2020年7月26日日曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その7)「久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その6)「駅のホームなんか、見られたものじゃなかったですね。それに、人が竹ヤリで刺されているのも見ました。あのとき、朝鮮人が騒ぎを起こしたというデマ宣伝がありましたからね。」 「街は朝鮮人が非行を働くので此の場合警官の手が廻らずどしどし私刑にして居る、現に公園の横で朝鮮人十数名殺されて居たのを見て来た。」 
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
②村上美江「神中〔第1中学〕に集められた避難民、男は教練用の銃で武装」
関東大震災 恐怖の二日間 夕方になると、メガホンを持った人が現れて、避難者は至急神中の運動場に集まれと命令された。朝鮮人が攻めてくるから危ないという。校庭はテントが敷いてある所が少しで大部分は土の上に坐る。隣の草原は真っ暗で誰も居ない。校庭から教練用の木の銃が持ち出され、40才までの男の人は前に集まれとメガホンが叫ぶ。そのうち暗い中でパチパチとピストルの光がして「そっちへ逃げたぞ」とか「右の方にかくれたぞ」とか叫び声がして、みんなちじこまっていると、みんなで「ウワーイ」とトキの声をあげろと二度三度命令される。暗やみを人が走り回ったり、叫び声がしたり、前の晩よりも緊張した恐ろしい夜になった。尋ね人を呼びかう声も禁じられていた。兵隊みたいな声の男が、怒鳴り声で指図をしなから人々の間を駆け回った。災害とは全く別の囲まれた夜、恐ろしい長い夜だった。やっと明るくなって、私たちは前のMさんの家に向かったが、途中で兵隊のような人に両方から引っ立てられて行く怪我をした人や道の脇の草の上に倒れている人や、地割れした道の割れ目の中に押し込められている人も見た。母は「見ないで、見ないで」と言うけれども、道が壊れているから、足元は見ないわけにはいかなかった。
(村上著「ヨコハマ育ち」創業出版、一九九五年)

③寿小学校五年男子「神中の原に逃げる。鮮人騒ぎには校内の武器で備える」
二日人々は税関にく物を取りに行く。又一つ心配しなければならないことがおこった。兄さんの身の上を思ふ。そうこうしてゐるうち「つなみつなみ」と人々が逃げる。僕等も神中の原へにげた。兄さんは神中4年生だから。居やうしないかとさがすが居ない。原にはひなん民がたくさん居て、僕等にたべ物をくれた。早や夜になると、鮮人さわざ校内の鉄砲や刀をもって来て守る 四方が山で四方から攻められる。時にわあわあいってはおしよせる、ぶるぶるふるへているとやがて兵隊が来た。そきた。その時はばんざいばんざいと皆かンこの声をあげた。
④東京日日新聞「自警団の虐殺」
横浜地方裁判所検事局 坂元検事戸部署で調査をする
保土ヶ谷、久保山辺でやられたのは多く戸塚辺の鉄道工事に雇われてゐたもので2日正午頃例の山口正憲一派のものが「鮮人三百名が襲撃してくる」との流言を放ったため久保田や其の付近に避難したものは自警団を組織し全部竹槍や日本刀を持って警戒し一方久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。〔・・・〕人に対する警戒は十日ごろまでつづき、二日から一週間は深夜でもピストルの音が絶えなかった。          (一九二三年一〇月)
⑤フェリス女学院本科五年「捕まった二人松の木へしばられ、ぶたれ、血だらけで山中ひきずりまわす」
〔西戸部で二日〕突然「朝鮮人が井戸へ毒を入れたから、しばらく飲まずにいて下さい」という知らせ。この先水も飲めないなんて、なんてあわれな事だろうと思っている間もなく、「ホラ、朝鮮人が山へかくれた」というので、気の荒い若い人達は、手に手に鳶口やふとい棒を持って山へおいかけて来た。とうとう2人だけはつかまえられてしまって、松の木へしばりつけられて、頭といわず顔といわず皆にぶたれた。気の立っている人々はそれでもまだあきたらす、血だらけになった鮮人を山中ひきずりまわした。そして、夜になったら殺そうと話していた。〔二日夜〕そうしている内「今、鮮人が逃げたから気をつけて下さい」という。間もなく「ローソク消せ」という。あたりは一面真くら。その中でピストルの音さえ聞えるのである。私等はまるで戦場にでもいる心地がした。その内ガサガサと私共のいる所へ人の来る気配がした。「ホラ鮮人だ」と私等(女)は顔をふせてしまった。「誰れだ」とどなると「私です。どうぞ少しの間ここへおいて下さい」というのはたしか日本人らしいので、やっと安心して夜の明けるまでおいてあげた。

⑥フェリス女学院本科五年「鮮人騒ぎです」
〔西戸部で二日朝〕夜があげて焼跡を見に行く途中、みんな武装しているので一寸きいて見た。「知らないのですか、鮮人騒ぎです。日本人は鮮人に間ちがえられない為に赤布を付けるのです」と言った。それは大変と皆は赤布を付けた。「地震と火事、その上鮮人ではとてもたすからないね」と言った。そばの人が合言葉があるのでと話しているので、私共はきいて見た「「山と川、熱い寒い」と答えた。兄と父は竹槍を持って出かけた。私共はどんなに心配か分らない。日本人が鮮人と間違えられてころされる者も沢山にあった〔・・・〕。私どもはしかたなしに明朝、古郷へそうでで立った」
⑧フェリス女学院本科五年「朝鮮人が爆弾を持ってやって来た」
〔西戸部で〕 2日の午後になって一大難事がおそって来た。それは2日の日の午後「千人も朝鮮人が裂弾を持ってやって来た」という噂が一時に広まった。我々の運命はどこまで突落されるか分らない。その日から腕は赤の切でしばり、「山と川」との相言葉を使わねはならなかった。人々は皆竹槍や刀等をさげて、まるで戦争の姿である。私も死ぬなら鮮人に殺ないで死にたいと固い決心は決めて居った。しかし2日、3日と恐ろしい日を過ごす内にも、目の前に鮮人を見たわけでもなかった。震災にあい、又鮮人に驚かされ、この思い出多い難事はいつまで立つとも私達の口から消え失せる時はないであろう。

⑨神奈川県立工業学校建築科三年「喊声が盛んに起き、銃声が僕等のきもを冷やす」
恐ろしかった九月一日も過去って、又いやな二日の夜が段々せまって来る。〔・・・〕昨日の大震火災の出来事から、今日の鮮人さわざの事等が脳中を駆巡り、又新しい不安が湧いて来る。沈黙は長くつづいた。「わあー」 と言ふ喊の声が聞えた。皆はっと耳をそばだてた。と又 「わあー」 といふ声が以前に増してはっきりと聞える。「なんだらうか」 と先ず伯父が口を切る。「あれは青年団が鮮人を追立てるのでせう」と、哲さんがいふ。伯父「さうらしいな」。僕はやっとはっとした。喊声は盛に起る〔・・・〕そして銃声までが轟き出す。〔・・・〕ときの声が四方に起る。銃声が僕等のきもを冷す。〔・・・〕 「カタガク」と亜鉛板を踏む音がする。そしてそれが段々と高くなる。はっと思って思はず渡してもらった金棒を固く握りしまる。胸がどきんどきん鳴る。室内には一種異様な厳粛な空気が流れる。やがて音の主は小屋に向かって声をかけた。「私は隣漆畑ですが、鮮人が来たら見つけた方から声をかけ互に声援しませう。貴方の方には何か武器がありますか、私の方には日本刀1本と外に金棒が5本ありますから」「ではどうぞお願いします」「いいえ私の方こそ」 伯父さんとこんな会話をすますと、叉がたがたと音立てて帰って行った。〔翌朝〕 すでに起きて居る伯父さん等は、次の様な事を話合って居た。「昨夜はおそろしかったね」 「そして12時頃<西戸部方面は激戦になります、各自警戒を要す>なんて言って来ましたね」 「来た来た それよりもあの夜中の悲鳴たらどうだったい、あの何ともいはれぬ〈ひゃぁー〉と言ふ悲鳴たら」 「まったくあれはおそろしかったですね」
⑬佐藤伝志 (神奈川県戸部署巡査) 「虚偽が事実になる時」
神奈川県戸部署の巡査になって間もなく、関東大震災にあった。軽井沢派出所が私の受け持ち交番だった。〔・・・〕2日、夜明けとともに本署に出向いた。「朝鮮人が暴動を起こす」 の報を聞いたのはこのときである。署の内外は緊張した空気につつまれていた。そんなやさき、数十人の朝鮮人が武装して集会を開いているとの知らせが入った。「それッ」とばかり、居合わせた者全員が現場に急行したが、そこには人影ひとつなかった。右だ、左だ、いや向こうだと走り回っているうちに、恐ろしいもので、朝鮮人暴動は、もはや既成の事実として疑わなくなっていた。だれも彼もがそんな疑心暗鬼になり、私たちも、しまいにはサーベルを振り上げ、本気で追いかけた。
家屋の倒壊、断水、停電、出火〔・・・〕で平静さをまったく失っていた一般住民の激昂ぶりは、私たちに輪をかけてすさまじかった。町内ごとに自警団を組織し、竹ヤリ、日本刀、角材をたずさえ、徒党を組んで”朝鮮人狩り”をやった。町の辻で朝鮮人を取り囲み、袋だたきにしている光景も幾つかあった。いずれも、暴徒とは思えない一般朝鮮人市民であり、人がきをわけて入ってなだめようとするのだが、そのじぶんには、警察官といえどもへタに口出しすると命が危ないというありさまだった。私自身、危うく竹ヤリで突かれ、トビロで頭を割られるところだった。結局、まる一昼夜探索しても、朝鮮人の武装蜂起を裏付ける事実は何ひとつなく、このままでは犠牲者が出るばかりだということで、署が朝鮮人保護にのりだした。近くの学校の雨天体育場に5~60人を収容したと記憶している。このあと、3日から私は、県知事宅の警護をいいつかったが、市民、県民のいざこざの収拾や陳情こそあったが、朝鮮人による襲撃や暴動は、まったくなかったことを追述しておきたい。   (「潮」一九七一年六月)
⑭栄女「トロッコに乗せてくれた朝鮮人のおじさんは」
8月20日過ぎに吉田町から西戸部へ転居
私は独りぼっちですぐ裏から続く原っぱで何をしていたか覚えていないが遊んでいた時に、少し向うにトロッコが走っていた。そのトロッコのそば迄行って見ていたところ、トロッコを押していたその時分は朝鮮人と言っていたおじさんが、「乗りたいか」と聞いた。私はコックリとうなずいた。おじさんは私を抱いてトロッコの前に乗せてくれた。そして向う側に着くと空になった帰りのトロッコに私を渡してくれた。そして元に戻ると何かを乗せてまた私を乗せてくれた。それからはいく日か家を抜け出せるときは原っぱに行ってトロッコに乗せて貰った。私の判らない言葉で隣りのトロッコにひょいと渡してくれて、とても楽しかった。何故か判らないが、このことを言っては悪いような気がして家へ帰ってもだまっていた。義母は独り遊びが好きな子だからと思っていたようであった。
〔2日〕その夜から恐ろしい事が起きるのだった。養父を迎えに来た人に誘われて養父も棍棒を持って出掛けた。外が騒がしくなり、そのワーワーという人声に混って人の悲鳴が聞えた。その晩養父が帰って来て言うには、悪いことをした朝鮮人を追いつめて交番の前に折り重ねて置いて来たということだった。私は机の下でブルブルと震えていた。そんな事はない、そんな事はないと、口に出して言えないまま心の中で叫んでいた。あのおじさん達が悪いことをする筈がない。それなのに大勢の人に棍棒でなぐられて交番の前に積み重ねられている。どうして、どうして、そんなことにと、養父をはじめ追いつめた人達に言いたかった。でもどうしても言葉に出して言えなかった。「怖がることは何もないのだよ。ここへは朝鮮人は誰も来ないからね」と養父は震えている私に言った。義母は「変な子だね、地震の時に椅子に挟まれているのを引っはり出した時には泣きもしなかったのに、さあ、もう寝なさい、ここなら地震が来ても大丈夫だから」と言って隣りの部屋に行ってしまった。私はいつまでも震えが止まらなかった。
数え年9歳の女の子の前を通って棍棒を持った養父が出て行った。孤独な女の子をトロッコに乗せて遊ばせてくれたあの朝鮮人のおじさん達は、衆を頼んでのこととは言え殺された。それは養父の罪ではないことは判っていたけれど、その時の事は何かに向ってどうしても許せないという想いが消えなかった。〔・・・〕関東大震災の日となると、私に親切だったあの朝鮮人のおじさん達と養父が今でも二重写しになってなかなか消えない。だが今私の心の中で、もう忘れることにしようと思っている。
(「国際経済研究」一九九三年一〇月号所収「関東大震災の思い出」

つづく


0 件のコメント: