より続く
慶応4年(1868)
2月6日
・下諏訪に向い進軍中の相楽総三に金輪五郎が追いつき、京都に戻るようにとの伊牟田尚平の手紙(忠告)を届ける。総三は伊牟田に感謝しつつも、進軍継続。この日、下諏訪到着。人足を含め総勢220~230。これまで同様「年貢半減」の高札を掲げる。
伊牟田は、「朝廷におかせられては大軍議をなされ、それにつき滋野井、綾小路の両卿をお召しかえしになった。そのことでいろいろ疑惑も起ったので、桑名から昼夜兼行で京へのぼり、伺ったところ案外の好都合で、両卿は会津攻めの総督を仰付けられるとのこと、この手紙着次第、昼夜兼行で、帰洛し、両卿に附属せらるべく、御僻論御無用、何にても人の忠告御用い然るべし、実に千里一歩の場合ゆえ、くれぐれも申し上げる」と忠告。
1月25日、綾小路俊実が鵜沼に泊った時、「赤報隊は速やかに桑名に到り総督の本営に会すべし」との命令が届く。綾小路は先鋒の相楽を鵜沼に呼び、「桑名にある東海道総督の許に行け」と言うが、相楽は応ぜず、「悪名を着るとも、旧幕府の主力を苅るペく自分たちは行動する」と言う。そこへ桑名の本営から伊牟田が駈けつけ、「相楽君それはいけない、本営へ行くべし」と勧告するが、相楽は応じなかった。伊牟田はこれを以て、「僻論御無用」「何にても人の忠告御用い可然」と言う。しかし、この時、相楽が桑名へ行っていたら、山本太宰らのように死刑を免がれなかったと推測される。
□この時点での赤報隊幹部。
総裁:相楽総三、大監察:科野東一郎(斎藤謙助)、監察竹貫三郎(菊池斉)・木村庄蔵(岡田信造)・金原忠蔵(竹内廉太郎)、監察使番:西村謹吾(菅沼八郎)・伊達徹之助(戸田恭太郎)・丸山梅夫(金井清八郎)・大木四郎(大樹匡)・小松三郎(福岡幸衛)、使番:金田源一郎(宇佐美庄五郎)・高山健彦(望月長三)・渋谷総司(大谷総司)・浅井才二(神田湊)、役不明:桜井常五郎・神道三郎(三浦秀波)
・東海道・東山道・北陸道、三道鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と改める。
・幕府別撰隊頭佐川官兵衛、中隊司令官に任命され、江戸城内でフランス式訓練実施。15日、容保は、藩兵全員を和田倉邸内に集め、慶喜に従い東帰したことを謝し、会津藩を守ることを近い励ます。
2月7日
・村田蔵六(大村益次郎)、京都に入る。
・近藤勇、銃創治療のため横浜の医学所に行く
・赤報隊木下四郎ら5人、官軍先鋒と称して信州・上田城下着。8日夕方、中之条陣屋(埴科郡中之条村)に向う。9日、ここで、勤皇の誓約をさせるために、松代藩真田家に向うものと小諸藩牧野家に向うものの二手に分れる。小諸藩(1万5千石)では議論の末、帰順と金穀献納(米200俵・金500両)に決まり、大木らは金だけを受取る。
・丸山梅夫と丸尾清が率いる遊撃隊大砲隊2隊22人、上田より軽井沢に向かう。碓氷峠~坂本~横川~安中藩3万石板倉主計家中の動静探索と碓氷峠の確保が目的。そのうち金原忠蔵が兵を率い合流。
2月8日
・慶喜、松平容保・松平定敬ら朝譴(チョウケン)を受けた者24名に登城を禁じ、江戸からの立ち退きを命じる。
・伊達宗城、神戸事件の滝善三郎(32)助命について兵庫でパークスと会見。10日、滝善三郎(32)、神戸永福寺で米人の目の前で作法通りに切腹。備前藩家老日置帯刀家臣。
フラソス公使ロッシュも減刑に賛意を表すが、イタリアとプロシャが反対。パークスは、自分が陸戦隊上陸を要求する旗を掲げた為に、事件を大きくしたと感じ(実際後日そのように批判されている)、減刑に反対ではないが、事務官サトウとミットフォードが、一旦決めたことを改めるのは良くない、日本人に今後如何に我らに対処すべきかを教えておく方がよい、と反対。
・秋田藩、羽州一円の触頭を命ぜられ諸藩に使節を派遣。庄内・松山・山形・上ノ山・長瀞の徳川譜代5藩には、錦旗に発砲せぬよう諭す。
2月9日
・ハンガリー、全労働者協会設立。ラサール主義の影響。
・8日に東海道総督橋本実梁より呼出しがあり、相楽総三は金輪五郎を連れて出発。19日、大垣本営着。23日、下諏訪帰着。留守中、北信州の追分軽井沢で戦争。
・(新3/2)大総督府・諸道総督府設置。有栖川宮熾仁東征大総督。東海道軍・東山道軍・北陸道軍の総指揮官。参謀:正親町公董(公卿)・西四辻公業(公卿)・広沢真臣(長州、12日、広沢は辞任し、西郷隆盛(薩摩)・林通顕(宇和島)が参謀となる)。3道の先鋒総督兼鎮撫使には夫々公卿2人(正副)を選び、そのもとに参謀をおく。参謀は、東海道に木梨精一郎(長州)・海江田信義(薩摩)、東山道に板垣退助(土佐)・伊地知正治(薩摩)、北陸道に黒田清隆(薩摩)・品川弥二郎(長州)。3道には既に官軍が鎮撫使としてくり出しているが、それを改めて再編成し、兵を増発。15日、有栖川宮大総督、出発。
江藤新平、東征総督府軍監に任命され、同じく軍監の小笠原唯八(土佐)と共に江戸偵察に出発。乞食に変装して潜行、東征軍を待受ける。
・奥羽鎮撫総督沢為量、副総督醍醐忠敬、任命。11日、参謀に品川弥二郎・黒田清隆に任命。26日、九条道孝を総督に、沢為量は副総督に任命。30日、参謀黒田が大山綱良(薩摩)に、3月1日、参謀品川が世良修蔵(長州)に交代(黒田・品川は会津征討方針に異論を持ち、参謀を辞任したと考えられる。世良は強硬派。政府部内では常に穏健派(寛典処分派)と強硬派(武力討伐処分派)がある)。
・天皇の親征大坂行幸、決定。
・永井尚志(なおゆき、54)、御役御免寄合。19日、逼塞。
2月10日
・「偽官軍」布告。東山道総督府より信州諸藩へ相楽隊取り押さえるべしとの布告。13日、京都に行っていた竹貫三郎が、相楽総三が不在の下諏訪の赤報隊陣に、政府の偽官軍布告を伝える。
東山道総督府の布告。「回章 高松殿京師御脱走ニテ人数召連レ、東国へ御下向之趣、右ハ決(ケッシ)テ 勅命ヲ以テ御差向ニ相成候義ニチハ無之、全ク無頼ノ奸徒、幼稚之公達ヲ欺キ奪出シ奉り侯義卜察シ侯、右無頼ノ者共、当総督様ノ先鋒卜偽り、通行ノ道々、金穀ヲ貪り、其他如何様ノ狼薄可有之哉モ難計候ニ付、諸藩イヅレモ此旨篤卜相心得右等ノ徒ニ欺レ不申様可仕候、尤右公達ニ於テハ卒忽之義無之様可仕候得共、人数ノ義ハ夫々取押へ置キ、総督御下向之上、御所置相伺ヒ侯様可仕旨御沙汰侯事 附、先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候人数、綾小路殿既ニ御帰京ニ相成供後モ、右ノ者共無頼ノ徒ヲ相ヒ語ヒ、官軍ノ名ヲ偽リ、きょう導隊抔卜唱へ、虚喝ヲ以テ農商ヲ劫シ、追々東下致侯趣ニ相聞エ候、右等モ高松殿人数同様之義ニ侯間、夫々取神へ置キ可申旨、被仰出侯事 二月十日 総督府執事」。宛名は堀左衝門尉(須坂1万石)、内藤若狭守(高遠3万3千石)、諏訪因幡守(高島3万石)、松平丹波守(松本6万石)、松平伊賀守(上田5万3千石)、真田信濃守(松代10万石)、堀内蔵頭(飯田1万7千石)、牧野遠江守(小諸1方5千石)、内藤志摩守(岩村田1万5千石)。
これより先、東山道鎮撫総督は、江州その他、赤報隊の通過した後々に布告。「近日滋野井殿、綾小路殿家来抔(ナド)卜唱へ、市在ニ徘徊イタシ米金押借り、人馬賃銭不払者モ不少候趣、全ク無頼賊徒ノ所業ニテ決而許容不相成候、向後右横之者於有之者捕へ置、早速本陣ヱ可訴出侯、若シ手向等致シ候モノハ討取侯トモ不苦段、被仰出候事。但シ此後岩倉殿家来抔卜偽り、右等之所業ニ及侯モノ可有之哉モ難計、聯ノ用捨ナク同様之取計可致旨、御沙汰ニ候事 戊辰正月 東山道鎮撫総督 執事 東山道諸国宿々村々役人中」
・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、徳川家威信回復を主張し、登城禁止となる。
・小笠原壱岐守長行、老中職辞職。
つづく
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