2021年3月22日月曜日

尹東柱の生涯(11)「わたしもゆえ知らぬ痛みに久しく堪えて 初めてここへ訪ねてきた。だが老いた医者は若者の病いを知らない。わたしに病いはないと言う。この堪えがたい試練、この堪えがたい疲労、わたしは腹を立ててはならない。」(「病院」1940年12月)    

尹東柱の生涯(10)「(高沖陽造『芸術学』の)箱表紙に、孟子の一節を書き込む。 孟子の「離婁章句」に収められた「反求諸己」と呼ばれる一節。「諸(これ)を己に反(かえ)り求めよ」とすべてを措いてまずは自分自身を顧みよと、そう戒めている。」

より続く

1940年

代表的な朝鮮語日刊紙『東亜日報』『朝鮮日報』が8月10日付で廃刊。

各種の時局事犯が量産されるなかで、9月には「基督教反工作事件」というものも起こって多くのキリスト教徒が検挙される。

さまざまな生活必需品が配給体制の下で流通するよう、各種の法令によって制度化され、治安当局ににらまれた人びとは配給から除外される。全国的な規模で網の目のようにはりめぐらされた「国民精神総動員連盟」の組織網がすべての国民の日常生活、精神生活を統制する。

尹東柱(延専3年生)の1940年は次の3点で注目される。

一、鄭炳昱チョンビョンウクという生涯の知己に出会った。

二、キリスト教信仰に懐疑を感じた。

三、1年余り擱筆したが12月になって僅か3篇の詩を書いた。


この年(1940年)

鄭炳昱チョンビョンウクが延禧専門学校に入学、親交を結ぶ。

梨花イファ女専の協成ヒョブソン教会にてケーブル夫人が指導した英語聖書班に通う。

鄭炳昱の証言


わたしが尹東柱を知ることになったのは延禧専門学校の寄宿舎でだった。(中略)彼は延禧専門学校の文科でわたしの二年上の上級生だったし、年は五つ上だった。彼はわたしを弟のようにかわいがってくれたし、わたしは彼を兄のように慕った。寄宿舎にいて食事時問になるといつもわたしの部屋に来て、わたしを引っぱっていって食卓につかせるので、わたしは食事がおそくなっても彼がわたしの部屋をノックするまでは彼を待っていた。新入生のわたしは生活の目安を尹東柱によって身につけていき、田舎っぺが東柱にならって垢抜けしていった。書店にいって本を選び出すときにも彼にたずねてみてから買い、田舎の弟たちへの土産を買うときにも彼が選んでくれるものを買って送った。(中略)

彼はたびたび月の明るい夜になるとわたしの部屋にやってきて、ベッドに縮かんで横になっているわたしをひっぼり出した。延禧の森をぬっていき西江の野をつきぬける二、三時間の散策を楽しんで戻ってきたりした。その二、三時間のあいだ彼は別に口を開くことはなかった。ときどき開いてもせいぜい「鄭くん、さっき読んでいた本はおもしろい?」という程度の質問だった。

(鄭炳昱「忘れえぬ尹東柱のこと」『ナラサラン』 23集、1976年、134 - 135頁)


弟、尹一柱の証言


彼の延禧専門二年生の二学期にあたる一九三九年の後半に、わたしたちは龍井の靖安区済昌路一の二〇のもう少し大きい家を買い、修理して引っ越した。カナダ宣教部の租界地で、龍井でもっとも景色のいい丘の下にあり、東柱兄さんの散歩コースとしてはうってつけのところだった。光明中学のときには教会の日曜学校の先生もしたし、延禧専門一、二年生のときまでは夏休みに夏季聖書学校などの手伝いもしたが、三年生になってからは教会にたいする関心が減っていったという感じを受けた。彼の視野が広がり、信仰の懐疑期に入っていたときだったのかもしれない。新しく引っ越していった家でのことだから、彼の三年生のときのことだろう。何かきっかけがあればときどき行う家庭礼拝で、ある日祖父が、「きょうは東柱が祈祷をしなさい」と命じられた。東柱兄さんはひざまずいて、以前とは違ってかなりぎこちなく祈りをささげた。礼拝後わたしたちを見て「祈祷は信仰そのままに変わっていくんだ」といいながらにやっと笑うのだった。

(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン』23集、1976年、157頁)


彼は時代状況に絶望していた。言葉を奪われ姓名までも奪われる圧政下で、ただ屈服する自分や同族の状況。それなのに、ただそれを黙認している神の存在に絶望していたのだろう。


「八福(マタイ福音5章3 - 12)」


悲しむ者は 福(さいわい)がある

悲しむ者は さいわいがある

悲しむ者は さいわいがある

悲しむ者は さいわいがある

悲しむ者は さいわいがある

悲しむ者は さいわいがある

悲しむ者は さいわいがある 

悲しむ者は さいわいがある


わたしたちが永遠(とこしえ)に悲しむのです。

(1940・12、推定)


聖書の言文は、いかのようになっている。


心の貧しい人びとは、幸いである

天の国はその人たちのものである(一)

悲しむ人びとは、幸いである

その人たちは慰められる(二)

柔和な人びとは、幸いである

その人たちは地を受け継ぐ(三)

義に飢え渇く人びとは、幸いである

その人たちは満たされる(四)

憐れみ深い人びとは、幸いである

その人たちは憐れみを受ける(五)

心の清い人びとは、幸いである

その人たちは神を見る(六)

平和を実現する人びとは、幸いである

その人たちは神の子と呼ばれる(七)

義のために迫害される人びとは、幸いである

天の国はその人たちのものである(八)


聖書では、8つの類型の人々が夫々に「福」が約束されている。

しかし、彼の詩「八福」は、朝鮮民族が味わっている凄惨な苦難の現場から、そうした苦難に対して沈黙している神に抵抗した詩だった。彼は「八福」として、「悲しむ者は福がある」という言葉を八度くりかえした。

彼の目には、神が福を受ける人と分類した八つの類型の人びとが - 心の貧しい者、悲しみいたむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者、義のために迫害される者 - まさにこのような人びとだとしても、彼らが朝鮮民族として生を受けた以上はそうした区分はすべてむなしいものだった。だからそんな八つの美徳をもっているとしても、彼らが朝鮮民族である以上は、結局、みな「悲しむ者」であるだけだった。彼は自らが立っている生の現場でそのことを感じ、体験した。だから、あの八つの類型区分を「悲しむ者」を八回くりかえすことで代えてしまった。

こうすることで彼は、その八つの類型の人びとに、約束された八つの福 - 天の国、慰労、地、義で満たされること、憐れみを受けること、神を見ること、神の子とよばれること、天の国 - このような神の保証が与えられると信じることができなかった。われわれに与えられたのは「永遠の悲しみ」だけだと、彼は断定した。


「慰め」 (原題は「慰労」)


蜘蛛(くも)というやつが 邪悪(よこしま)な心で 病院の裏庭 手摺りと花壇のあいま 人の入らぬ処に巣を張っておいた。野外療養を受ける若い男が横たわった真上に -


蝶が一匹花壇に飛んできて蜘蛛の巣にかかった。黄色い翅をもがけば  ますますからまるだけだった。蜘蛛が矢のように走って行き つぎつぎに糸をくり出し 蝶の身を見るまに巻きつけてしまった。男は深い嘆息(ためいき)をついた。


齢にまさる無数の苦労のすえ 時を失い病いを得たこの男を慰める言葉が - 蜘蛛の巣を打ちはらうほかに 慰めの言葉がなかった。


1940・12・3

(伊吹郷訳)

この詩の裏側に「病院」の下書きがある。「慰労」は「病院」を生む一里塚となった作品。「病院」では、「蜘蛛」は消えたが「蝶」は残っている。


「病院」


杏(あんず)の木陰で顔を遮り、病院の裏庭に横たわって、若い女が白衣の裾から白い脚をのぞかせ日光浴をしている。半日すぎても 胸を病むというこの女を訪ね来る者、蝶一匹もいない。悲しみもない杏の梢には風さえない。


わたしもゆえ知らぬ痛みに久しく堪えて 初めてここへ訪ねてきた。だが老いた医者は若者の病いを知らない。わたしに病いはないと言う。この堪えがたい試練、この堪えがたい疲労、わたしは腹を立ててはならない。


女はつと起(た)つて襟をただし 花壇から金盞花(きんせんか)を一輪手折って胸に挿し 病室へ消えた。わたしはその女の健康が - いやわが健康もまたすみやかに回復することを希いつつ 女の横たわつていた場所(ところ)に横たわつてみる。

1940・12

(伊吹郷訳)


1940年12月8日

河出書房『現代詩集』3巻セットを有吉書店でまとめて買う。

有吉書店はソウルの積善町(現・積善洞)にあった古書店で、尹東柱はよくここで本を買っている。書店のシールが巻末に貼られたままになっているので、購入場所を特定できる。


つづく

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