2021年3月16日火曜日

尹東柱の生涯(9)「このような時代に、民族運動の本山である延禧の丘をたずねてくる人たちは、みなそれぞれに志をもってやってきた若者たちだったといえる。(略)尹東柱は外柔内剛の性だといえようか。対人関係が柔和で情が篤く、またおもしろ味はなさそうだがその志操とか意志はあえて誰も動かしえない強固なものだった。」    

尹東柱の生涯(8)「1938年2月18日 光明中学校を卒業。宋夢奎と共にソウル(京城)の延禧ヨンヒ専門学校(延専、延世大学の前身)文科の入学試験に合格し、早春の頃、同校に入学。ともに寄宿舎に居住」

より続く

この頃(1937~1938)の情勢

1937年

6月、知識人150余名を治安維持法違反の嫌疑で拘束する「修養同友会事件」

7月、日中戦争が勃発。

8月、朝鮮総督府はソウルに灯火管制を敷いて戦時の雰囲気をつくる。

1938年

2月、朝鮮人を対象とする「朝鮮陸軍支援法令」公布。

2月、「神社参拝拒否」によって平壌神学校教授と学生たちが拘束され、「興業倶楽部事件」で民族主義者多数が検挙される。延専の朝鮮語教授でハングル学者のウェソル崔鉉培は、事件にかかわっていたとして、治安当局の圧力により教授職を辞めねはならなくなったが、延専は彼を「図書館嘱託」に任命し、ひきつづき教職員として継続して学生たちに講義できるようにした。

5月、「国家総動員法」を朝鮮に適用。

3月、「修養同友会事件」で拘束された独立運動家安昌浩〔1978~1938〕が病気保釈中の大学病院で死亡。

7月、張鼓峰で日本軍とソ連が衝突。


尹東柱と同期入学の柳玲ユヨンの回想

このような時代に、民族運動の本山である延禧の丘をたずねてくる人たちは、みなそれぞれに志をもってやってきた若者たちだったといえる。学生たちはそういう姿勢や精神で集まってきたし、また教授もやはりわが同胞の学問と精神を導くもっとも著名な人びとだったことはいうまでもない。

(略)

だから尹東柱は夢に描いた学園に、青雲の志を抱いてやってきたのだ。一人で来たのではなく、いとこの宋夢奎といっしょに来た。血縁関係があるとはいうものの、顔も似ており背も同じぐらいで、まるで双子のようだった。同じ環境から同じ学園に来たので、自然に学生生活も同じ道を歩んだ。最初は、いま尹東柱詩碑が建っている場所の背後にある寄宿舎でいっしょに暮らした。ところがこの二人の性格はまるで反対だといっていい。東柱はおとなしくてあまりしゃべらず行動がめだたないが、夢奎は言葉が荒っぽくて大ぶろしきを広げる言い方であり、行動半径の大きい人だった。そうでありながら詩をともに勉強し創作もともにした。そうした性格は詩にもあらわれて、二人はよい対照をなした。しかし、その性格の違いが二人のあいだになにかの不和やひびを生んだのを、わたしは一度も見たことも聞いたこともなかった。

いわば尹東柱は外柔内剛の性だといえようか。対人関係が柔和で情が篤く、またおもしろ味はなさそうだがその志操とか意志はあえて誰も動かしえない強固なものだった。(中略)当時の友人には童謡・童話などでとても活躍した厳(オム)ダルホがいた。またパンソリにまっさきに手をつけた金三不、いつも外を歩き回っている風流人金(キム)ムヌン、英語の達人といわれた韓(ハン)、姜処重がおり、現在ハングルの碩学となっている許雄、現・漠陽大教授の李(イ)スンボクなど、そのほかに今見ても指導的な人物がたくさん席を占めて、ともに講義を聴き勉強した。


入学と同時に寄宿舎に入った尹東柱は、宋夢奎、姜処重とともに三人で一部屋を使った。新入生の彼らに割り当てられた部屋はもっとも高い三階の一部屋。その部屋の窓辺から見下ろしたある秋の日の月夜の風景を、尹東柱は「秋の空はやはり澄んで、うっそうとした松林は一幅の水墨画だ。月光は松の枝々にかかり、風のようなひゅうっという音が聞こえるようだ」と描写した(一九三八年一〇月に書いた散文「月を射る」)。

入学したこの年(1938年)に尹東柱は「あたらしい道」をはじめ8篇の詩、「こだま」をはじめ5篇の童詩(1938年以降、童詩を書かなくなった)、それに「月を射る」という散文1篇を書いた。

尹東柱は、毎月、朝鮮日報から出ていた『少年』という子どもの雑誌を買って弟の一柱に送っていた。龍井の家では『少年』が届くと弟妹がわれ先に見ようと争うほど人気があった。ところが、東柱が、弟妹に『少年』誌など文学書をたびたび送ってよこすのを知った父親が東柱に「そんな本は送るな。おまえの弟妹まで文学者にしようというのか」とひどくしかりつける手紙を書いて送ったという。

「あたらしい道」(尹東柱が延専に入学して初めて書いた詩)


川を渡って森へ

峠を越えて村へ


きのうも行き きょうも行く

わたしの道 あたらしい道

タンポポが咲き カササギが飛び

娘が通り 風が立つ


わたしの道は いつもあたらしい道

ぎょうも・・・・・あすも・・・・・


川を渡って森へ

峠を越えて村へ

(1938・5・10)


童詩「こだま」


カササギが鳴いて

こだま、

たれも聞かない

こだま。


カササギが聞いた、

こだま、

あいつだけが聞いた、

こだま。

(1938・5)


「愛の殿堂」


順スンよ おまえはぼくの殿堂にいつ入ってきたのか?

ぼくは いつおまえの殿堂に入っていったのか?


われら二人の殿堂は

古風な風習のこもった愛の殿堂


順よ雌鹿のように 水晶の目をつぶれ。

ぼくは獅子のように 乱れた髪をととのえる。


われら二人の愛は ただ沈黙だった。

聖らかな燈台の熱い灯が消えるまえに

順よ おまえは前門へ駆けて行け。


闇と風がわが窓を叩くまえに

ぼくは永遠の愛を胸に抱いて

裏門から遠くへ消え去ろう。


いまや おまえには森のしずかな湖があり

ぼくには険しい山脈がある。

(1938・6・19)


「順」(後には「順伊」と変形)という特定の女性名を使用し、男女の愛を、それも遂げられない悲しい愛をうたった最初の詩。詩のイメージはのちに「少年」(1939年)、「雪の降る地図」(1941年3月3日)などで「順伊」という名にこめられてくりかえされ、増幅しながら深められる。

「いまやおまえには森の中のしずかな湖があり/ぼくには険しい山脈がある」という最後の連に、犠牲と苦難を甘受しようという尹東柱的なヒューマニティが初めてはっきりした姿で現れる。この特質はのちに詩「十字架」においてその頂点をあらわすことになる。


夏休みに帰郷した時の詩

「悲しい一族」


白い布が黒い髪を包み

白いコムシンが荒れた足にかかる。


白いチョゴリ・チマが悲しい躯をおおい

白い紐が細い腰をぎゅっと締める

(1938・9)

コムシン=ゴム製の靴。


この時点(1938年)での彼の民族意識の形象化。「悲しい一族」として把握した。


「弟の印象画」


あかい額に冷たい月光がにじみ

弟の顔は悲しい絵だ。


歩みをとめて

そっとかわいい手を握りながら

「大きくなったらなんになる」

「人になるの」

弟のことばが、たしかにつたない答えだ。


握った手を静かに放し

弟の顔をまた覗いて見る。


冷たい月光があかい額に射して

弟の顔は哀しい絵だ。


1938・9・15

(伊吹郷訳)


つづく



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