2020年7月14日火曜日

慶応4年/明治元年記(17) 慶応4年(1868)4月3日~11日 近藤勇捕縛 会津・庄内同盟成立 江戸城無血開城 榎本艦隊は脱走 土方歳三、島田魁らと脱走

慶応4年/明治元年記(16) 慶応4年(1868)3月23日~4月2日 奥羽鎮撫使、諸藩に会津・庄内藩追討を命令 仙台・米沢藩による会津藩周旋工作 仙台藩出兵 神仏分離令
より続く

慶応4年(1868)
4月3日
・近藤勇捕縛
近藤勇、下総流山に転戦、捕われ板橋で処刑(4/25)、土方は江戸へ奔る
・彰義隊屯所、浅草本願寺から上野寛永寺内に移る。
・「小島日記」、「石阪宿預ケ之書面来ル」。(小島資料館史料)
4月4日
・(新4/26)勅使(東海道先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)、江戸城入城。西の丸にて徳川方の田安慶頼と開城交渉。政府決定の降伏条件を勅諚として伝える(慶喜の水戸謹慎。尾張家による江戸城管理。軍艦・兵器は一旦全て没収し、後に必要分だけ返す)。
西郷、初めて、「刀を抱いて」江戸城入城。海江田武次・木梨精一郎ら東征軍参謀が従う。江藤も随行。
勝海舟の嘆願が旧幕海陸軍総意を受けたものでないこともあり、勅使の沙汰書に対し旧幕海陸軍内部に大きな不満。勝・大久保は「主人慶喜ノ趣意ニ相背」くが、「海陸両軍臣子ノ節操相立不申」という海陸軍一同の嘆願書を東征軍参謀に提出。海江田武次・木梨精一郎両参謀は、沙汰書の内容変更は出来ないと回答するが、旧幕臣の反発が最も大きい城・兵器受け取りは形式的なものとすることとする。
・新発田、村上、長岡、村松、柏崎、椎谷の諸藩連合で、幕軍衝鋒隊古屋作久衛門に面会、同盟を誓う。古屋の恫喝に負けた側面大きく、高田、飯山藩は、後日簡単に薩長側につく。
・北陸軍、江戸着。小浜~敦賀~金沢~3月15日、高田。
・仙台藩、鎮撫使に近い執政三好監物・坂本大炊を罷免。三好は鎮撫使と共に帰国、その後も総督・参謀と接触。坂本は京都から錦旗を持帰った者。
・土方歳三、勝海舟に謁見。島田魁、江戸へ潜入して土方と合流。近藤、唐丸駕籠で板橋へ送られる。
4月5日
・長崎裁判所、在留外国人雇用の清国人の日本人に対する犯罪は、国内法をもって処すると決定
・土方の命により、相馬主計は松波権之丞差出しの封書を持って、板橋の近藤を尋ねるも、その場で捕らえられる。書は土方、勝、大久保一翁ら3人のものという
4月6日
・奇兵隊、越前・薩州・芸州・肥後藩兵らと大坂で「天覧」。10日、京都に転陣。15日、奥羽越の政府軍援兵として出張命令。25~26日、奇兵隊・薩摩合併兵、北越戦線に向かう。
・水戸藩主徳川慶篤、病没。
4月8日
・桑名藩主松平定敬ら藩士100、柏崎着。この中には家老吉村権左衛門ら恭順派もいる。桑名から柏崎に藩士を派遣して恭順派に働きかけ、桑名帰国を勧告するが、藩主定敬ら主戦派は聞き入れず、閏4月3日、吉村を暗殺。
・近藤勇への審問が始まる
4月9日
・大久保利通、本願寺別院行在所で初めて天皇に拝謁
・勝海舟・大久保一翁、池上本門寺の東海道先鋒総督軍を訪問。
・静寛院宮、実成院は江戸城を出て午が淵の清水邸に移る
4月10日
・奇兵隊、京都へ転陣
・(新5/2)会庄同盟成立。会津・庄内同盟。
庄内藩主酒井忠篤の側近松平権十郎の構想で5月3日の奥羽列藩同盟の底流となるもの。「会庄が米沢を説得。米沢が加われば仙台も応じる。仙・米・会・庄4藩が同盟すれば、奥羽列藩は同盟する。そこで、速やかに江戸に出て、江戸城を本営にして諸藩兵を合わせて凶徒を一掃」。
・郡上藩凌霜隊出陣準備。脱藩扱い。隊長朝比奈茂吉(17、江戸詰め家老朝比奈藤兵衛嫡男)、副長坂田林左衛門(57)、参謀速見行道(47、国学者・歌人)、兵力45。本所中の橋菊屋に集合、江戸出発。海路北上、4月12日、行徳に一度上陸、再び船で江戸川を溯って前橋に上陸、会津に向う。途中小山、宇都宮で戦い、日光街道から塩原に出る。横川に戦い、田島に至り、大内峠の激戦では戦死者2名を出す。   
・エチオピア皇帝テオドロス2世軍、英・インド゙軍に敗北
・ブラームス(35)、ブレーメンで第5楽章を除く「ドイツ・レクイエム」作品45全曲初演、大成功、大家として通るようになりはじめる。夏はボンで過ごす。カンタータ「リナルド」作品50、「ハンガリア舞曲」第1・2集完成。
4月11日
・(新5/3)江戸城無血開城
慶喜、上野寛永寺の塔頭大慈院を発ち水戸へ向かう。歩兵奉行大鳥圭介、旧幕軍率い江戸を去る。海軍副総裁榎本武揚ら海軍(幕府軍艦7艦)、館山方面へ脱出。15日、慶喜、水戸着。
旧幕艦隊は、海軍副総裁榎本和泉守武揚の名で、「万一乗組員が不心得な行動を起こしてはとの配慮から房総付近に立退く」との書き置きを残し、軍艦7隻(観光、蟠龍、咸臨、朝陽、富士山、回天、開陽)が館山沖へ脱走。最強の艦隊旧幕海軍はその実力を背景に新政府に対して圧力を掛ける。13日、新政府は田安慶頼へ橋本総督名で軍艦引渡し実行を命令。しかし、榎本はその命令を拒否し、19日、「榎本和泉主家ヲ思至情感心ノ事ニ候間、願意相貫候様御尽力可被成下候、就テハ直様四艦ハ其儘被下候ニ付、其余四艦急速朝廷へ可差上候様」との達書を出して妥協的決着を図る。旧幕府艦隊は品川沖に戻り、28日、観光・朝陽・富士山3艦に急遽加えられた翔鶴の4艦が新政府へ渡される。その後、回天が箱館の状況視察(5月4日箱館入港、回天船将甲賀源吾と開陽船将荒井郁之助が杉浦兵庫頭と会い、7日に江戸へ引き上げの組頭山村惣三郎以下を乗せて出帆)に向かったり(杉浦誠「日次記」)、蟠龍・咸臨が遊撃隊など脱走兵の移動に手を貸したり、8月19日夜の脱走まで品川沖で睨みを利かす。 
・土方歳三、島田魁ら隊士6名と江戸を脱走、鴻ノ台(国府台)に至る。
・仙台藩主伊達慶邦、8千率い白石に出兵(白石城主片倉小十郎の兵2千が先鋒)。岩沼~槻木を経て、13日、白石入り。岩沼在陣の鎮撫使に宛て止戦歎願書を提出。一方、出陣前後、2度にわたり会津藩に降伏勧誘使節を送り止戦工作。 
・秋田藩郡奉行井川小六・留守居岡内之丞、仙台より庄内征討命令を持って帰る。16日、征討軍573人編成。18日、新庄に本拠を構えた沢副総督より政府軍事役長屋清左衛門・山本登雲助が秋田に着、督軍にあたる。
・衝鋒隊、新潟を出発。
・岸田吟香(35)、横浜居留地九三番で米人ヴァン・リード主宰の新聞「横浜新報もしほ草」の創刊から編集に従事。

つづく



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