2021年3月19日金曜日

尹東柱の生涯(10)「(高沖陽造『芸術学』の)箱表紙に、孟子の一節を書き込む。 孟子の「離婁章句」に収められた「反求諸己」と呼ばれる一節。「諸(これ)を己に反(かえ)り求めよ」とすべてを措いてまずは自分自身を顧みよと、そう戒めている。」

尹東柱の生涯(9)「このような時代に、民族運動の本山である延禧の丘をたずねてくる人たちは、みなそれぞれに志をもってやってきた若者たちだったといえる。(略)尹東柱は外柔内剛の性だといえようか。対人関係が柔和で情が篤く、またおもしろ味はなさそうだがその志操とか意志はあえて誰も動かしえない強固なものだった。」

より続く

1939年

尹東柱は散文「月を射る」(1939年1月)と光明中学のとき書いた詩「遺言」(1937年10月24日)、延専1年生のときの詩「弟の印象画」(日付不詳)の3篇を尹東柱あるいは尹柱という名で『朝鮮日報』学生欄に発表した。また、童詩「やまびこ」を『少年』(日付不詳)に尹童舟という名で発表した。これをきっかけに『少年』の編集者で童謡詩人の尹石重に会い、はじめて原稿料を受け取ったという。

この年、高沖陽造『芸術学』を購入。

この年、9月に散文詩「ツルゲーネフの丘」など4篇の詩を詠んだが、それ以外には月日不詳の1篇があるのみで、寡作に終わった。1940年も、12月に詠んだ2篇の詩以外には1篇のみで、他にはいっさい詩作をしていない。

延禧専門学校の2学年から3学年にかけてであったが、中学以来、絶え間なく続けてきた詩作を、いったん休んで、さらなる飛躍を目指して足元を固めたいとする気持ちだったのだろう。そうした意識のもとに、高沖陽造の『芸術学』も精読されたものと思われる。

本文が始まってほどなくのところ上欄余白に手書きの書き込み

箱表紙に、孟子の一節を書き込む。

孟子の「離婁章句(りろうしょうく)」に収められた「反求諸己」と呼ばれる一節。「諸(これ)を己に反(かえ)り求めよ」とすべてを措いてまずは自分自身を顧みよと、そう戒めている。

1939年9月

2冊目の清書ノートである「原稿ノート 窓」のラスト近くに連続して登場する3篇の詩 - 「月のように」「薔薇(そうび)病んで」と、散文詩と冠された「ツルゲーネフの丘」が、いずれも「十四年九月」「十四、九月」と、昭和年号が付与されている。

「(昭和)十四年九月」と付記された3つの詩は、新京の上本氏のもとに送られた作品だったのではなかろうか。


「月のように」


年輪がひろがるように

月がみちてゆく しずかな夜

月のように さみしい愛が

胸にせつなく

年輪のように 咲きでてゆ〈。


「薔薇病んで」


薔薇病んで

移しかえる隣人がいない。


りんりんりん ひとりさびしく

幌馬車に載せ 山へ送ろうか


ぽー もの悲しい

火輪船に載せ 大洋へ送ろうか


プロペラの音 とどろく

飛行機に載せ 成層圏へ送ろうか


あれも これも

みなやめて


育ちゆく子が夢をきます前に

この胸に埋めておくれ。


「ツルゲーネフの丘」


わたしは峠の道を越えていた・・・そのとき三人の少年の乞食がわたしとすれちがった。

はじめの子は背に籠を負い、籠のなかにはサイダー壜(びん)、罐詰の罐、鉄屑、ぼろ靴下等 廃物がいっぱいだった。

二番めの子も同じだった。

三番めの子も同じだった。

ぼさ、ぼさの髪、まっ〈ろな顔に涙のたまった充血した眼、色をうしない蒼ざめた唇、よれよれの襤褸(ぼろ)、ひび割れたはだし、

ああ どれほどおそろしい貧しさがこの幼い少年たちをのみこんだのか -

わたしは惻隠の情にかられた。

ポケットをさぐった。ふくらんだ財布、時計、ハンカチ・・・あるべきものはみなあった。

だがむやみにこれらを与える勇気はなかった。手でいじくるばかりだった。

親しく話でもしようと「きみたち」と呼んでみた。

はじめの子が充血した眼できょろりとふり返っただけだった。

二番めの子もそうするだけだった。

三番めの子もそうするだけだった。

そしておまえは関係ないとばかりに自分たち同士でひそひそ話しながら峠を越えて行った。

丘の上にはだれもいなかった。

ただ黄昏が迫ってくるばかり -

(1939.9)


「新京日日新聞」社長で文学者だった城島舟礼が感涙したという詩は、おそらくはこの「ツルゲーネフの丘」であったのではないだろうか

「新京日日新聞」社長の城島舟礼が尹東柱の詩を見て涙ぐんだというエピソード。

新京にいた上本正夫に、尹東柱は便りをよこし、詩を送ってきたという。その詩を、城島に見せたというのだ。

詩とともに送られてきたという便りの核となる部分・・・。

「何のために、あなたは満州に行ったのか-?」

と、「満州国」官吏の道を進むことになった上本氏の選択に疑義を唱えるものだった。


「自画像」


山の辺を巡り田圃のそば 人里離れた井戸を

独り尋ねては そっと覗いて見ます。


井戸の中は 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があります。


そして一人の男がいます。

なぜかその男が憎くなり 帰って行きます。


帰りながら ふと その男が哀れになります。

引き返して覗くと男はそのままいます。


またその男が憎くなり 帰って行きます。

帰りながら ふと その男がなつかしくなります。


井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があり

追憶のように男がいます。

(伊吹郷訳)


もともとこの詩は、尹東柱の2番目の清書保存用の詩稿ノートとなった「原稿ノート 窓」のラストに、その原型となった詩が書きこまれている。詩の結末部(最終連)は未完だが、そのタイトルは、「人里離れた井戸」とつけられていた。

詩のタイトルが「自画像」に変わり、詩が今見るかたちへと変貌し、成長してゆく過程で、『芸術学』の読書体験と、そこからの飛躍が大きく作用をおよほしだはず。

1939年11月10日

「朝鮮人の氏名に関する件(創氏改名令)」公布(1940年2月11日施行)


つづく




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