大正12年(1923)9月3日
【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(1)中村川、堀割川にそって
④南吉田小6年女子「堀ノ内の方から連れて来た朝鮮人、中村橋の上で切ったりぶったり、ついに橋の上から川へ落とされた」
(略)三日はおしる〔昼〕ごろからきんぢよの人たちはかたなおもつたりやりおもつたりてつぼうおもつたりしてなにおするのだろうとおもつていますとほりのうちのほうか一入りの大おつれてわあわあといつて中村橋の上へきました その一人りの人はちやうせんぢんでした。ちょうせんぢんを橋の上でおおぜいの人たちがかたなできつたりてつぼうでぶったり やりでつついたりしていました。しまいには川の中へはおりこんでしまいました。よるになるとちゃうせんぢんが火おつけにくるとゆうことおきいていましたが〔か〕らよるはおきていました。一日に五六たびありました。四日と五日はちゃうせんぢんのことばかりでおつかなかつた。
⑥西河春海(東京朝日記者)「天下晴れての人殺し」
〔9月3日中村町の方へ同僚の安否を訪ねた帰り豪雨にあい、千歳橋停留所付近に焼け残っている電車の中での労働者風の人たち4、5人の会話〕
「旦那 朝鮮人は何うですい。俺ァ今日までに六人やりました。」
「そいつは凄いな。」
「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」
雨はますます非道くなって来た。焼跡からはまだ所々煙が昇ってゐる。着物も傘もない人々は、焼跡から亜鉛の焼板を拾って頭に翳して、雨を防ぎながら、走り廻っている。
凄い髭の労働者は話し続ける。
「この中村町なんかは、一番鮮人騒ぎが非道かった。一人の鮮人を掴へて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで、女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投げ込だといふ話だ。そんなのはすぐ擲り殺してやったが・・・。」と言ふ
「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・焼けちゃって縄なんか無えんだからネ・・・。そして擲る、蹴る、鳶で頭へ穴をあける、竹槍で突く、滅茶滅茶でサア。しかしあいっ等、眼からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝がむが、決して悲鳴をあげないのが不思議だ」といふ。底にたぎる情熱を持って、決して死をも恐れず黙々として寧ろ死に向ふといふ朝鮮の民族性が考へさせられる。
「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中じゃあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなで掴まえようとしたんだ。」
昔、或る国に死刑よりも恐ろしい刑罰があった。それは罰人を身動きの出来ないやうな、三尺四方の位の箱の中に入れて、死ぬまで動かさずに生かして置くといふのた。俺はそれを思い出し乍ら聞いてゐた。
「奴、川へ飛込んで向こふ河岸へ泳いで遁れようとした。旦那石って奴は中々あたらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、-つも当たらねえ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。10分位も水の中にもぐってゐた。しばらくすう〔る〕と、息がつまったと見えて、舟の直そばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。・・・まるで材木といぶ形だアネ。」といふ。
「舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一でも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから・・・」
ああ、俺にはこの労働者を非難できない。何百といふ私刑が行はれたであろう。しかし総てが善悪の意識を超越して行ほれてゐる。避難すべきでもなく、さるべきでもない。暗然たる淋しさのみが心を領していく。
(「横浜市震災誌」)
⑩ねずまさし(歴史学者)「堀割川八幡橋附近の自警団に殺されかけた私」
大地震は私が中学3年生の頃である。私は、横浜の西南海岸にある根岸町にすむ伯父高木仁太郎の宅にいた。高木は根岸小学校の古い教員だった。9月3日ごろになって「朝鮮人が来るぞ!」という、うわさをきいた。その夜になると町内の在郷軍人会長である、陸軍将校が青少年を集めて、「軍からの命令であるが、ただちに武装して自警団を作らねはならぬ。その理由は、不逞の鮮人が、みんなを殺しにやってくる。もう東京でも横浜市内でも、日本人が殺されている。今夜あたりは、この辺にもくる予定だ」といって、自警団を作り、十字路や橋のたもとに数名ずつ交替で、朝まで不寝番をすることを命じた。私は一大事とばかり日本刀をもちだして、定められた不寝番の場所に行った。そこで私たちは大人から、合言葉「山といえば、川と答える」などを教わった。夜中の1時頃になると、遠くの方で「朝鮮人がきたぞ!」という叫びがする。叫びはだんだん近くなり、声の数も多い。叫びは根岸の南どなりの八幡橋の方からきこえてくる。私たちほ掘割にでて、こちらの岸に集って、叫びのする方から逃げてくるはずの朝鮮人を待った。橋は八幡橋一つしかない。叫びは向岸からする。こちらの岸は人で一杯、まだ暑いから、みんな白シャツだったので、暗いなかにも白い人影がしきりと動く。向う岸でも白色のかたまりが、岸にそって長く展開している。
掘割の幅は十間ほど、岸には釣舟が5~6隻繋いである。突然向岸で「朝鮮人が水の中にとびこんだ!」と叫んだ。しかし水面はまっ黒で、白い姿もない。船の上にも人影はない。要するに「朝鮮人がくるぞ!」と叫んで集ってきた人々は、実際には集まっている仲間のほかに何も見ないので、「水中にとびこんだ」と叫びだしたのである。ところが誰も水中にとびこんだ音をきかないし、白い影もみない。したがって、こちら岸では、あまり騒がなかった。むしろ拍子ぬけで、水面をながめていた。ボツボツ帰る人もでてきた。しかし、自警団のなかで言わかく、そのうえおっちょこちょいの私は、いきなり岸から釣船の上にとびおりた。その時は日本刀をもたず、棒をもっていたので、船べりから水中に棒をさしこんで、人が船底の裏側にひそんではいまいかと、かきまわしてみた。5~6隻の船の上を廻って異常がないので、岸に上がろうとすると、2~3間さきで「朝鮮人がいた!」という叫びがした。びっくりしてそのほうをむくと、「そこにいる、そこにいる」といって、数人の人が私の前の岸にかけつけて、「こいつだ!こいつだ!」と叫んだ。今まで私のすることをみていた町の人々は勢にのまれて、私をなかめているだけだ。あまりの騒ぎに、驚いて口がきけなかったらしい。
「やっちまえ!やっちまえ!」と、さきの人々がさわぐ。すると町内の人らしいのが「そうだ、合言葉だ。合言葉をいえ!お前の合言葉はなんだ」と私にどなりつけた。自分が朝鮮人といわれたことに気づいた私は、すっかり上ってしまって、口がきけない。目の先には、日本刀や小銃の剣先(この小銃は小学校から持ち出してきた)が4~5本つきだされた。「早く合言葉をいえ、すぐ言わぬと、殺すぞ!」と叫ぶ。1人でなく、何人もがやがやとやりだした。いよいよ上ってしまった私は、舌がちぢんで声がでない。「合言葉がいえねえば、何とかいえ!だまっているなら、いよいよ朝鮮人だ。かまわねえから、やっちゃえ!」と。向う岸の罵声も背中にひびいてくる。「やっちゃえ、早く殺しちまえ!」
しかも私は自分が殺されるとは毛頭感じない。まだ他人のことのようだった。するといきなり提灯と一緒に剣銃がスーツと鼻先にのびてきた。この時になってはじめて「これは大変だ、殺される」と感じ、何かいおう、合言葉をいおうとするが、どうしても出てこない。キョトンとして提灯と剣先を眺めるだけだった。
その時「一寸まった。シャツがぬれていないぜ。向岸から、とびこんだんなら、シャツがぬれているはずだ。シャツがぬれていないじゃないか。まあ、みんな少しおちついてくれ。こいつを上へあげてから、殺すのはそれからでもいい」と、おちついた声が頭の上でした。しかし、「面倒くさい、やっちゃえ!」という叫びも、その人の後でする。岸の上から私の方に手がさしだされた。私はそれにつかまって、岸のふちにとびあがった。たしかにシャツはぬれていない。だが人々は我慢できない、「シャッがぬれていなくたって、朝鮮人にきまっている。船のなかにかくれていたんだろう。早いとこ、やっちまえ。合言葉をしらなけりゃ、朝鮮人にきまってるんだ」とさわぐ。提灯とー緒に、数十の顔が私の眼前にあらわれ、恐ろしいランランたる眼が私をにらんで、今にも、くいつかんばかりだった。
すると、私の町内の人らしいのが、「おや、これは朝鮮人じゃないよ。高木先生のうちにいる中学生だ。なんだ、お前か、人騒せするなあ。もう少しだまっていれば、本当に殺されるところだぜ、合言葉をいいなよ」とやさしく言葉をかけてくれた。私ははじめてポットしたが、やっぱり合言葉は出てこない。「僕は、朝鮮人が川の中にとびこんだ、というので、船の上にとびおりて、さがしていたんです」とやっと言い訳をした。シャツはぬれていないし、町内の人の話もあったので、周りのたくさんの顔は、すっかり失望してしまった。「なんだ!日本人か!」といって、つまらなそうに、ちりぢりになって、立ち去っていった。向岸から「どうした、まだぐずぐずしているのか」と叫ぶ。「ちがうよ、日本人だ!」とこっちから答える。こんな調子で人々は大地震と火事の恐怖のために、まったく朝鮮人来襲を信じこんでしまっていた。それからの数日の間、まだ来襲のうわさはつづいた。〔・・・〕
そのころ多感な少年の僕は、朝鮮人がこの町で殺されてゆく現場を見ることはなかったけれども、歴史家の高橋君は、当時小学生として、同じ町の芝生(今は東町)という海岸に住んでいたため、遠浅の海辺で、幾人もが刀や棒でなぐられ、斬られて、なぶり殺しにされてゆく光景を目撃して、非常な恐怖におそわれたという。
(ねず著「『現代史』への疑問」三一書房、一九七四年)
つづく
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