う人も多くなり、荷物を背負った負傷者、這うように歩く人、かけ足の人。その眼は一様に血走っています。流言が広まり、手に武器を持っている者や集団で走り廻る群も見えます。」〔・・・〕「知人の一人は朝鮮人と間違えられて殺されました。」
(養老著「ひとりでは生きられない紫のつゆ草ある女医の95年」かまくら春秋社、二〇〇四年)

⑤フェリス女学院本科五年「鮮人が暴動を起こして夜に300名押し寄せてくる」
〔一日夜本牧で〕鮮人が暴動を起して、夜に300名押しよせて来ると聞いた。人々は各々棍棒、竹槍を持って夜警することにした。眠ろうと思っても、気が立って容易に眠られない。ヒソヒソと囁く声等が強く耳に響く。何時ウトウトしたのか不意に起る鬨の声。続いてひびく銃声。さては近づいたのかと、思わず身震いして体を縮めた。息詰る様な心細い幾分かが過ぎた。しばらくして町の若い衆が、提灯片手に竹槍突いて入って来た時には、ポッとした。入り込んだ鮮人は僅か2人で、その中1人を逃がしてしまったということを手短に語って、直ぐに暗闇の中に吸い込まれて行った。そして提灯の火がかすかに浮いていたが、それも消えて、あたりは再び元の暗黒、寂寞にかえった。何時不意にどこから、ここへ忍び込むかも知れないと思っても、今更どうすることも出来ず、唯静にしているより他なく、突然起る銃声或は犬の吠える声に驚いては目を見張り、耳をそばだてるのみであった。

⑧フェリス女学院英語専修科「ピストルの音」
〔一日夜石川仲町で〕その夜も大分更けた頃である。突然むこうで「朝鮮人の一隊が北方で乱暴をして漸次こちらに来るそうですから、男の方はみな警戒して下さい」という声が聞こえた。どうしてこんなおそろしい車ばかり、つづいておこるのだろうと思わずため息をついたとたん、闇の中でピストルの音が2度なった。小さい妹はこわがって泣き出す。私はそれをなだめながらもつづいておころうとしている恐ろしい事を予期し覚悟して、じっとくらやみの中にうずくまっていた。その夜の長かった事、夜はいつまでもあげない様に思われた」

⑨前田普羅「〇〇人が日本人を殺しに来る」
〔一日夜、本牧町泉谷戸の自宅近くに避難して〕一人の男が薄暗い森林を上って来た。提灯がアワテゝ灯されると、その男は、「提灯を消して下さい、〇〇人が日本人を殺しに来るから。」と、底力ある声で怒鳴った。「男の方は全部寝ずに警戒に当って下さい。」と付け加えてすぐ森林を出て行った。女子供は呼吸も止る程に恐れた。しかしなお半信半疑で、男は休息し、女達は露除けの下に幼き者たちの寝床を作った。睦子も明子も小さい蚊帳をつって静かに寝入った。〔・・・〕再び先のおとこが森林に入って来て、「〇〇人は地震の最中、石油を壜に入れて方々に投げ込んで放火したので、いま箕輪下停留場で3人殺されました。何時その返報に来るかも知れないから御用心なさいまし。」といひまた森林を出て行った。提灯を消し、蚊燻しとあって生枝が釜の下に投ぜられた。子供達は〇〇人が来ると恐れながらもう深い眠りに落ちている。(「ホトトギス」一九二四年二月号「ツルボ咲く頃」)

つづく


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