2021年3月11日木曜日

尹東柱の生涯(6)1936月3月崇実中学校自発退学 「当局の神社参拝強要を拒んで犠牲になった校長・尹山温に対する愛情と共感、そして当局の不当な圧迫と横暴に対する抵抗の手段として、同盟退学を敢行する学生まで現れた。尹東柱、文益煥なども、このとき共に自ら退学した。」  

尹東柱の生涯(5)「尹東柱は(平壌の)崇実中学校で3学年の2学期と3学期を過した。その7ヵ月の間、詩10篇、童詩5篇、合計15篇を書いた」 「釜山中学4年生上本正夫、満州を訪ねる修学旅行の途次、平壌駅で尹東柱と会い、2時間ほど話をかわす。」

より続く

1936(昭11)年1月6日

「ひよこ」という童詩が「昭和十一年一月六日」と昭和年号で登場する。

しかし、同じ日(1936年1月6日)に書かれた童詩「故郷の家」が西暦で年月日を付されている。


抱いてみたいほど愛らしい

山鳩 七羽

空の果てまで見えるような澄んだ休日の朝に

稲穂を獲(と)りこんだ平らかな田で

先をきそって餌をついばみ

こみいった話を交わしあう。


すらりとした羽で静かな空気を振るわせて

二羽があらわれ

巣にいる雛のことを思っているのか。

(1936・2・10)


1936月3月

崇実中が神社参拝拒否問題で廃校処分となり、龍井に戻って光明クァンミョン中学部4学年に編入。(『評伝』では廃校は1938年3月19日で、東柱はその2年前の1936年3月末に自発退学した、としている)

■神社参拝強要と抵抗、同盟退校

朝鮮総督府は1918年、ソウルの南山に朝鮮神社の建築を開始し、1925年に竣工した。その後、この「朝鮮神社」を「朝鮮神宮」と改称し、全国の面〔地方行政単位で、里の上、郡の下〕にいたるまで各地に神社を建立した。さらに1931年の満州事変のあと、「国民精神総動員」という口実で朝鮮民族に神社参拝を強要しはじめた。

神社参拝を西洋の宣教師が経営するキリスト教学校にまで強要することは、平壌で最初に起こった。1935年11月14日、平安南道知事・安武直夫は道内の公・私立中等学校校長会議を召集し、開会のはじめに参席者一同の平壌神社参拝を命じた。このときキリスト教学校から来た3名を除いては、みなそれに従った。

アメリカ北長老教系統の崇実中学校校長兼崇実専門学校(旧韓末に「崇実大学」として認可を受けたが、韓日併合後「専門学校」に格下げされた。日帝当局は朝鮮内での大学としては「京城帝大」のみを置く政策を取ったのである)校長、アメリカ人宣教師・尹山温と、崇義女子中学校の校長代理・鄭益成、そして安息教系統の順安の義明中学校校長の宣教師リーn3名は、教理上参加できないことをあきらかにして、神社参拝命令に応じなかった。

校長会議が終わったあと、知事の安武は3校の校長に、神社参拝は国民教育上の要件であるから、今後参拝に応じないときには断固たる措置をとるほかないと書面で伝えてきた(『崇実大学校九〇年史』三一六頁参照)。こうしてキリスト教宣教師たちの教理を守るたたかいが展開されていった。

1936年1月16日、安武は崇実専門学校および中学校の校長・尹山温と前校長サミュエル・マフェットを道庁に呼び、「今月一八日までに態度を決定すること、参拝しない場合は辞表を提出すること」を指示した。

こうした軋轢の過程で、安息教の義明中学校は神社参拝をする、と屈服した。だが崇実と崇義はあくまで強く反発した。崇実校長・尹山温は「神社参拝を拒むばかりでなく、校長職の辞任もあえて辞さず参拝に応じない」という返書を同月18日午後2時に知事あてに提出した。

その結果、知事は尹山温に対して崇実中学校校長の認可を取り消し、また総督府は1936年1月20日付で崇実専門学校校長職の認可を取り消した。同月21日付で崇義女子中学校校長代理スヌークにたいしても同じ措置をとった(『崇実大学校九〇年史』338頁参照)。

罷免された校長・尹山温は、韓国教会が直面した苦難を慰め激励する長文のメッセージを残して、1936年3月21日、アメリカへ帰っていった。

尹山温の後任にあ、崇実専門の教授だった鄭斗鉱が就任したが、1936年4月新学期が始まるとすぐに学生たちの中から大きな騒ぎが起こった。当局の神社参拝強要を拒んで犠牲になった校長・尹山温に対する愛情と共感、そして当局の不当な圧迫と横暴に対する抵抗の手段として、同盟退学を敢行する学生まで現れた。尹東柱、文益煥なども、このとき共に自ら退学した。

この様な痛みのなかで漂流した尹東柱の母校崇実は、1937年10月29日に提出した廃校願いが、1938年3月19日に当局によって受理され、40年の歴史に終止符を打った(『崇実大学校九〇年史』341頁参照)。「神社参拝か、廃校か」の二者択一を迫った暴力の前で、崇実と崇義の経営主である北長老教宣教部は、むしろ廃校によって宗教的純潔を守ることを決断した。

尹東柱が崇実学校ですごした最後の時期につくった詩「ひばり」

19歳の若さが香って、明るく明朗な世界にたいする憧憬と羨望、そして「重苦しい」現実に対する挫折感が飾りのない言葉で描かれており、彼の7ヵ月にわたった平壌時代の自画像となっている。


ひばり


ひばりは早春の日

じめじめした裏通りが

いやだったんだ。

明朗な春の空

軽やかに両の羽を広げ

妖艶な春の歌が

好きだったんだ。

でもね、

今日も穴のあいた靴をひきずって、

ふらふらと裏通りへ

稚魚のようなぼくはさまよい出たが、

羽も歌もないせいか

胸が苦しいな。

(1936・3) 


つづく

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