2021年3月13日土曜日

尹東柱の生涯(8)「1938年2月18日 光明中学校を卒業。宋夢奎と共にソウル(京城)の延禧ヨンヒ専門学校(延専、延世大学の前身)文科の入学試験に合格し、早春の頃、同校に入学。ともに寄宿舎に居住」   

尹東柱の生涯(7)「われわれが神社参拝を拒否して龍井に戻り編入した学校は、朝鮮人の皇国化のために建てられた光明学園中学部だった。釜から飛び出たとおもったら炭火の上にしゃがんだ格好だった。日本人の先生たちは、目玉がきちんとついている学生でさえあれば日本外務省の巡査や満州陸軍士官学校に送ろうと血眼になっているような、そんな学校だった。」(文益煥牧師の回想)

より続く

1937年7月7日

盧溝橋事件;日中戦争始まる

1937年

このころ、光明中学のバスケットボール選手として活躍。

尹東柱は中学生時代にも恐ろしいほどの読書家だったという。自分の勉強部屋をもっていたが、いつも夜中2時、3時まで本を読んでいた。あるとき妹・尹恵媛が夜中に起きてみると東柱はまだ明かりをつけて本を見ていたという。尹一柱が作成した「尹東柱の年譜」によれば、「光明中学校時代、日本版『世界文学選集』と朝鮮人作家の小説と詩を耽読する。・・・朝鮮文学作品を新聞と雑誌からスクラップする。李箱の作品イサンをスクラップする」などとなっている。

進学問題をめぐって父親と対立

光明中学5年に進級した頃、尹東柱は延専〔延禧専門学校〕文科へ行くと決めたが、父親は医科に行って医師にならなければと強要した。父・尹永錫は若い頃、北京や東京へ赴き、英語を学ぶなど文学の勉強をしし、一時は明東学校で教師生活もしたし、雄弁や揮毫の才などで名をはせたりもした。しかしあれこれ手をつけてみたものの一度も経済的に自立したことがなく、経済的には父・尹夏鉉に依存していた。自分の半生がそうだったので、息子にはそんな轍を踏ませないように、という意志が強かった。

結局、この対立は祖父・尹夏鉉が仲介して、東柱の主張が容れられることとなった。

宋夢奎の場合は、事情が違っていた。

宋夢奎は雄基警察署から釈放されたあと何カ月ヵ身を休めていたが、その年(1937年)4月に大成中学校(四年制)の4学年に編入していた。そして、宋夢奎が進路を延専文科に決めると父母はそれに賛成した。父・宋昌義は「子どもたちは彼らの意向に沿って育てなければいかん。父母の希望にしたがって育ててはだめだ」と尹東柱の父親の態度を批判していた。

1938年2月18日

光明中学校を卒業。宋夢奎と共にソウル(京城)の延禧ヨンヒ専門学校(延専、延世大学の前身)文科の入学試験に合格し、早春の頃、同校に入学。ともに寄宿舎に居住。

延専1年生の夏休みを迎えて龍井に帰省した尹東柱が光明中学4年生だった張徳順に語ったこと


・・・・・尹東柱はわたしを連れて海蘭江(名はきれいだがかなり殺風景な川だった)の川べりを散歩しながら、文学の勉強の必要性を強調し、文学を学ぼうとするなら自分の行っている学校がもっとも適当だということを力説した。

文学は民族思想の基礎の上に立たなければならないが、延禧専門学校はその伝統、教授陣、そして雰囲気が民族的な情緒を生かすのにもっともふさわしい学びの場だというのだ。当時、満州の地では見ることのできなかった無窮花〔木槿の花〕がキャンパスに満開に咲き乱れ、いたるところにわが国旗の象徴である太極のマークが刻まれており、日本語を使わずに講義を朝鮮語でする「朝鮮文学」講座もあるなど・・・・・わたしの関心をそそる誘惑的な話を、彼は落ち着いて、だが力を込めて聞かせてくれた。

わたしが韓国文学に志をもつようになったのは、開化の先駆者だった祖父と兄のヨハンの影響から始まったが、文学の勉強のために延禧専門学校の文科に籍を置くことになったのは、もっぱら東柱の勧告に従ったのだった。日本人が経営する異郷の中学校から脱出して故国の懐に抱かれたかったし、またキリスト教家庭で生まれたわたしとしては、キリスト教系統の私立学校が故郷のように感じられた。わたしは満足すべき幸福な学究生活を続けることができた。

(張徳順「尹東柱とわたし」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、143-144頁)


延禧専門学校は1915年4月開校。米国キリスト教北長老教、南北監理教、カナダ長老教宣教部の連合委員会の管理下で、キリスト教教育の本山の役割を果たした。延専にとっての最大の危機は「神社参拝」問題だった。平壌の崇実専門学校は廃校を辞さずに立ち向かったが、延専の元漢慶校長は学校を日本人に奪われないよう、「神社参拝」ならぬ「神社参礼」の線で妥協し、廃校を免れたという。


つづく


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