2020年12月8日火曜日

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ3)「こう確認してくれば、兆民の悟りなど、まだまだ甘い、この苦しみの中で、俺は楽しみも発見しているのだという子規一流の剛毅さが、兆民への批判を生んだことに思い至る。」   

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ2)「これは漱石への遺書でもある。.....(略).....後半に出てくる「古白曰来」の四文字を記した「日記」とは、他ならぬ『仰臥漫録』のことで、この公開されていない日記の重要な読者として、自分の死後に、自殺熱に侵された自分がどうであったかを伝えるその第一の読み手として、子規は漱石を選んだことになる。」

より続く

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ3)

3 病を楽しむ

中江兆民への批判

子規の病が深刻になってきた、明治三十四年九月二日に出された、民権思想家中江兆民の『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二十三版、二十余万部発行される大ベストセラーとなっていた。「瀕死の報道」という点では子規のライバルである。

兆民が、癌という不治の病に倒れ、迫り来る死との格闘の中で執筆された点が関心を引き、爆発的な売れ行きとなったようだ。しかし、子規は兆民とそれをもてはやすジャーナリズムを批判している。

『仰臥漫録』(十月十五日)では、「居士(兆民-引用者注)はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居候」などと述べている。

子規は、兆民の死への対峙の仕方に、「美」がない、「理」があるのみだと言うのである。

『仰臥漫録』は公開されていなかったが、子規は、新聞『日本』紙上に、十一月「命のあまり」と題して、三回に渡って『一年有半』論を公表する。その第一回目に「居士(兆民-引用者注)は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが出来るであろう」と結んでいる。

この「「あきらめ」以上の域」を、日々書くことで実行していたのは自分であるという自負が子規にはあった。明治三十五年の『病牀六尺』(七月二十六日)で、改めて子規は兆民について書いている。兆民の死から、既に七ケ月が経っている。「「あきらめ」以上の域」を兆民は知らないと批判したことに、読者から疑義が呈されたことへの回答である。

子規はお灸を据えられた子供を引き合いに出して、あきらめがついて我慢してお灸を据えられるだけでは、ただ「あきらめ」ただけである。お灸をすえられる間も、書物を読んだり、いたずら書きをしたりして「楽しむ」ことを発見した時、「あきらめ」を超えた境地がある、と説く。


・・・・・病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ、生きて居ても何の面白味もない。


子規がここでいう、「夫の天命を楽し」む境地とは、儒教の経典の一つ、『易経』の「天を楽しみ、命を知る、故に憂えず」の一節を意識したのであろう。さらに、言えばこうした儒学的「楽」の概念を、より一般に具体化して紹介した書物に儒学者貝原益軒の『楽訓』がある。江戸時代のベストセラ-であった益軒本の影響力は、明治半ばに至っても、まだ教養層には残っていたようで、子規の在籍する新聞『日本』とは提携関係にあり、子規も意識したはずの政教社の志賀重昂のベストセラー『日本風景論』(明治二十七年)の扉にも、『楽訓』の一節は引かれ、外なる欲望の刺激による楽しみでなく、内なる楽しみの好例として、風景を愛し、それを詩歌に詠む日本の伝統を賞揚していた。

子規は、こうした先賢の言を意識しながら、病を受け入れつつ、病の中でも楽しんで生きる境地を模索し、得ることができた、と言いたいのである。既に六月二日の記事にはこうある。


余は今まで禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといぶ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといぶ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。


こうして、子規の「闘病」の「報道」は、他方で、「病を楽しむ」実践としても機能していったのである。

肉体の災禍をも描き切る

「楽しむ」とは言え、それは子規の肉体の条件が、極小の空間に押し込められた結果のものに過ぎない。子規が亡くなる年となった、明治三十五年五月五日、新聞『日本』に、この最後の随筆『病牀六尺』の第一回が載る。


病埜六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。・・・・・


文体はもはや『墨汁一滴』のような文語体ではない。口述筆記になったからでもあろう。一メートル八十センチ四方の極小空間に押し込められた苦悶の中にも、わずかな楽しみがあるというのである。もちろん、苦しみの方が圧倒的に多いなかでの、楽しみに過ぎない。モルヒネを打って、それが効いている間はいいが、切れれば堕地獄の苦しみが待っている。


絶叫。号泣。益々絶叫する、益々号泣する。その苦(くるしみ)その痛(いたみ)何とも形容することは出来ない。・・・・・ (六月二十日)


亡くなる五日前まで、この激烈な痛みは子規を苛んだ。


足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大盤石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏(じよかし)いまだこの足を断じ去つて、五色の石を作らず。(九月十四日)


六年近くの寝たきり生活でやせ細った足が、急に腫れて痛み出したのが三日前のことであったが、それは指先が触れるだけで、天地が裂けるほどであった、という。女媧とは、中国神話上の天地創造の女神で、太古の昔、天を支える四方の柱が傾いて、世界が裂け、大地は割れ、火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う悲惨な有様となった時、五色の石を繰り、それで天を補修し、土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたという(『淮南子』「覧冥訓」)。漢学の教養が根にあった子規は、自分を襲う痛みを、中国の天地創造神話を引いて、最後まで表現者として描ききろうとしたのである。強い意志なしにはできないことである。

こう確認してくれば、兆民の悟りなど、まだまだ甘い、この苦しみの中で、俺は楽しみも発見しているのだという子規一流の剛毅さが、兆民への批判を生んだことに思い至る。


つづく



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