2020年7月31日金曜日

慶応4年/明治元年記(27)慶応4年(1868)5月16日~22日 江戸鎮台・3裁判所設置(関東経営開始) 第1次長岡城攻防戦(長岡城落城、河合継之助は桑名藩領加茂で同盟軍による長岡城奪還を図る) 

慶応4年/明治元年記(26) 慶応4年(1868)5月13日~15日 朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山、新政府軍、朝日山奪取失敗) 上野戦争(彰義隊攻撃、1日で壊滅)
より続く

慶応4年(1868)
5月16日
・中外新聞、別段中外新聞を発行して彰義隊攻撃の戦況報道。新聞号外のはじめ。
・米大統領弾劾裁判投票、アンドルー・ジョンソン大統領が1票差で罷免を免れる
・プラハ、国民劇場定礎式
5月17日
・土佐藩兵、佐賀藩兵と共に会津藩内通の嫌疑がかかる真岡の代官所を襲撃。
・尾張藩博徒部隊(集義隊200余)、名古屋より北越出兵。12月24日帰国。
・新撰組原田左之助、本所の神保山城守屋敷で没。
・石阪昌孝、江戸より、橋本道助と帰宅。小島家に寄り、官軍と彰義隊の戦闘の模様を報告(「小島日記」)。彰義隊と新政府軍の戦争直後の上野寛永寺を訪ねて、「酸鼻呑声来往人」と賦す(「吟朋詩集」)。
5月18日
・政府、各国代表に外国人の新潟通行禁止を要請
・徴兵7番隊(旧赤報隊2・3番隊)、四条隆詞に随行し京都発。
・九条総督、仙台より盛岡に向かう。のち秋田で沢副総督と合流。
・江湖新聞の福地源一郎、新聞に掲載した「強弱論」で逮捕。
・振武軍、発足(彰義隊別派が改称?)。
5月19日
・新政府、江戸鎮台・3裁判所設置。関東経営開始。鎮台(長官)は大総督有栖川宮が兼任。その下に江藤新平(民政兼会計営繕)ら判事6人。
22日、江戸南北町奉行所、市政裁判所に改め官軍に引渡し。奉行は解任、与力・同心は禄高扶持米これまで通り、引き続き勤役。
・政府、大総督に会津征伐大総督を兼ねさせ、大総督府は従来の三道総督をやめ、代りに奥羽征討白河口、同越後口総督を置き、東北・越後戦争の為の態勢を敷く。
・太政官札を発行。
・上総木更津請西藩主林中祟ら遊撃隊300、小田原藩主を左幕に勧誘。武器援助密約結び箱根関所を襲撃。
・第1次長岡城攻防戦
政府軍(参謀山県狂介)、長岡占領。濃霧を利用して政府軍が信濃川を渡河、長岡城下を攻撃。同盟軍各隊が救援に向かうが既に長岡城は落城。桑名軍含め同盟軍は退却、栃尾・加茂に集結。河井継之助はガットリング砲3門で迎撃するが、左肩を負傷し、栃尾方面へ退却。戦火のため城下2500戸が焼失。 藩主牧野忠訓一族は城外へ避難、八十里峠方面守備の会津藩一瀬要人・秋月悌次郎の勧めで八十里峠を越えて会津へ落ちる。
19日払暁、三好重臣と報国隊軍監熊野直介は長州軍奇兵隊3番隊(堀潜太郎)・長府藩報国隊2番隊(内藤芳介)・4番隊(木村安八)を率い渡河、長岡城正面の中島方面に上陸。続いて高田藩榊原若狭大隊(380程)・加賀藩2中隊相当(小川仙之助・斉藤興兵衛)も渡河、中島周辺に次々と新政府軍が上陸。また三好達が上陸した北側の蔵王方面には薩摩軍外城3番隊(有馬誠之丞)・4番隊(中村源助)・城下士小銃10番隊(山口鉄之助・)等が上陸、蔵王堂城陣地の長岡軍を撃破し占拠。
同盟軍主力を妙見高地に配置し、長岡城守備戦力は脆弱で、河井は新政府軍奇襲を知り長岡城放棄を決意(元来、長岡城は平城のため防御力がなく、それ故に妙見高地を奪取し置いている)。河井は藩主親子を会津に脱出させ、自らガトリング砲を操り新政府軍を拘束、その間に旗下部隊を栃尾方面に撤退させる遅滞戦術を成功させる。
山県は小千谷から出撃し妙見高地奪取を目指すが、妙見高地の同盟軍の激しい迎撃により撃退。この隙、同盟軍は妙見高地から殆ど損害なく撤退。山県・三好の長岡城奪取は成功するが、同盟軍主力の捕捉殲滅には失敗、同盟軍根拠地を奪取するものの同盟軍戦死者は50弱というほぼ無傷の状態で取り逃がす。ただ河井にとっては、兵力的損害は少いものの、弾薬・食糧・金を失う痛手を負う。
同盟軍は栃尾へ撤退、長岡からの撤退軍と妙見高地からの撤退軍が栃尾で合流し、更に後退し桑名藩領加茂に向う。加茂には米沢軍を主力とする援軍が到着し、同盟軍戦力は約3千となり、背後の新潟港から諸外国から購入した銃砲・弾丸の補給が容易になったため新政府軍への反撃を開始。
長岡城を奪取した新政府軍は、同盟軍追撃を目指し進軍するが、前線が伸び過ぎ補給が追いつかなくなる(攻勢限界点に達する)。
5月21日
・政府、キリスト教徒100余名の山口、福山、津和野3藩分預を命令
5月22日
・加茂において越後在陣の同盟軍幹部等の大軍議。各藩の思惑・面目等が入れ乱れ戦略方針不明確。翌23日も軍議。
結集戦力
米沢軍参謀甘粕継成・大隊長中条豊前等約1千、長岡軍総督河井継之助・軍事掛花輪救馬等約700、会津軍総督一瀬要人・奉行秋月剃次郎等約700、桑名軍軍事奉行金子権太左衛門・隊長立見鑑三郎等約320、上山藩家老堀新兵衛約105、村上藩家老水谷孫平次等約160、村松藩家老森重内等約80。
河井継之助は長岡城奪取には見附制圧が必要不可欠と力説し、同盟軍首脳がこれを了承、主攻撃を見附に、赤坂・与板方面に助攻撃を行なうと決する(「甘粕継成日記」)。部隊配備は、見附方面への右翼軍(米沢軍・衝鋒隊)、赤坂~見附を突く左翼軍(長岡軍・村松藩兵)、与板方面軍(桑名軍・会津軍)に分かれて進軍。また新政府軍の出雲崎方面軍に備え、弥彦口には庄内軍・会津軍が守備(実際は、①見附方面に米沢軍・衝鋒隊・山形藩兵・会津軍が、②赤坂方面に長岡軍・会津軍・米沢軍・村松藩兵が、③与板方面に会津軍・桑名軍・米沢軍が進軍)。
・福井藩、会津征討のため越後口出兵を命じられる。従来同藩は、春嶽を先頭に、政府軍東征に反対しているが、奥州・北越諸藩の同盟・反抗は容赦はできないとして出兵準備に着手。

つづく


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