より続く
大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(1) 横浜駅、高島町付近
②寿小六年男子「横浜駅に鮮人たおれている」
二日はただ心がおどおどしていた。三日は我等市民のきもをひやした鮮人の一団である。市民は皆手に長刀竹などを持って警戒している。「わあ」 と、ときの声をあげて追いかえす。小銃の音はつづけざまに聞こえる。鮮人のざんこくなやりかたなどを聞くたびに、「おのれ鮮人」 と思う時がある。鮮人さわぎが大分おさまったので、五日いよいよ横浜を去ることになった。途中、横浜駅に鮮人があおむけに倒れている。かようなむざんな光景を見なから停車場についた所が、大勢の人が汽車を持っている。
③河原利助 (当時二一歳) 「横浜駅に竹槍で刺された朝鮮人」
〔九月二日、東京から戸塚の自宅まで歩いて婦る途中〕 12時すぎに横浜駅に着いたんですが、ひどいものでした。そこらじゅうに、焼死体がゴロゴロしているんです。駅のホームなんか、見られたものじゃなかったですね。それに、人が竹ヤリで刺されているのも見ました。あのとき、朝鮮人が騒ぎを起こしたというデマ宣伝がありましたからね。(「語りつぐ関東大震災 横浜市民84人の証言」)
(2)横浜公園、横浜港方面
②玉井忠一郎 (判事) 「公園の横に朝鮮人十数名殺されて居たと」
〔二日早朝親戚の浅川氏の話〕 同人のはなしでは裁判所は全壊、在庁の人々は全滅、街は朝鮮人が非行を働くので此の場合警官の手が廻らずどしどし私刑にして居る、現に公園の横で朝鮮人十数名殺されて居たのを見て来た。橋と言ふ橋は大概焼落ちて自分等は山を廻りどうとかして此処まで迄きた。往来は甚だ危険で武器を携帯しなければ歩かれぬ、との事であった。
(「横浜地方裁判所震災略記」一九三五年)
⑦長岡熊雄 (横浜地方裁判所部長判事) 「県保安課の巡査が「御上陸は危険です。鮮人の暴動です」と」
〔バリー丸に避難した裁判所部長判事が2日朝上陸したいと事務長に懇願するがなかなか許可がでなかった。〕事務長は「陸上は危険ですから御上陸なさることはできない。」といふ。何故危険かととへば「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し、市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。殊に裁判所付近は最も危険で鮮人は小道に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう。」といふ。私は初めて鮮人の暴動を耳にし異域無援の彼等は食料に窮し斯くのごとき兇暴を為すに至ったのであろうと考へ事務長の紹介した県保安課の巡査(其の名を記し置いたが何時か之を紛失した)に逢い其の真偽を確かめたところ其の巡査のいふには「昨日来館大暴動の噂が市内に喧しく 昨夜私が長者町辺を辿った時 中村町辺りに銃声が聞こえました。警官は銃を持って居ないから暴徒の所為に相違ないのです。噂に拠れば鮮人は爆弾を携帯し各所に放火し石油タンクを爆破させ又井戸に毒を投げ婦女子を辱しむる等の暴行をして居るとのことです。今の処御上陸は危険です。」といふ。私は「市内の巡査は什したのか」と尋ねましたら 「巡査も大多数は焼け出されて何処へ行ったか分からず残って居る者も飢餓に苦み活動に堪へられないのです」といふ。嗟無警察の状態か、天何ぞ我邦に災することの大なると心の内になげいて居た。
(「横浜地方裁判所震災略記」)
⑧O・M・プール (イギリス系商社員) 「警察により朝鮮人の暴動という不吉な噂」
〔横浜山手六八番地で被災、エンプレス・オヴ・オーストラリア号に助けられる。二日〕 私たちの一番大事な目的は、メイベル・フレイザーの足取りを捜し出すことであった。けれども、略奪や流血の惨事が横行して、陸上では明らかに事態が混沌たる有様だとの情報がもれ伝わっているため、エンプレス・オヴ・オーストラリア号の高級船員たちは、船から誰一人たりとも上陸させることを許したがらなかった。
〔・・・〕山手からきたかなり多数の住民たちは、湾に行ってみるかわりに根岸の丘陵地帯に安全な場所を見いだしていたが、いまでは警察が彼らに、港にいる船のほうへ行くよう警告を発しつつあった。というのは、根岸の監獄がくずれ落ち、脱走した囚人たちの群が、すでに人々を襲撃したり強奪したりしていたからである。〔・・・〕人々の流れは海岸通り沿いにキャンプ・ヒルと岸壁のほうへ向かって溢れつつあり、警察により、また朝鮮人の暴動という不吉な噂によってせき立てられていた。確かに、根岸の監獄には多くの朝鮮人の囚人がいたし、また何百という朝鮮人労働者が横浜東京間の工業地帯にいて、みな不満を抱いていた。しかし暴動が起こったなどというこれらの驚くべき話は、ショック状態にあるときの想像が作り出した虚構であった。不幸にして実際に起こったと思われることは、これらの作り話に踊らされた警察が、少しでも疑わしい振舞のある朝鮮人なら誰でも、そしてまた日本人朝鮮人を問わず現行犯でつかまったすべての略奪行為をしたものを、あるものは電信柱にくくりつけたり、他のものは射殺ないし死刑にしたりして、即決処分を行ったことである。私は、両腕をくくられた囚人たちを連行する警官の群を目撃したが、しかし流血の沙汰を見たわけではない。しかし、他の人々はそれを見て、しかも間にはいるだけの力もなく、いかにも残虐なことだったとのことである。それは一種の戒厳令のようなものであったと私は思う。確かに、それはたちまちにして混乱をおさめてしまった。
〔・・・〕その日曜日〔二日〕の夕方8時ごろ、イギリス領事代理のブールターは、ユーステイス・ストロング師の援助を得て、エンプレス・オブ・オーストラリア号の船上にいるすべての人々をトランプをする部屋に呼び集めて、翌日、行方不明の人々や郊外で生きのびた人々を捜索しに行く救助隊を組織するための会合を開いた。陸上では暴行や流血の惨事が起こっていることを考慮して、独身者だけが自発的参加を許された。危険は、単に想像上のものではなかった。ライズィング・サン(シェル石油)社のビル・ブラッチは、3年前にいっしょに10日間の山登りをしたこともある私の若い友人であったが、鎌倉の村で、朝鮮人容疑者と間違えられて、一団の暴徒に襲われ、そして、折よく現われたひとりの騎兵将校によって助け出されたときはすでに、棍棒でめった打ちにされて死んでいたのである」
(プール著・金井圓訳「古き横浜の壊滅 アメリカ人の震災体験」有隣堂、一九七六年)
⑪高橋茂(県職員) 「県庁を飛び出して」
〔第一中学で家族と再会。保土谷街道で食糧調達〕然るに突然に起ったあの嵐、自分は敢て嵐と云ふ。九月二日午前十時半頃、私は驚くべき報告を耳にしたのだ。某地方出身者に対する冤罪蜚語。けれども午後から終夜に亘るあの恐怖、修羅場、逃げ惑ふ人々、銃声、喚声、エスペラントを語り得ない我れ人の悲しみ、収容保護、論争、自刃、この俺を罵った多くの顔、時に憎むべき関東気質、でも俺は実証者なのだ。誤謬は訂正されなければならない。さうして人道は亡びない。我等は互に助け合ひ、且つ生きたのだ。ああ友よ、君は今何処で大工の業を励んでいるか。あの十五昼夜も物凄く天に沖して燃えた神奈川の石油会社の地獄の如き業火も、凡てこれ地震の仕業、不可抗力であったのだ。警備の手薄い横浜での語り草だ、只一語『猥りに疑ふ勿れ、神は愛だ』と丈云って置き度い。
(震災共同基金会編「十一時五十八分 懸賞震災実話集」一九三〇年)
つづく
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