【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月3日(その1)「堀ノ内の方から連れて来た朝鮮人、中村橋の上で切ったりぶったり、ついに橋の上から川へ落とされた」
より続く
大正12年(1923)9月3日
【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近
⑦神奈川県立工業学校機械科三年男子「東坂では、刀で鮮人の首をはねて川へ投げ込む」
9月2日(日曜日) 〔・・・〕平常犬も通らない淋しい山中がまるで市場の様、其の夜に入って、朝鮮人さはぎが始まった。
9月3日(月曜日)終日夜気よし、残暑なお烈しい。夜は全く明けはなれる。暁頃より社会主義者出口某盛に演説を行ひ、玄米醤油等を分配す。これ配給の始めならん。午後より人々商品倉庫、ドック倉庫で南京米を取りに行く。近所の仕立師が2俵担いで来たのには驚いた。人も欲には勝てないと見える。狸坂付近で、労働者体の奴等が5、6人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいぶ人もない。世は全く無政府状態に化した。
9月4日(火曜日)雨、寒さ少し加はる。鮮人さはぎは益々大きくなって行く。白昼白刃を振っている人。竹槍を持っている人。銃をかついでいる人。鋸を持っている者。まるで戦国時代そのままである。人々と共に裏山へ柿をとりに行く。なにしろ先頭に白刃を持った人が行くのだから、山主などはぐうの音も出ない。1時間もかかって柿を10ばかり取ってやっと副食物にありついた。夜に入って各自警団が敵味方を識別する為、山川の相言葉をつくる。まるで赤穂の義士の打入そのままである。
9月5日(水曜日)晴、田舎へ引越す。市内に軍隊が来た。彼の山口一味の人もいづれへか姿を消した。一先づ田舎へ行くことにした。引越といつで〔て〕も着のみ着のまま、まるで乞食の宿換へそっくりである。五里の道を自警団の人々に護られて9時頃原町田に着く。村へ入るとすぐ巡査がきて、身元調査をする。当地でも例の鮮人さはぎで大へんである。夜を徹して銃の音がかすかにきこえる
⑧石川小高等科二年女子「手から足からかたくしばられていて、電信にゆわえつけられていた」
人々はきゅうに朝鮮人がくるといふので、男の人たちはたけやりをこしらえたり、鉄のぼうを持ったりしてねずの番をした。私もおちおちな〔ね〕られないので、ちょいちょい目をさましたりして、一夜を明かした。朝起きると朝鮮人がつかまっていたので、わいわいいっている。私はこはごは見に行った。其の人は手から足からかたくしばられて、電信にいはい〔ゆわえ〕つけられていた。其のまありには、たけやりをもった人たちがかたまっている。其の中の一人が、なかまは幾人だと聞いたらただ首をたれて何もいはないので、ぶてぶてというのがどこからでも聞こえた。私はあまりのこはさに帰って来て話をしたら、かはいそうだけれども、しかたがないといふひともあれは、もっとやればいいのにといふ人ばかりである。その夜はすんで、四日の朝になった。〔・・・〕よなかごろ、わあわあというのかした。おもはず、目をさまして起きて見ると、バンザイバンザイとする声であった。私はこのさはぎにどうしてバンザイしているのだと母に聞いたら、兵隊が来たからバンザイバンザイといっているのだといった。私はその時、うれしくてなんといっていいかわからなかった。〔・・・〕もう兵隊が来てから、朝鮮人をすくなくなり、人もやすらかになって来た。
㉗石川小高等科二年女子「朝鮮人と見たら殺してもよい」
〔家の裏の山、二日〕今晩は、と ぬきみを下げた男の人が来て、朝鮮人が襲来してきたから朝鮮人と見たら殺してもよい、外出するには一切武器を持って行きなさいと、ほうぼうで言って歩く。怖い思いをして、又怖い目にあわなければ良いがと思って身震いをした。〔三日の朝〕六時頃、向ふ山で女の人が、皆さん、早く来てくださいよう、朝鮮人が此っちへ逃げて来て此の西洋館に入って居から、早く、早くと手まねぎをした。銃の音であろう、ヅドン、ヅドンとなった。半潰の西洋館に皆んなはどんどん入って居って、朝鮮人を表へつき出して、棒でやる者や丸太でぶって居る。すると其の朝鮮人は頭をおさへて、あいたいよ、あいたいよ、御免よ、御免よと逃げまおって居る。其の鮮人は、すぐに警察につれて行かれたのであろう、又もや三日の晩は来た。
(3)本牧町、根岸加曽海岸方面
③齋藤竹松(判事) 「本牧中学校庭が在郷軍人団の本部に」
九月三日 当時不逞鮮人襲来するとの噂ありて人心恟々として各自避難場所を警戒すと、団体として警戒するにあらざれば危険なりとて隣助相団結するに至れり。時に本牧中学は震災の厄を免れたるを以て鮮人は該校を目標として襲来するとか或は放火するとか種々の噂有り、若し此際に於て本牧中学校焼失せんか其附近の災厄を免れたる建造物は全部類焼を免れざる危険あるとし警戒は本牧中学を中心として自警団を組織すべしと協議し、該校庭を以て在郷軍人団及び青年団の本部と定め、箕輪下青年集合して自警団を組織するに至り一面本牧中学校を警戒する小林勝なる者奔走するに至り同校内に救護部を設け無料治癒を施す為山口医師を嘱託して応急手当を為し重症患者は学校内に避難するに至りたり。
(「横浜地方裁判所震災略記」所収「遭難手記」)
(6)寿尋常小学校の作文集(「大震災遭難記」)
四年男子1 そのあくる朝〔三日〕おきてみると、みなさんがたが、みなほうをもっていました。なんでほうをもっているのかとききますと、朝鮮人がみなをこまらすからこのぼうでつついてやるんだといいましたのでした。ではわたくしに一本おくんなさいといってもらいました。それで兄さんといっしょにでかけました。するとみなさんがたが、朝鮮人をつついていましたからわたしも一ペんつついてやりましたら、きゅうとしんでしまいました。またそのひとのあとをついていくと、またちょうせんじんがぴすとるをもってうとうとしましたからにげてきてしまいました。
四年男子2 三日朝見れば朝鮮人がたくさん川の中にいて死んでいました。
五年男子5 二日はただ心がおどおどしていた。三日は我等市民のきもをひやした鮮人の一団である。市民は皆手に長刀竹などを持って警戒している。「わあ」と、ときの声をあげて追いかえす。小銃の音はつづけざまに聞こえる。鮮人のざんこくなやりかたなどを聞くたびに、「おのれ鮮人」と思う時がある。鮮人さわぎが大分おさまったので、五日いよいよ横浜を去ることになった。途中、横浜駅に鮮人があおむけに倒れている。かようなむざんな光景を見ながら停車場についた所が、大勢の人が汽車を持っている。
学年不明男子3 〔三日朝、立野〕 お茶をもらっていると 青年団の人が来て 日本人はうでに赤いきれで印しをしてをかないと朝鮮人とまちがえられますといい けんつき鉄砲を貸してくれました 4日朝起きて山えやさいを取りに行って帰ってくると勇ましいらっばの音が聞こえて来ますから 助けの兵たいが来たとおもって喜んできいて見ると 朝鮮人が来た合図でした それですから安心はできませんでした 食料をとる時なぞは命がけでした 日を曽にしたがて安心で来る様になりました。
(7)磯子尋常小学校の作文集(「震災に関する児童の感想」)
六年男子5 三日朝鮮人が隊を組んで日本人をころすといった。三日昼頃朝鮮人がきたので、撲らは竹やりやいろいろのどうぐうのはのついたのをもってきんちようをしめしている、僕は外にでるところされるといったから、外にでませんでした しぜんのちからもひとのちからもつよいと思ひます。
高等科一年男子2 三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを待たり刀を盾たりしてあるき回ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見るときびの悪いほどである。また食料を見つけにいったりして 其れたべていたのである。朝鮮人騒は約二週間の間であった。また正金銀行の前へには大勢の人が死んで山の如であった。其れから地震も時々行たけれども皆小いのであった。
(11)南吉田第二尋常小学校の作文集(「震災記念綴方帖」)
六年男子20 こ屋のとこにはいって いろいろのはなしをしているとちよせんがあばれてくるからきよつけてくたないといつたかへたけをつくてないやりみたいのをつくてよちんをもているとくろくろとしてきたかと・・・〔三日目〕僕のうちのしっている人がしょうぎょう学校にいるからこいといったからいきました。そして、ゆく道にはあちこちにはちよせんしんが川にやら道にやらころかていました
六年男子32 〔狸坂の親類〕三日の朝頃から朝鮮人さはぎで夜もろくろく寝れなかった。
つづく
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