2021年3月12日金曜日

尹東柱の生涯(7)「われわれが神社参拝を拒否して龍井に戻り編入した学校は、朝鮮人の皇国化のために建てられた光明学園中学部だった。釜から飛び出たとおもったら炭火の上にしゃがんだ格好だった。日本人の先生たちは、目玉がきちんとついている学生でさえあれば日本外務省の巡査や満州陸軍士官学校に送ろうと血眼になっているような、そんな学校だった。」(文益煥牧師の回想)     

尹東柱の生涯(6)1936月3月崇実中学校自発退学 「当局の神社参拝強要を拒んで犠牲になった校長・尹山温に対する愛情と共感、そして当局の不当な圧迫と横暴に対する抵抗の手段として、同盟退学を敢行する学生まで現れた。尹東柱、文益煥なども、このとき共に自ら退学した。」

より続く

1936年4月10日

尹東柱の従弟・宋夢奎は1936年4月10日、中国山東省済南で済南駐在日本領事館警察に逮捕され、6月27日、済南から本籍地である咸鏡北道の雄基ウンギ警察署に押送される。そこで拘禁、取り調べを受ける。その後も、要視察人として警察の監視対象となる。

羅牧師も上海で日本の警察に逮捕され、本籍地である平安道へ押送され、約1年間、平壌警察署の留置場ですごす。日本警察の極秘文書にある「検挙一覧表」を見ると、洛陽軍官学校の出身者たちは既に1935年10月から逮捕されていた。

『東亜日報』(1936年8月26日付)には、羅士行についての司法処分結果が報道されている。平壌警察署では逮捕した軍官学校関係者たちに対し9ヵ月間にわたる取調べを終え、8月25日、羅士行など3名を「治安維持法違反」で拘束し、平壌地方法院検事局に送致し、残りは不拘束処分としたという。羅士行牧師本人の言葉によれば、彼は当時、執行猶予で釈放されたという。

宋夢奎は雄基警察署から釈放されたのち、居住制限を無視して北間島の家に帰って療養していたが、翌年1937年4月に龍井の大成中学校(4年制)の4学年に編入した。中国在留と、雄基警察署、清津での拘禁生活によって2年間中断した学業を、彼は再び始めた。大成中学校に編入した時から、再び龍井の尹東柱の家で暮らしながら学校に通った。彼は編入のとき、ミッション系である恩真中学校に入ろうとしたが、当時、恩真中学校も厳しい監視と査察を受けている時だったから、問題学生を受け入れることはできなかったという。

このとき宋夢奎が敢行した中国行きが後日、宋夢奎自身と尹東柱を日本の監獄で獄死させるよう追い詰めていく直接の原因となった。このときから日本の警察が宋夢奎を「要視察人」として監視し、彼らを逮捕して裁判にかけ、投獄した監獄の中で、あいついで獄死させたのである。

1936年4月

尹東柱と文益煥、龍井に戻って光明学園中学部に編入。

龍井には男子中学校として恩真(キリスト教系)、大成(民族主義系)、東興(社会主義系)、光明(親日系)の4校があった。前3校は反日系の4年制学校で光明が唯一の5年制学校であり唯一の親日系中学校だった。

光明は永新学校という1912年発足のキリスト教系の学校で、龍井では唯一初めから5年制で発足した。ところが1924年(甲子年)の凶作の余波を受け、深刻な経営難に陥り、その頃、北間島にきていた日本人(大陸浪人)日高丙子郎に売却された。

日高丙子郎は学校の名を「光明」に変えると、東京帝大出身の優秀な日本人を呼び寄せ、教師として据えた。なかでも安部は、東京帝大出身で日本でも優秀な校長として数えられ、同じ東京帝大出身の工藤重雄も、教師として連れてきた。そこに女学校までつくって、中学部、高等女学部、小学校、幼稚園の4校で構成する光明学園が築きあげられた。日高丙子郎は日本の外務省に話をして、光明学園を日本文部省の「在外指定」学校にさせた。

文益煥牧師の回想

われわれが神社参拝を拒否して龍井に戻り編入した学校は、朝鮮人の皇国化のために建てられた光明学園中学部だった。釜から飛び出たとおもったら炭火の上にしゃがんだ格好だった。日本人の先生たちは、目玉がきちんとついている学生でさえあれば日本外務省の巡査や満州陸軍士官学校に送ろうと血眼になっているような、そんな学校だった。

(文益煥「空・風・星の詩人、尹東柱」『月刊中央』1976年4月号、33頁)

光明学園中学部の出身者たちの中からは、丁一権をはじめ満州軍官学校に進学して満軍将校になった人が多かった。彼らが後日韓国の現代政治史においていわゆる「満軍人脈」と呼ばれる人びとの主流となる。そして、このように軍の要職についた満軍出身の高位将校たちの相当数が、やはり満軍の出身者である朴正熙の五・一六クーデターに賛同て第3共和国の主役として登場する。

「こんな日」


仲良く並んだ正門のふたつの石柱の端に

五色旗と太陽旗がはためく日、

線を引いた地域の子どもたちがよろこんでいる。


子どもたちには一日の干からびた学課で

白々した倦怠が巣ごもり

「矛盾」の二字を理解できないほど

頭が単純になったんだね。


こんな日には

いまはいない頑固だった兄を

呼んでみたい。

(1936・6・10)


「仲良く並んだ正門のふたつの石柱」は光明中学校の門柱で、石柱の端に満州帝国の国旗である五色旗と日本帝国の国族である太陽旗〔日章旗〕がはためいている。侵略者たちの祝祭日。「線を引いた地域の子どもたち」も、やはり「よろこんでいる」ことに心痛める。「今はいない頑固だった兄」は、彼の母方のいとこ宋夢奎を指していたのだろうか。

光明中学在学の2年間に尹東柱はたくさんの作品を生み出した。転校した1936年4月から年末までの9ヵ月間に詩12篇、童詩16篇を書いている。だが37年になると童詩の比重が減り、詩15篇、童詩6篇だった。

また、2年間に5篇の童詩を子供雑誌に投稿し採用された(当時延吉で発行されていた『カトリック少年』、筆名尹童柱)。


ひよこ 1936年11月号

はうき 1936年12月号

寝小便小僧の地図 1937年1月号

なにをたべて生きるか 1937年3月号

うそ 1937年10月号


なにをたべて生きるか


海辺の人

魚をとってたべて生き


山里の人

草をやいてたべて生き


星の国の人

なにをたべて生きるか。

(1936・10)


この時期に書かれた詩の中では「日溜まりで」がもっとも広く読まれている。


むこうへ 黄土をはこんだこの地の春風が

胡人の糸車のように回って吹きすぎ


まだら模様になった四月の太陽の手が

壁を背にした悲しい胸の一つ一つに触れる。


地とり遊びで 誰の土地か知らない子ふたり

指尺の幅が短いのを恨む


やめろ! そうでなくてもはかない平和が

壊れやしないか 気がかりだ。

(1936・6・26)

胡人;満洲族


つづく





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