2020年7月11日土曜日

慶応4年/明治元年記(14) 慶応4年(1868)3月7日~12日 水戸藩小石川藩邸で本圀寺党クーデタ(諸生派は北越戦争に参加) 松平定敬(桑名藩主)、越後柏崎へ向かう 西郷隆盛・山岡鉄太郎会談 会津藩の軍制改革(洋式) 奥羽鎮撫使、仙台に向かう 東海道軍先鋒、品川着 東山道本隊、板橋着    

慶応4年/明治元年記(13) 慶応4年(1868)3月1日~6日 板垣退助率いる東山道先鋒枝隊、甲府城開城 相楽総三(30)と同志ら8名、捕縛・斬首 大総督府、駿府(静岡)着 勝海舟、山岡鉄太郎を西郷のもとに派遣 甲州勝沼戦争(近藤勇率いる甲陽鎮撫隊、板垣軍に敗れる)
より続く

慶応4年(1868)
3月7日
・大津裁判所設置、議定長谷信篤が裁判所総督に就任。旧大津代官所出身者は下級吏員どまり。閏4月25日、大津県成立。県政をリードするのは、政府から派遣された松田道之(鳥取藩士)・籠手田(こてだ)安定(平戸藩士)らのいわゆる地方官僚。
3月8日
・水戸藩小石川藩邸で本圀寺党クーデタ(天狗派、復権)。藩主慶篤、江戸在の執政朝比奈弥太郎に御役御免・謹慎を命じ、本圀寺党と幕府遊撃隊で藩邸を固める。朝比奈はじめ諸生派は水戸に走る。
本圀寺党:文久3年来慶喜に附属して京都を警護。天狗党挙兵に始まる元治内戦において、水戸諸生派首領市川三左衛門より天狗党の党類と見做され金穀仕送りを絶たれる。王政復古クーデタ後、慶喜は、下坂時、本圀寺党と呼ばれる京都の水戸藩士約300人に二条城の留守を預ける。新政権に二条城を明渡し、帰国するに際して、徳川慶勝や有栖川宮に働きかけ、市川ら諸生派「奸人」を除くべしとの勅諚を取り付ける(水戸藩実権派の諸生派が朝廷から処罰の対象と名指し)。2月初め、この勅諚は江戸に持込まれ、慶喜と藩主慶勝もこれを受け容れる。
・松平定敬(桑名藩主)、恭順派藩士等100名と共に江戸を出発。16日、横浜より越後柏崎へ向かう。長岡藩河井継之助率いる長岡藩士150名余、会津藩梶原平馬以下100名が乗船。陸路越後を目指す者約120名。立見鑑三郎・町田老之丞等は定敬を見送った後、旧幕臣からなる旧幕歩兵と七連士官隊を結成、桑名藩士約80名も配下に加わる。北関東でゲリラ活動をしながら、閏4月12日、柏崎に到着。
・古屋作左衛門率いる幕府脱走軍900、野州梁田で東山軍と戦闘。後、古屋らは会津へ向い、衝鋒隊と名付け越後に転戦。
・イギリス公使パークス、横浜に戻る。既に官軍先鋒は神奈川に到り、横浜にも雑兵が出現。駐屯兵を神奈川に向けて配備、サトウを江戸に探索に出し、13日、軍艦ラットラー号を大阪に廻し、京都の方針を探らせる。
3月9日
・西郷隆盛(42)・山岡鉄太郎会談。駿府の東海道府中宿伝馬町の旅篭で。徳川の士民も「皇国の一民」とする勝の手紙を渡す。西郷は山岡を待たせたまま参謀会議を開き、大総督の承認を得て慶喜降伏の7条件を定める。徳川家の家名についての寛典処置と慶喜助命を約す。慶喜の備前預けという条件について、山岡は家臣として忍びないと抵抗。慶喜処分に関して、西郷は私に任せられたい、と回答。
・近藤勇、杉並の玉野屋へ至る
・東山道別動隊(板垣軍)、甲府発。地元の士民を土佐藩所属断金隊として組織。東北遠征まで従軍。
・幕軍衝鋒隊(総督古屋作久衛門、頭並隊長今井信郎、隊長内田庄司、兵力約850)、下野梁田で政府軍と戦闘。後、会津・越後転戦。
・天皇、太政官代(二条城)に三職を召集、建議「蝦夷地開拓ノ可否」を諮詢。三職一同は「開拓可然」と言上。25日、蝦夷地開拓具体策を討議。
10日、12日迄に三職に対し「蝦夷地開拓」・「鎮撫使派遣の遅速」についての建言書提出が指令されるが、提出された25通の建言書は具体性を欠くもの。
19日、清水谷公考・高野保建は再び「建議書」を提出、蝦夷地開拓について建言7ヶ条、鎮撫使への自信と決意を示す。建議の基礎は、岡本監輔や松前藩の情報であり、蝦夷地の現況認識は的確なもの。①開拓の志ある者の自由な移住を許し、②施政担当者は協調性のない人物は除外して人選、③鎮撫使は松前藩が案内を担当するので、松前に上陸し、箱館へはその旨を布告すれば、旧幕府箱館奉行所は徳川家の支配継続には固執しないという情報もあり、蝦夷地警衛諸藩も会津・庄内以外は鎮撫使受け入れに異存ない状況、④⑥ロシア人以外の北方民族とは是迄通り交易し、自他の差別無く親交、北蝦夷地(樺太)は本来我が国の領地であるが、旧幕府がロシアと雑居を約しているので取りあえず雑居のままとし、ロシア人がこの件について交渉を求めれば交渉に応ずるにして、まずロシア人の住まない所に漁夫等多くの人数を移住させ奥地の開拓に進め、航海・海運は箱館在留イギリス人ブラキストンを用いれば大きな効果が期待できる、⑤蝦夷地枢要の地石狩近辺を開拓の根拠地とする、⑦請負人廃止は肝要であるが、混乱回避のため、まず物産興業鼓舞に努め、人心安静を心がけ、具体的方略は衆議を尽くし立案・許可を仰ぎたいとする。
25日の討議では三職に対し副総裁岩倉具視より3ヶ条に関する意見が求められる。①「箱館裁判所被取建候事」、②「同所総督、副総督、参謀人選ノ事」、③「蝦夷地名目被改、南北二道被立置テハ如何」。答議は②の人選に集中、岩倉副総裁は「先ヅ人選ヲ決定シ、然ル後裁判所取建、追々開拓ニ手ヲ下スベシ」と蝦夷地開拓着手順序を決定。③は翌明治2年開拓使設置後の8月15日に実施、蝦夷地は二分されずに「北海道」となる。この改称は、蝦夷地を実地踏査した実績をかわれて開拓使判官に任命されていた松浦武四郎の意見に基づくもので、同時に渡島国以下11ヶ国68郡名も設定される。
3月10日
・新政府、「五榜の高札」の内容を定めた。重点は、脱国の禁止と攘夷の禁止。
2月晦日のパークス襲撃事件後、パークスは下手人の処分のみならず、以後外人襲撃犯に対し厳しい処罰を行う旨の布告を要求、政府はパークスの意を迎える為にこれを実施しょうとするが、尊攘派は反対。
この月14日の「五ヶ条御誓文」でも、木戸が特に福岡案を修正し、「旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし」との1項を入れ、外人殺傷事件等に対し厳しい態度をとる為の根拠をなす。
・幕府軍制近代化。鉄砲整備。フランス式軍隊。
・会津藩、軍制改革。長沼流兵法捨て洋式(フランス)訓練を行う新軍制。年齢別編成(16、17歳の白虎隊、18~35歳の朱雀隊、36~49歳の青龍隊、50歳以上の玄武隊)。正規軍3千人、一般人・農民等からなる諸隊も加わり総兵力7千人。
佐川官兵衛を中隊司令官として江戸城にて19~35歳の藩兵にフランス式歩兵訓練を実施。砲兵隊長山川大蔵の砲兵隊もフランス式砲術を学び、梶原兵馬は横浜などで武器・弾薬を購入。藩兵は慶応4年3月下旬に会津へ帰国。日向内記(ひなたないき)、朱雀士中二番隊頭となる。
・水戸諸生派、天狗派の水戸侵攻に備えて駅々に派兵する間に、水戸在の天狗派800が水戸城占拠。水戸藩執政市川三左衛門率いる諸生派500、脱走。会津を目指すが、会津藩に断られ、29日越後水原、4月8日、新潟着。北越戦争参加。
・山国隊、八王子着。11日、徳川方八王子千人同心隊、因幡藩に投降。
・新撰組、浅草今戸の慶養寺の屯集。
3月11日
・奥羽鎮撫使一行、天保山より仙台松島に向けて出航。総督九条道孝ら公卿3人と附属兵は紀州船、参謀世良・大山及び薩摩兵は芸州船、筑前兵は自藩の船に、分乗。仙台兵もアメリカから購入したばかりの宮城丸で同行。18日、松島湾入口の寒風沢に着。
・永倉新八・原田左之助ら、靖兵隊を組織。近藤・土方らと決別。この頃沖田総司はすでに千駄ケ谷の植木屋平五郎宅に移ったといわれる
・西郷隆盛、東海道先鋒総督府の池上本門寺に入る(11日、駿府発、13日、江戸高輪の薩摩藩邸入り、との記述もあり)
・米、第4次再建法が可決
3月12日
・東海道軍先鋒、品川着。
・東山道本隊(中山道進軍)、板橋着。
・英保護領バストランド(後レソト)成立

つづく


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