より続く
1935年4月
この頃、東柱のいとこ、宋夢奎は中国の南京にあった独立団体へ赴く。
文益煥の回想
この学校(恩真中学校)でぼくらに絶対的な影響を与えた人は、東洋史と国史〔朝鮮史〕、また漢文を教えた明羲朝という先生だった。彼は東京帝大で東洋史を専攻した方で、東京留学時代に日本人には金を与えまいとして電車に乗らなかったという人だ。いつの休暇のときだったか、龍井から故郷の平壌に行くのに、汽車に乗らず自転車で行ってきた人、ふつうでは想像できないほど偏屈ではあるが、徹底した愛国者だった。彼の東洋史と国史の講義は、ほんとうにおもしろいものだった。彼はぼくらに国史を東洋史との、ひいては世界史との関連の中で見ることができるよう目を開かせてくれたし、祖国光復をはるかな目標とみることができるよう悟らせてくれた。
その明先生が夢奎を中国に送ったことがあった。それが中学校三学年のときのことではなかったか。
ぼくはついに彼がどんな使命を帯びて中国に行ったのか、質問することができなかった。このことによって夢奎はひどく苦労したし、とうとう恩真中学校を卒業することができず、同じ龍井にある大成中学校を出てから延禧専門に進んでくる。
日本の警察は東柱より夢奎にさらに注目していただろう。夢奎が東柱より六カ月刑期が長かったということをみても、推測できることだった。
夢奎はまたすごい友だちで、中学校二年のとき(三年のときのまちがい)東亜日報新春文芸の『コント』に当選した経歴をもっている。東柱は『大器は晩成だ』という言葉をよく口にしたが、それは夢奎を意識していう言葉だった。
恩典中学校の一、二年生のときの東柱は、尹石重の童謡、童詩に心酔していた。
(文益煥「空・風・星の詩人、尹東柱」『月刊中央』一九七六年四月号、三一〇-三一一頁)
宋夢奎の中国在留期間中の足跡
①彼が行った軍官学校の正式名称は「洛陽軍官学校」で、彼はそこで金九派に属した。
②彼は本名のほかに、「王偉志、宋韓範、高文海」という三つの別名を使っていた。
③1936年(昭和11年)4月10日に山東省省都の済南で、済南駐在の日本領事館警察に検挙された。
④その結果、この時点で日本の特高警察のブラックリストに載せられた。
そのときから宋夢奎が「要視察人」として監視されており、このため1943年7月、京都で宋夢奎、尹東柱などの検挙事件が起こることになる。
朝鮮人軍官学校設立の動機
この軍官学校の設立契機とその内容が臨時政府主席であった白凡・金九の著書『白凡逸志』に次のように記載されており、そのいきさつは明確に知られている。一九三二年四月二九日に尹奉吉義士が上海の虹口公園で壮烈な義挙〔天皇誕生日を祝う「天長節」行事の会場に爆弾を投じ、陸軍大将白川義則らが死亡、上海駐在公使(のち外相)重光葵らに重傷を負わせたいわゆる「虹口公園爆弾事件」〕を成功させるや、初めて臨時政府に好意を示しはじめた中国国民党と蒋介石主席の積極的な関心が朝鮮人軍官学校設立の動機であり背景となったというのである。
(略)
・・・・・洛陽軍官学校の朝鮮人組が一九三三年一二月にとくべつに設置され九二名の朝鮮人学生を秘密に募集した。一九三四年二月から実際に軍事教育が始まった。もちろんその財政支援は蒋介石政府が全的に受けもった。学制は一年制だった。宋夢奎はここに第二期生として入学するために出かけていったのである。
当時中国政府は日本との関係を考慮して、この朝鮮人軍官学校の存在を極秘にした。中国政府の公式軍事教育機関で朝鮮独立軍を養成しているという事実が日本に知られたら、大きな問題になるためだ。当時はまだ中・日戦争が開戦する前だったのである。だから秘密を維持するために朝鮮人をあらかじめ中国人として偽装し、学生たちはみな中国式の名をつけて使用していたことが関連資料から明らかになっている。宋夢奎が中国式の名である「王偉志」をはじめ三つの別名を使っていたことも、こうした事情に由来するものだ。
羅士行牧師の洛陽軍官学校に関する証言
・・・・・宋夢奎の恩真中学校での一年先輩になり、洛陽軍官学校第二期の同期生である羅士行(一九一四年、平安南通開川出生)牧師である。羅士行牧師もやはり一九三五年四月に洛陽軍官学校に入学するために中国にわたった。宋夢奎は彼より先に行ったので、中国に行ってから宋夢奎に会ったのだという。
・・・・・
- 洛陽軍官学校の話はいつどんな経路で聞くことになったのですか?
第一期生が教育を受けていた一九三四年当時、わたしは恩真中学校四年の卒業組でした。そのときわれわれの歴史の先生だった明議朝先生がわれわれに、「こんな事官学校ができて、わが校出身者の中からもそこに行った人がいる」とおっしゃったんです。すでに一期生の中に恩真出身者が行っていたというんです。
- 明先生はどうしてそんな情報を知ったんでしょうか?
先生は金枓奉や金九のような抗日闘争の巨頭たちとも知り合いで、行き来のある間柄だったんです。そんな経路から知ることになりました。
(略)
- (*明先生の影響について)具体的な例を挙げるとどんなことがありましたか?
まずわたしの場合を例に話しましょう。わたしはそのころ李光洙の小説『土』を読んで大きな感銘を受けました(李光洙の『土』は一九三二年四月二一日から三三年七月一〇日まで『東亜日報』に連載された長篇小説で、李光洙啓蒙文学の代表作)。わたしだけでなく当時数多くの若者たちがそうでしたよ。『土』の主人公のように「理想村運動」に生涯をささげようと思い立つのがそのころの流行になるぐらいでした。だからわたしは上級学校進学も崇実専門学校の農業科にしようとあらかじめ決心していました。明先生はわれわれのこういう流行の風潮に楔を打ち込んだんです。彼の話はこういうものでした。
「国家が成り立とうとすれば、国土、国民、主権、この三つがすべて備わっていなければならない。ところがいま、われわれは主権のない奴隷状態だ。主権がなければ何もなしとげることはできない。いまお前たちがしようとしている理想村運動もやはりそうだ。そんなことは個人的な運動だけではとうていやりとげることはできない。理想村運動の目的は何か。人間が人間らしく生きる人生を求めようというところにあるといえる。そうだとしたら、考えてみよう。その住居や生活環境が少しよくなったとしても、それがおかれている状況が主権を奪われた奴隷の立場のままだとしたら、それがどうして人間らしい暮らしになりうるだろうか。だからぽんとうの理想村運動をするためにも、それよりまず優先されねばならないことがまさにわれわれの独立なのだ。」
わたしもその言葉によって崇実専門の農業科に行くのを放棄して、洛陽軍官学校のほうを選ぶことになったのです。
(略)
洛陽軍官学校第一期生は一九三五年四月九日に卒業した。入学者九二名のうち、卒業は六二名。学んだ科目は各種の砲、機関銃の操作法などの一般軍事教育と、革命精神教育などで、軍馬四〇頭が配置され、騎馬術訓練に使用された。
しかし一つの欠点は、学生たちが金九派、金元鳳派(一名・義烈団派)、李青天派など三つの派閥に分かれて対立していたという事実である。支援している中国当局もこの点を憂慮していたという。
これら第一期生が卒業したあと、洛陽軍官学校では公式に朝鮮人組の第二期生を受け入れることはなかったので、宋夢奎たちの場合には厳格に「洛陽軍官学校」と区分される時期の学生であったとはいえない。だから日本でも、資料によっては、彼らを「韓国独立軍特務隊予備訓練所」あるいは「韓国国民党予備訓練所」などの呼称で呼ぶこともある。
当時は国共内戦期にあたり、朝鮮独立派を支援することで日本を刺激したくない蒋介石は独立派への財政支援を中断した。(西安事件は1936年12月12日。これよって、蒋介石の政策は「まず日本を斥けたのちに内部を平定する」ものに変わる)
つづく
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