2020年8月10日月曜日

猛暑でかつコレラが猛威をふるった明治23年(1890)夏の漱石と子規 

 1890年(明治23年)

漱石と子規は23歳。この年9月10日、漱石は東京帝国大学文科大学英文科に、子規は東京帝国大学文科大学哲学科に入学する。

また、この年の夏は記録的な猛暑。6月に長崎で発生したコレラが次第に東漸し、東京市中でも患者の数が激増しつつあった。

「七月二十三日(水)、京橋区木挽町一丁日にコレラ発生。フィリピン群島で流行したものが、清国から長崎・大阪を経て侵入し、八月下旬から猛威を振い、九月二十四日(水)、一日だげで百四十八人もの新患者を数え、十一月には消滅する。東京府の患者総数四千二十七人、死亡者三千三百七人。(全国の総患者数は四万六千十九人、死亡者三万五千二百二十七人である)」(荒正人『増補改訂 漱石研究年表』(集英社))

この年、8月9日に漱石が送った子規宛て書簡から二人の間に齟齬が生じるが、月末には二人はこの危機を乗り越え友情を深めるという結果で事態は収束する。

■厭世的な気分が充満している漱石の子規宛て手紙

8月9日 この日付けの漱石の子規宛て手紙。眼病に悩み書籍も筆硯も一切放抛、浮世がいやになるも自殺するほどの勇気なしと。漱石は、この頃、厭世的な気分に陥っている。

「爾後眼病兎角よろしからず。其がため書籍も筆硯(ひつけん)も悉皆(しつかい)放抛(ほうほう)の有様にて長き夏の日を暮しかね、不得己くゝり枕同道にて華胥(かしよ)の国黒甜(こくてん)の郷と遊びあるき居候得共、未だ池塘(ちとう)に芳草を生ぜず、腹の上に松の木もはへずこれと申す珍聞も無之、この頃ではこの消閑法にも殆んど怠屈仕候。といつて坐禅観法はなほできず瀹茗(やくめい)漱水の風流気もなければ仕方なくただ「寐てくらす人もありけり夢の世に」などと吟じて独り洒落たつもりの処瘠我慢(やせがまん)より出た風雅心と御憫笑可被下候。しかシ小生の病はいはゆるずるずるべッたりにて善くもならねば悪くもならぬといふ有様故、風光と隔生を免かれたりと喜ぶ事もなきかはりには、韓家の後苑に花を看て分明ならずといふ嘆も無之、眼鏡ごしに簾外の秋海棠の哀れに咲きたるををかしと眺むる位の事は少しも差支無之候。・・・・・(略)この頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやでいやで立ち切れず、去りとて自殺するほどの勇気もなきはやはり人間らしき所が幾分かあるせいならんか。「ファウスト」が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて遂に飲み得なんだといふ「ゲーテ」の作を思ひ出して自ら苦笑ひ被致(いたされ)候。小生は今まで別に気兼苦労して生長したといふ訳でもなく、非常な災難に出合ふて南船北馬の間に日を送りしこともなく、ただ七、八年前より自炊の竈(かまど)に顔を焦し寄宿舎の米に胃病を起しあるいは下宿屋の二階にて飲食の決闘を試みたり、それはそれはのん気に月日を送りこの頃はそれにも倦(あ)きておのれの家に寐て暮す果報な身分でありながら、定業(じようごう)五十年の旅路をまだ半分も通りこさず、既に日竭(つ)き候段、貴君の手前はづかしく、われながら情なき奴と思へどこれも misanthropic 病なれば是非もなし。・・・・・

・・・・・これも心といふ正体の知れぬ奴が五尺の身に蟄居する故と思へば悪(にく)らしく、皮肉の間に潜むや骨髄の中に隠るるやと色々詮索すれども今に手掛りしれず。ただ煩悩の焔熾(さかん)にして甘露の法雨待てども来らず。慾海の波険にして何日彼岸に達すべしとも思はれず。已(や)みなん已みなんなん。目は盲になれよ耳は聾になれよ肉体は灰になれかし。・・・・・

(略)小生箇様な愚痴ッぽい手紙君にあげたる事なし。かかる世迷言申すはこれが皮きり也。苦い顔せずと読み給へ。

                               漱石拝

子規 机下

*華胥の国黒甜の郷 ; 「華胥」は中国古代の黄帝が昼寝の夢のなかで遊んだという平和な理想郷。「黒甜の郷」は、おなじく昼寝の夢であそぷ世界、の意。「黒甜」は昼寝をすること、うたたね。

*未だ池塘に芳草を生ぜず ; 「池塘」は池の堤。宋の朱熹「勧学詩」の句に「未だ覚めず池塘春草の夢」(池の堤に春草が萌えるころ、楽しくまどろんだ夢からまだ覚めない)とある。

*風光と隔生を免かれたり ; 張籍「忠眼」の詩の起承句に「三年眼を患いて今年ややよし、風光と生を隔つるを免かる」とある。

*韓家の後苑に花を看て分明ならず ; 前注の詩の転結句に「咋日韓家後園の裏、花を看てなお末だ分明ならず」とある。

■漱石の懊悩

この漱石の「煩悩」は、兄和三郎の妻登世に対する思慕が原因とするのが江藤淳であるが、大岡昇平は『小説家夏目漱石』の中でそれを批判している。

坪内祐三さんの解説は以下の通り。

「兄嫁に対するかなわぬ恋の思いもあったのだろうが、私は、この漱石の憂鬱は、やはり、時代に対する違和感だったと思いたい。上の学校に進んで行った、七人男の四人の内、熊楠はすでに大学予備門でリタイアし、海外留学の道を選び、ひと足先に帝国大学に進学した紅葉もこの年夏に中退、手紙の相手である子規も、やがて大学を中退することになる。つまり彼らは皆、エリートとしての道を捨てる。その中で一人、漱石だけが、その道を突き進む。しかし彼は、(立身出世主義を含めて)固まりつつある日本の近代化に違和感を覚え始めていた。それが彼のふさぎの虫の原因だったのではないか。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫)

司馬遼太郎がいう「漱石の悲しみ」の端緒ということになるのだろうか。

ちなみに、同年の紅葉・露伴は読売新聞の記者として活躍、紅葉はすでに流行作家であった。

■励ます積りの子規の手紙だったけれど、、、

8月15日、この日付けで子規は弱音を吐いた漱石宛てに手紙送る(詩人が「無垢清浄、人間以外の詩思を得る」時は、「詩人ハなほ詩神として存在する」と)。

「弱音を吐いた漱石に対する子規の八月一五日の手紙は、「何だと女の崇りで眼がわろくなつたと、笑ハしやァがらァ、此頃の熱さでハのぼせがつよくてお気の毒だねへ」という、落語のような口調で始まっている。落ち込んでいる友人を励まそうとして、あえて挑発的かつ攻撃的な文章を子規は書いていく。

「此頃ハ何となく浮世がいやでいやで立ち切れず」ときたから又横に寝るのかと恩へバ今度ハ棺の中にくたばるとの事、あなおそろしあなをかし。最少し大きな考へをして天下不大瓢不細(天下は大ならず、瓢は細ならず)といふ量見にならでハかなハぬこと也

・・・・・それは常に子規の病状を気道う言葉を、漱石が滑稽化して書き送ってくれていたことに対する応答でもあった。「自殺」願望をめぐる手紙のやり取りは、子規と漱石の生涯を貫く関係性となる。

しかし漱石の方は、本気で傷ついてしまう。この子規の手紙への返信で、「女崇の攻撃昼寝の反対奇妙奇妙然し滑稽の暁を超えて悪口となりおどけの旨を損して冷評となつては面白からず」と書き送っている。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

8月15日付け子規の返信。

何だと女の祟りで眼がわろくなったと、笑ハしやァがらァ、此頃の熱さでハのぼせがつよくてお気の毒だねへといハざるべからざる厳汗の時節、自称色男ハさぞさぞ御困却と存候。併(しか)シ眼病位ですみとなり、まだ顋(あご)蝿を逐ハぬ処がしんしようしんしよう。僕君の眼を気遣ふてこれを卜するに悲しや易の面、甚だよろしからず・・・・・

朝寐ハのら息子、昼寐ハ盗人と相場のきまりたるものを得意顔にゐばるとハ笑止の至り也。夢中の美人を画にかいた牡丹餅よりもはかないものとも知らでこれを楽むハ、君ら未だ色男の堂に上らざるが故ならん。まして美人を夢ミるの趣向ハ君の発明にハあらず。・・・・・

自作の西行の句を名吟とハさてもさても豆のやうな量見也。但シ、

西 行 も 笠 ぬ い で 見 る ふ じ の 山

と書バ意味合も変り富士を尊とむの事となる故一段の光栄あるべし。僕が近製に、

日 の 本 の 俳 諧 見 せ ふ ふ じ の 山

余り見識が大なから(ママ)君の咽喉へハ呑ミこめないこと疑なし。さりとてそねむなそねむな。

二度目の御手紙ハ打つて変つておやさしいこと、ああ眼病ハこんなにも人を変化するや物のあハれもこれよりぞ知り給ふべきといとゆかし、鬼の目に涙とハこの時ヨリいひならハしけるとなん。

(略)

この頃ハ何となく浮世がいやでいやで立ち切れず」ときたからまた横に寐るのかと思へバ今度ハ棺の中にくたばるとの事、あなおそろしあなをかし。最少し大きな考へをして天下不大瓢不純〔天下は大ならず、瓢は細ならず〕といふ量見にならでハかなハぬこと也。けし粒ほどの世界に邪魔がられ、うぢ虫めいた人間に追放せらるるとハ、てもさても情なきことならずや。・・・・・

この頃、漱石は、箱根に滞在し、漢詩十数首を作る。

「八月十六日(土)から二十日(水)の間(不碓かな推定)、東京を出発、箱根に向う。新橋停車場から国府津停車場まで汽車で行き、その正面にある小田原馬車鉄道株式会社待合所で十分ほど待ち、小田原を経て早川を渡り、西岸を少し走り、再び東岸に出て、湯本温泉の福住橋際停車場に着く。二十日間ほど芦の湖南岸、旧箱根関所跡に遊ぶ。元箱根まで友人(不詳)を送る。(不確かな推定)漢詩十数首を作る。眼病よくない。」

「九月上旬、箱根町から東京に煽る。」(荒正人、前掲書)

■傷ついた漱石

8月下旬、気分を害した漱石は子規宛てに手紙を書く(「詩神は仏なり仏は詩神なりといふ議論斬新にして面白し」)。

さすが詩神に乗り移られたと威張られる御手際、読み去り読み来つて河童の何とかの如くならず。天晴れ天晴れかつぽれかつぽれと手を拍(うち)て感じ入候。しかし時々は詩神の代りに悪魔に魅入られたかと思ふやうな悪口あり。・・・・・

(略)

女崇の攻撃昼寐の反対奇妙奇妙。しかし滑稽の境を超えて悪口となりおどけの旨を損して冷評となつては面白からず。それも貴様の手紙が癪に障るからだと言は〔る〕れば閉口仕候。悟道徹底の貴君が東方朔(とうほうさく)の囈語(げいご)に等しき狂人の大言を真面目に攻撃してはいけない。(略)

詩神は仏なり仏は詩神なりといふ議論斬新にして面白し。君能く色声の外に遊んで清浄無漏の行に任し自己の境界を写し出されたとすれば敬服の外なし。今より朋友の交を絶ち師弟の礼を以て贄(し)を執り君の門に遊ばんかね。しかし例の臆測的瑞摩(しま)的の議論なら一切御免蒙る。(悟れ君)なんかと呶鳴つても駄目だ。(狐禅生悟り)などとおつにひやかしたつて無功とあきらむべし。また理窟詰め雪隠詰めの悟り論なら此方も大分言ひ草あり。反対したき点も沢山あれどこの頃の天気合ひ、とかくよろしからず。攫(つか)み合ひ取組合ひ果ては決闘でもしなければならぬやうになるとどつちが怪我をしても海内幾多の美人を愁殺せしむるといふ大事件だから、一先づここは中直りをして置きましよう。いづれ九月上旬には詩神にのりうつられたといふ顔色しみじみと拝見可仕候。

君が散々に僕をひやかしたから僕も左の一詩を咏じてひやかしかへす也。

(略)

君の説諭を受けても浮世はやはり面白くもならず。それ故明日より箱根の霊泉に浴しまたまた昼寐して美人でも可夢(ゆめむべく)候。

(略)

■謝罪する子規

8月29日、この日付けで子規は漱石に宛てての手紙を出し、子規の手紙で傷ついた漱石へ率直に謝罪する(「俗世界へ手紙を出すことハ先づこれにておしまひ」)。あのプライドの高い子規が、、、である。

御手紙拝見寝耳に水の御譴責状ハ実ニ小生の肝をひやし候(ひやし也ひやかしにあらず)君を褒姒視(ほうじし)するにハあらざれど一笑を博せんと思ひて千辛万苦して書いた滑稽が君の万怒を買ふたとハ実に恐れ入つた事にて小生自ら我筆の拙なるに驚かざるを得ず何ハともあれ失礼之段万々奉恐入候。犬の糞のかたきのとそんな心得ハ毛頭も無御坐人がひやかしたからひやかしかへすの、ヤレ師弟の礼を執るのともうもう穴へでもはいりたき心地致し候。しかシしやれがこふじてつかみあひになるなどとハ君と小生との如き両大人の間に起るべきことにもあらず。かツまた狐禅生悟りが君をひやかしたなどとハよつぽどおかしい見様じやないかねへ。変てこてこへんだわい。

(略)

■「彼らの行きちがいの根は深い」

「彼らの行きちがいの根は深い」とする粟津則雄の解説がいい。

「だが、彼らのこういうやりとりには、単なる行きちかいとして片付けられないようなところがある。つねに生き生きとした生命感があふれた、ふしぎな明るさがしみとおった子規の精神には、漱石の暗い内面に入り込むことを拒む動きが見てとれる。喀血というそういう彼の生命感を奥深いところから蝕む出来事を経験しているだけに、いっそうその動きが強まったとも思われる。彼は漱石の言う厭世や自殺から身をひるかえし、滑稽めかして漱石をはげまそうとした。たしかにここには子規のエゴイズムがあるだろうが、喀血してまだ間もない子規に自殺願望を口にする漱石にもエゴイズムはある。そんなふうに考えると彼らの行きちがいの根は深いのである。こういうことは、手さびしい直言以上に人びとの仲を裂くことになりかねないのだが、彼らはよくそういう危機を乗りこえた。この危機をも糧としながら、その友情は深まるのである。」(粟津則雄(『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫)解説))

以上、猛暑で、かつコレラが猛威をふるっていたという明治23年夏の漱石と子規について。


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