より続く
慶応4年(1868)6月
・箱館医学所を箱館府民生方病院と改める。
・岡本監輔、十数名の官吏と箱館で募集した農工民200余を率いクシュンコタンに上陸、公儀所を設置。
・オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、ベーメンの首都プラハ訪問。冷ややかに迎えられる。
6月1日
・米沢藩、新潟接収・管理。
以後、会津・米沢・仙台・庄内・村上など諸藩、新潟に重臣を派遣、同港を奥羽越列藩同盟諸藩が共同管理。同盟会議所がおかれ、同盟側の重要な補給港となる。
3日、会津・仙台・米沢・庄内4藩重臣、新潟開港を協議、開港と同盟結成を諸外国に伝えることを決める。最初にプロイセンに連絡され、これを承認したプロイセンにより各国に伝えられる。列藩同盟は代表団を横浜に送る。
米沢軍は旧幕臣安田幹雄・馬場八郎・会津藩軍事顧問ヘンリー・スネル等の指導を受け、新潟の民衆を徴発し新潟防衛の為の砲台を設営。4~5基が6月上旬頃に完成し、米沢軍が安田やスネル達から指導を受けて調練を行なう。後、この砲台の砲撃が新政府軍軍艦「摂津」に命中弾を与える。米沢軍総督色部長門は光林寺に宿泊し、そこから同盟会議所に通い、会津藩家老梶原平馬・仙台家老芦名靭負・庄内藩家老石原倉右衛門らと、武器輸入・蚕種紙輸出の手配、諸外国への同盟の主張を伝える文章の作成等を行う(常駐は色部のみで、実質、色部が新潟を運営)。この色部等の努力により、新潟港は同盟軍後方補給地として稼動し、西洋化の遅れている同盟軍に多数の小銃・弾丸を供給。
・越後戦線(赤坂・杉沢方面の攻防)。同盟軍、赤坂峠を抜けず敗走。死傷者多数。
1日、同盟軍は、①赤坂峠と左右間道を進む米沢軍5小隊(古海勘左衛門隊・山下太郎兵衛隊・桃井清七郎隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)・長岡軍1小隊(森一馬隊)と砲2門・会津軍朱雀隊寄合2番隊半隊(土屋総蔵)・村松藩2小隊(速水滝右衛門隊・青木剛八隊)による本道軍と、②赤坂峠西の山中を迂回して見附・杉沢間にある堀溝村を攻撃する米沢軍3小隊(徳間久三郎隊・高野広次隊・三矢清蔵30匁大筒隊)・長岡軍1小隊(稲垣林四郎隊)・会津軍青龍士中3番隊(本木慎吾)・村松藩兵若干による別働隊に分かれ進軍。同盟軍本道隊は、赤坂峠山頂に布陣の松代軍12番大砲隊を退却させ、山頂を占拠し、峠を下る。下りの斜面には松代軍6番狙撃隊(海野寛男)・4番小隊(山越新八郎)が布陣し、猛烈に抵抗。この間に、陣容を立て直した松代軍12番大砲隊(砲2門)と、杉沢村から長州軍奇兵隊4番隊(能見兵児)が援軍に駆けつけ反撃、同盟軍本道隊は赤坂峠から離脱し長沢村に敗走。別働隊は迂回に成功し、赤坂後方の見附との補給線の堀溝村を守る新政府軍守備隊を敗走させ、堀溝村に貯蔵された物資を焼くなどの戦果を挙げる。しかし、見附から薩摩軍城下士小銃10番隊半隊・松代軍8番狙撃隊(小幡助市)・3番小隊(吉村左織)が援軍に駆け、別働隊も長沢村に敗走。この日の戦いでは同盟軍は多数の死傷者を出し敗北。米沢軍小隊長山下太郎兵衛・村松藩軍監奥畑伝兵衛・同藩小隊長青木剛八始、戦死。
・政府軍錫懐丸(しゃっかい、加賀)、兵器弾薬を搭載し柏崎港に到着。5日、環瀛丸(かんえい、筑前)、弾薬80万発・大砲4門・砲弾1千数百発・後装銃弾3万発・その他器具・糧食を満載し柏崎着。
・米、第15代大統領ブカナン(77)、没
6月2日
・英、労働組合会議第1回大会開催。
・越後戦線(今町攻略戦)。同盟軍長岡山本帯刀隊(牽制隊)・長岡河井継之助隊(本隊)・米沢藩千坂隊(別働隊)、三条から出撃。山本隊の働きにより、河井率いる本隊は信濃川沿いを進み今町を攻略。一方的勝利。
1日、長岡藩家老河井継之助・米沢軍参謀甘粕継成(見附方面から戻る)・会津軍佐川官兵衛ら、三条で軍議。今町村を攻略し長岡城奪回の橋頭堡を築くとの決定。昼頃、出撃。同盟軍は、軍を三分し、①刈谷田川東岸に沿って進み今町の搦手の安田口を攻撃する河井率いる長岡軍2小隊(斎田轍隊・田中稔隊)と砲2門・会津軍朱雀隊士中4番隊(佐川官兵衛)による中央軍、②三条~今町の本道を進み坂井口を攻撃する山本帯刀率いる長岡軍3小隊(小島久馬右衛門隊・大川市左衛門隊・九里磯太夫隊)による左翼軍(後に米沢軍2小隊も参加)、③刈谷田川西岸に沿って今町の刈谷田川対岸の集落の在る中之島口を攻撃する古屋佐久左衛門率いる長岡軍2小隊(本富寛之丞隊・槍隊池田彦四郎隊)・衝鋒隊による右翼軍、が今町を目指し進軍。
対する新政府軍は、主力の長州軍・薩摩軍・松代軍が見附・杉沢・赤坂・与板方面に拘束され、今町方面守備は本道の坂井口に高田藩2小隊(設楽宰助隊・坂田藤江隊)・上田藩半小隊、搦手安田口に尾張藩1小隊(高橋民部隊)、見附口に上田藩1小隊、刈谷田川西岸の中之島口に高田藩1小隊(榊原若狭大隊内1小隊)と地元の志願農兵隊の方義隊2小隊の、少数弱兵の戦力が布陣。
2日正午頃ほぼ同時に同盟軍は三方から攻撃開始。新政府軍が陽動役左翼軍に注意を傾けている間に、河井率いる中央軍が安田口を猛攻、尾張藩1小隊は瞬く間に崩れる。同盟軍右翼軍の攻撃を受けた中之島口では、高田藩1小隊が早々と敗走、志願農兵部隊の方義隊は奮戦するもののこれもまた敗走。今町陥落の危機が見附に伝わり、見附方面指揮の薩摩藩淵辺群平・長州藩三好重臣・長府軍報国隊軍監熊野直介が、奇兵隊3番隊(堀潜太郎)半隊を率い駆けつけ。しかし、三条から米沢軍2小隊(柿崎家教隊・土肥伝右衛門隊)が坂井口に来援し、新政府軍は未だ劣勢。しかし、淵辺・三好等は少ない戦力を有効に活かして迎撃し、同盟軍を圧倒、長岡軍小隊長斎田轍戦死などの損害を与える。河井・古屋・佐川等は兵を叱咤し、再び同盟軍が攻勢を強め、夕方頃、新政府軍は、三好が負傷、堀が重傷(後に没)、熊野が戦死と指揮官が倒れ崩壊。唯一健在の指揮官淵辺が敗兵を上手く纏めて撤退し、辛うじて壊滅の危機から逃れ撤退。今町の新政府軍が撤退すると、坂井口の新政府軍も退路を絶たれるため撤退、見附口を守る上田藩兵も見附に敗走し、今町方面の新政府軍は完全に駆逐。しかし、同盟軍も新政府軍追撃の余力は無く、今町に火をかけ一旦三林に後退。
山県有朋は、今町から長岡を突かれるのを危惧し、見附・杉沢・赤坂・栃尾に布陣する軍勢を後退させ、今町~長岡の途中の八丁沖西岸の十二潟・筒場・福島・大黒、東岸の浦瀬等の集落に再布陣するよう命令。
同盟軍は、新政府軍が後退した事により、4日、見附方面に米沢軍斉藤篤信大隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・大津英助隊・潟上弥助隊・西堀源蔵隊・古海又左工門隊・石栗善左工門300匁大筒隊・桐生源作30匁大筒隊及び畠山修蔵大砲隊)と大井田修平大隊(増岡孫二郎・曾根敬一郎・戸狩左門・長右馬之助隊・山崎理左工門隊・三股九左工門隊)・衝鋒隊が進駐、赤坂峠を越え杉沢方面にも米沢軍8小隊(古海勘左衛門隊・桃井清三郎隊・岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松本蔵之助隊・徳間久三郎隊・高野広次隊・山下太郎兵衛隊)・長岡軍・村松藩兵が進駐。
・輪王寺宮、会津に入る。
・京都府、上下京の年寄を出頭させ、各町に議事者3名づつ(年寄1、惣代2を入札で選ぶ)を定めるよう命じる。上意下達だけでなく、立法布告にあたっての諮問、各町間の協議など行う。京都府御用掛広沢真臣の施策。8月には京都町組を改正。五人組を隣保団結を主眼とするものに改正、「戸籍編成仕法」実現(後の各府県の戸籍編成法のモデルとなる)。
・梅村速水、新設高山県知事に任命。
天保13(1842)水戸藩士の次男として誕生。文久3年藩主慶篤の上京に同行、諸国の志士と交わる。元治元年(1864)天狗党筑波山挙兵に参加、敗れて水戸藩脱藩。美濃の揖斐の勤皇志士棚橋衡平に庇護をうける。棚橋は上京し、岩倉らと関係を深める(明治3年民部権大輔)。梅村は明治元年4月18日、徴士内国事務局判事として笠松(美濃)裁判所在勤。明治2年3月14日知事免職。
6月3日
・九条総督と肥前・小倉藩兵率いる前山精一郎、仙台藩より盛岡藩入り。藩論統一みない盛岡藩は軍資金1万両献金、一行は滞在20日余りで同月24日秋田へ進発。
・米沢藩主上杉斉憲、米沢城出陣。現在のJR米坂線沿いに約70kmを踏破、6日、越後下関に着陣。
・榎本武揚、勝海舟に仙台・米沢藩支援意志を告げる。勝は、会津藩を信じてはいけない、東北諸藩の勝利の見込み薄なこと、「朝敵行為」は徳川家のためにならない、と忠告。榎本は東北諸藩と共に戦う考えを捨て、箱館行きを決意。7月、仙台・米沢藩士が榎本に協力を要請するが、21日徳川家が主従が静岡に落ち着くのを見届けた上で、動かない旨告げる。そして、徳川家の移住が完了する8月20日頃、諸船を引率して仙台へ行くと約束。
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